17話 : 並んで歩く
冬の終わりが近づいていた。
庭の外れの地面にはまだ霜が降りている。だが土の下に、かすかな緩みがあった。呼吸のように——凍てついていたものが、ほんの少しだけほどけ始めている。枯れ草の根元には、まだ誰にも気づかれていない小さな芽が一つ、土を押し上げていた。
朝の光は薄い。朔は庭の外れの定位置に立ち、呼吸を整えた。
法力を臍下に集める。指先に向けて流す。六角格子の形を思い描きながら——手のひらを前にかざした。
光がちらつき、揺れ——散る。
もう一度。法力の細い道筋を意識する。流れを指先に集め、膜のように広げようとする。——ちらつき、一瞬だけ形をとり、ほどけた。
朔は息を吐いた。白い息が冬の大気に溶ける。それでも繰り返す。十二回、十三回——指先で微かに弾ける法力の音が、静かな庭の空気に吸い込まれていく。
足音が聞こえた。
門の方角からではない。正面からだ。松の木立の間を、覚えのある影が歩いてくる。
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凌だった。
濃紺の短い髪。袖を捲り上げた衣。肩に担いだ木刀。——前に慧に連れられてきたときと、変わらない格好だった。ただ一つ違うのは、隣に兄の姿がないことだった。
凌は朔のいる庭の外れまで来ると、足を止めた。
「……おう」
それだけだった。朔から五歩ほど離れた場所に立ち、空を一度見上げてから——木刀を肩から下ろし、両手で握った。
「今日は一人で来たの?」
朔が聞くと、凌は「慧兄に道だけ聞いた」とぶっきらぼうに答えた。それ以上の説明はなかった。理由も、前触れもなかった。ただ、ここにいる。それだけの存在感があった。
凌は木刀を構えた。
素振りを始める。短いが太い木刀を、何度も何度も同じ軌道で振り下ろす。空気を裂く鈍い音が、庭に一定の拍子を刻んだ。振り下ろすたびに、凌の拳の内側から法力が微かに散るのが見えた——刃に纏わせようとして、纏わせきれていない。法力が木刀の表面を滑り、弾けて霧散する。
何度やっても、結果は同じだった。凌の顔に苛立ちの色はない。ただ、また振る。
——似ている、と朔は思った。
自分が結界を形作れずに何十回も繰り返すのと、凌が法力を刃に乗せられずに何十回も振るのと。方向は違うが、その構造は同じだった。
成功していない。でも、やめない。
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時が流れた。
二人は一言も交わさなかった。
朔は結界術の型を繰り返す。凌は素振りを繰り返す。松の枝から霜が溶け落ちる微かな音と、朔の指先で法力が弾ける音と、凌の木刀が空を切る音。それだけが庭を満たしていた。
朔は横目で凌の素振りを見ていた。何百回振っても、軌道がまったくぶれない。足の位置、腰の入れ方、振り下ろす角度。そのすべてが毎回同じだった。——いや、同じではない。微細に、ほんの少しずつ修正を加えている。朔の目にはそれが見えた。拳の内側の法力の散り方が、振るごとにわずかに変わっている。凌もまた、試行を重ねているのだった。
凌もまた朔を見ていた。——ということに、朔は途中で気づいた。凌の視線が、素振りの合間に朔の指先に向けられている。見ている。ただ、何も言わない。
半刻ほど経った頃、凌は木刀を下ろし、汗を袖で拭った。朔もほぼ同時に手を止めた。どちらが先に休もうと提案したわけでもない。ただ二人の呼吸が、いつの間にか同じ間隔になっていた。
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休憩のとき、凌が不意に木刀を朔の方に差し出した。
「……持ってみるか」
朔は戸惑った。凌が自分の木刀を人に触らせるということの意味を、言葉にはできなかったが——重いものを感じた。
受け取ると、予想以上にずしりと腕に来た。自分が日々触れている法力の感触とはまるで違う。指先で編むものではなく、体の軸で振るもの。重心が手のひらの中で沈み込み、握れば握るほど自分の細腕では扱いきれないことを思い知らされる。
