16話 : 花の名前を教えて
朝から、篝はそわそわしていた。
枕元の押し花帖を何度も開いては閉じ、白梅の頁を指先でなぞっている。障子の向こうの陽光は薄く、冬の曇り空が庭を灰色に沈めていたが、篝の目は朝から澄んでいた。体調の良い日だった。
「さくにぃ、蓮ねぇ今日来るかな」
朔は水差しを篝の手元に置きながら、少しだけ笑った。
「来るよ。約束してたから」
蓮ねぇ——前回の訪問のあと、いつのまにか篝は蓮をそう呼ぶようになっていた。「蓮ちゃん」から「蓮ねぇ」へ。たった数時間の来訪が、呼び方を変えるほどの何かを篝の中に残したのだ。
篝は帖を膝の上に開いて、白梅の花弁をじっと見つめた。「蓮ねぇ、今度はもっとお花持ってくるって言ってたよね」
「うん」
「篝、名前覚えてるんだよ。白梅でしょ。寒菊でしょ。水仙——」
指を折りながら三つ。それだけで止まってしまい、篝は唇を尖らせた。「……三つしかない」
朔は篝の淡い頬を見つめた。窓からの白い光が、妹の横顔に薄く陰影を落としている。体調の良い日の篝の目には、底の見えない好奇心が灯っている。あの光があるかぎり、篝は篝だった。
「行ってくるよ。——鍛錬」
「うん、がんばって。今日はあの子来るかな?」
朔は微苦笑して部屋を出た。朔が以前、家に来ていた男の子の話をほんの少し話しただけなのに、篝は一度も会っていないその子の輪郭を記憶し、親しげに呼んでいる。
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庭の外れに出ると、冬の大気が肺の底まで染みた。
空は厚い雲に覆われているが、雪にはなりそうにない。松の枝に残った霜が微かに光を帯び、枯れ草の上には夜の間に降りた露が白い筋となって連なっている。土の匂いが冷気の底にかすかに沈んでいた。敷地結界の存在を、朔はいつのまにか匂いで感じるようになっている。父が編んだ結界は、土行の匂い——湿った土と、古い石の気配——を纏っていた。
いつもの鍛錬を始めた。法力を臍下から指先へ流し、六角格子を結ぼうとする。何度繰り返しても、光は指先でちらついてはほどけた。膜はまだ安定しない。
凌が来るかもしれない、という期待がいつしか日課の一部になっていたが、今日は足音が聞こえなかった。——それでも、やるべきことは変わらない。
三十七回目の試行に入ろうとしたとき、庭の向こうから声が飛んできた。
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「朔くーん!」
前回と同じ声。前回と同じ勢い。ただし今回は、声が門の方角からではなく——篝の部屋の方角から聞こえた。
朔が松の間から覗くと、蓮が篝の部屋の障子の前を通り過ぎるところだった。縁側を走っている。片手に布の袋を提げ、もう片方の手に小さな竹籠を抱えていた。
「蓮ねぇ!」
篝の声が部屋の中から弾けた。
「篝ちゃん! 約束のやつ、持ってきたよ!」
蓮は篝の部屋にまっすぐ入っていった。朔はしばし庭に立ったまま、部屋の方から聞こえる二人の声を聞いた。
「今日はいっぱいだよ! 見て見て!」
「わぁ……」
篝の声が、ふわりと膨らんだ。
——大丈夫だ。
朔は鍛錬に戻ろうとした。篝のそばには蓮がいる。それだけのことが、こんなにも確かな安堵になるのだと、朔は少し不思議に思った。
——けれど、足が動かなかった。
少しだけ。篝がどんな顔をしているか、もう少しだけ見ていたかった。朔は庭から母屋に近づき、篝の部屋の障子の前——少しだけ開いたままの隙間のそばに、音を立てずに腰を下ろした。
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わずかばかり開いた隙間から、花の匂いが漏れていた。
覗き見える部屋の中で、蓮が竹籠の蓋を開けている。中から色とりどりの花と薬草が現れた。乾燥させた花びらが和紙に包まれて幾つも並び、そのあいだに——まだ生きている冬の小花が、濡れた布に包まれて息をしていた。
「これはね、藤袴」