「振ってみろ」
凌が短く言った。朔は見よう見まねで構え、ぎこちなく振り下ろした。木刀が空気を打った感触が、肩から肘まで鈍く響いた。
「力じゃねぇ」
凌が言った。
「刃の先だけを見ろ」
短い指導だった。でも朔はその一言で、凌が木刀を振るときに見ているものが少しだけわかった気がした。凌の目は拳を見ていない。手首を見ていない。刃の先端——切っ先が空気を切る、その一点だけを追っている。
もう一度振った。切っ先だけを意識して。——今度は少しだけ、音が変わった。
凌は何も言わなかったが、わずかに顎を引いた。
朔は木刀を返した。握り手に凌の体温が移っていて、掌が温かかった。
「……重いね」
「慣れる」
凌はそれだけ言って、木刀を受け取った。
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昼餉を挟み、午後の陽が傾き始めた頃、朔は鍛錬を再開した。
いつもの型を繰り返す。六十四回目、六十五回目——指先で法力が弾けるたびに、薄い光が宙に散る。
凌も素振りを再開していた。拳の内側の法力は相変わらず刃には乗らず散っているが、散り方が午前よりも少しだけ細かくなっていた。
朔は意識を自分の手の中に戻した。法力の流れを限りなく薄くする。引き伸ばすのではなく——薄く、広く、膜のように。
七十三回目。指先に光がちらついた。
七十四回目。光が一瞬だけ留まった。
七十五回目——
光が、形を結んだ。
朔の指先の五寸ほど先に、薄い法力の膜が広がった。以前のように一瞬で消えなかった。揺れてはいたが、留まっている。一拍。二拍。三拍——
形がわずかに変わった。
平面ではなかった。膜の中央がごく微かに凹み、薄い碗のような——水鏡のような曲面を描いている。光がその表面を走り、凹みの中心に向かって集まるように見えた。
四拍——限界だった。膜がほどけ、光が散った。
朔は自分の指先を見つめた。今の形は意図したものではなかった。六角格子を作ろうとしていたはずなのに、出来上がったのは凹んだ曲面だった。光を集める形。——不思議だったが、それ以上の意味は、今の朔にはまだわからなかった。
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「——今のは前より長かった」
凌の声が不意に降ってきた。素振りの姿勢のまま、こちらを見ていた。木刀を肩に担ぎ直しながら、凌は歩み寄ってきた。
「わかるの?」
朔が聞くと、凌は当たり前のような顔で答えた。
「毎日見てるからな」
——毎日。
朔はその言葉が耳に入った瞬間、初めて気づいた。凌は今日だけではなかった。あの冬の日以来——慧に連れられてきた翌日も、その次の日も、雪の朝も、風の強い日も、木刀を担いで何も言わずに、毎日一人でこの庭に来ていたのだ。
朔の鍛錬の回数と時間を、凌は体で覚えているのだ。「前より長かった」とわかるのは、それだけ見ていたから。
「……すごいね、凌」
凌は一瞬きょとんとした。それから「何がだよ」と怪訝な声を出した。
朔は「毎日来てくれるのが」と言って、すぐに後悔した。凌の耳が微かに赤くなった。
「……別に、来たくて来てるだけだ」
「知ってる」
朔は笑った。凌は舌打ちをして、顔を背けた。
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日が傾いた。冬の終わりの夕暮れは、空の端が薄い橙色に染まり始めるのが早い。松の長い影が庭を横切り、二人の足元に冷たい暗がりが広がっていく。
凌が木刀を肩に担いだ。朔も法力の残余を手から払った。
二人は並んで土御門家の門まで歩いた。母屋に近づくにつれ、瑞が夕餉の準備をしている微かな音が聞こえてきた。
庭を歩きながら、朔はふと気づいた。凌の歩幅は朔より大きい。大柄な凌が、知らず知らずに歩幅を縮めて朔に合わせている。
門の手前で凌が足を止めた。
「明日も来る」
「うん」
それだけだった。凌は背を向けて歩き出した。木刀を担いだ影が、夕暮れの里の道に小さくなっていく。
朔はしばらく門の前に立っていた。冬の終わりの風が頬を撫でた。冷たいが、真冬のような容赦のなさはもうなかった。
——「毎日見てるからな」。
凌のあの一言が、耳の奥で静かに響いていた。
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夜。
篝の部屋に入ると、篝は押し花帖を膝の上に広げていた。蓮が前に持ってきた花の名前を、声に出して復唱している。
「ふじばかま、にんどう、りんどう、さざんか、はくばい——」
五つ全部言い終えて、篝は満足そうに頷いた。それから朔に気づいて顔を上げた。
「おかえり、さくにぃ。——今日はあの子、来た?」
「あの子」。篝は凌のことをそう呼んでいる。朔が名前を教えたはずだったが、篝は確認するように毎回「あの子」と言う。
「来たよ。今日も一緒に鍛錬した」
「いいなぁ」
篝がにこにこ笑う。それから少し首を傾げて、朔をじっと見た。
「ねぇ、さくにぃ。その子、さくにぃのお友達?」
朔は考えた。
友達。その言葉の輪郭が、朔にはまだよくわかっていなかった。篝は家族だ。父は師であり、母は導きの人で、兄は目標だ。蓮は従姉で、篝の笑顔を引き出してくれる陽だまりのような人。——では凌は何だろう。言葉を交わさなくても隣にいる。互いの鍛錬を見ている。木刀の重さを手渡してくれた。毎日来る。それだけ。
「……わからない。でも、毎日来る」
篝がくすりと笑った。
「それ、お友達だよ、さくにぃ」
この妹は、朔が知らないことを知っている。自分よりもずっと行動範囲の狭い篝が、人と人の関係に名前をつけることにおいては、朔よりもずっと先を歩いている。
「……そうかもしれない」
朔は小さく笑った。
篝は嬉しそうに帖を閉じた。それから思い出したように顔を上げた。
「ねぇ、さくにぃ。その子も鍛錬してるんでしょ? 木刀だっけ」
「うん」
「まだ上手くいかないの?」
「凌もまだ途中だよ。刃に法力を乗せようとしてるけど、まだ散ってしまうみたい」
篝はしばらく考え込んでいた。それから、ぽつりと言った。
「……同じだね。さくにぃと」
朔は目を瞬いた。
「二人とも、まだできないんでしょ。でも二人とも、やめないんでしょ」
篝の黒い瞳が、灯の光を映して静かに揺れていた。
「だから一緒にいるんだよ、きっと」
朔はそっと篝の髪を撫でた。
「……篝は、すごいね」
「えー、何が?」
「人のことが、よく見えている」
篝は首を少し傾けて、にっと笑った。
「篝はずっとここにいるから。見てることしかできないもん。——でもね、さくにぃ」
篝の声がわずかに落ちた。
「見てるのも、悪くないよ。見てると、いろんなことがわかるから」
篝はそう言って、押し花帖をまた開いた。藤袴の頁に指を添えて、花弁の輪郭をゆっくりとなぞる。
蓮から受け取った花。名前をつけて、書き留めて、自分のものにした花。——篝は「見ている」だけではないのだと、朔は思った。見たものを、静かに、確かに、自分の世界に組み込んでいく人なのだ。
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篝が眠ったあと、朔は縁側に出た。
冬の終わりの夜空は、少しだけ星の数が増えたように見えた。雲の層が薄くなり、その向こうに冬の星座が控えめに光を投げかけている。
朔は自分の右手を見た。
今日、指先に結んだあの光の形を思い出した。法力の流れが自然にあの曲面をとった——まるで、朔の法力がそうなりたがっているかのように。
まだ意味はわからない。だが、指先の記憶は確かに残っている。明日またあの形を再現できるかどうか、試してみよう。
——明日も来る。凌がそう言った。
朔の庭に、もう一人の足音がある。言葉は少なくて、木刀が重くて、歩幅を合わせてくれる人。篝は「お友達」と言った。
その言葉が、夜の冷たい空気の中で不思議なほど温かかった。
庭の隅の枯れ草の根元で、小さな芽が一つ、土を押し上げていた。まだ誰も、それには気づいていない。
春の準備は、もう始まっている。