蓮は乾いた花を一つ篝の手のひらに乗せた。紫がかった薄桃色の花弁は乾燥して縮んでいたが、かすかに甘い匂いが立ちのぼった。
「秋のお花だけど、乾かすといい匂いがするの。ほら、嗅いでみて」
篝が花を鼻先に近づけた。ふ、と息を吸い込んで——目を丸くした。
「……あまい」
「でしょ? 藤袴はね、お薬にもなるの。熱さましに使うんだよ」
隙間から覗き見ると、篝が花を手のひらの上で転がすのが見えた。指先で花弁の一枚一枚を、食い入るように辿っている。朔が庭の風景を言葉にして伝えるとき、篝はいつも目を閉じて聞いていた。でも今、篝の目は開いている。目の前にある花が、言葉よりも雄弁に外の世界を語っているのだ。
「次はこれ。山茶花」
蓮が何かを取り出す気配がした。紅い色が障子の向こうに揺れた。
「冬でも咲くんだよ、すごくない? 寒いのに、つぼみのまんま雪を被って、それでも開くの」
篝がそっと受け取ったらしい。両手で何かを包み込む仕草が、隙間から見えた。
「あったかい……?」
「それはね、さっきまであたしの手の中にいたから」
蓮がにっと笑う声。篝もつられて笑った。二人の笑い声が、縁側の朔の耳にまっすぐ届いた。
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「蓮ねぇは、これ全部の名前を知ってるの?」
篝が竹籠を覗きこみながら聞いた。蓮は藤袴の茎を指でつまみ、乾燥した花弁を一枚ずつ丁寧に広げながら答えた。
「お父様がお医者様だから、薬草はいっぱい覚えたの。花の名前はその延長でね。お父様の畑を手伝ってるうちに、勝手に覚えちゃった」
「すごい……」
「すごくないよ。毎日触ってれば誰でも覚えるよ」
蓮は笑いながら、次の花を取り出した。細い茎に白い小花が固まって咲いている。
「これは忍冬。冬を忍ぶって書くの。蔓がね、どこにでも巻きついて生えるんだよ。生命力がすごいの」
障子に落ちる篝の影が、蓮の方にほんの少しずつ傾いていく。蓮が花を広げるたびに。
「そしてこれは竜胆。秋の終わりに咲く花だけど、あたしの一番好きなお花」
「りんどう」
篝が小さな声でゆっくりと繰り返す。言葉の響きを味わうように。
「どうして一番好きなの?」
「んー。だってね、竜胆って、花が下を向いて咲くの。でも色はすっごく綺麗でしょ。うつむいてるのに存在感がある花、かっこいいなって」
篝の声が止まった。しばらくの沈黙——それから小さく「うん」と頷く気配。何かが、篝の中のどこかに触れたのかもしれない。
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「ねぇ、篝ちゃん。押し花帖に全部貼ろうよ」
蓮が布袋から薄い和紙と、掌大の木の板を取り出した。
「お花を紙の間に挟んで、板で押して乾かすの。今日摘んだ山茶花はね、帰ったらあたしの家で乾かしてから持ってくるね。でも乾いてるやつは今日のうちに帖に貼れるよ」
蓮は手際よく準備を整えた。篝の枕元に置かれていた白梅の押し花帖を受け取り、次の頁を開く。
「篝ちゃん、藤袴をここに置いて。——そう、茎はこっち。花の向きは……うん、そのまま! いい感じ!」
隙間の奥で、篝の細い指が見えた。花びらを紙の上に丁寧に乗せている。指先が震えている——緊張だろう。花を壊さないように、形を崩さないように。
「上手だね、篝ちゃん。手先が器用だ」
「……さくにぃに似てるのかな」
朔は思わず口元がほころぶのを感じた。
「あはは、それはあるかも」
花を挟み、和紙で覆う気配。蓮が何か重しを置いたらしい。一つ目の花が帖に収まったようだった。
「よし。じゃあ篝ちゃん、ここに名前を書こう」
「名前と、あとお薬のこと。さっき教えたでしょ、藤袴は熱さましに使うって。それも書いて」
筆が紙の上を走る微かな音。篝の呼吸が止まるほどの集中が、縁側にまで伝わってきた。
「次は忍冬。冬を忍ぶ、って書くんだよね」
「そう! あと忍冬はね、花を乾かして煎じると、風邪のお薬になるの」
篝が書き留める。蓮が花の効能を語り、篝がそれを帖に記していく。——その構図が繰り返されるうちに、変化が生じていた。
篝が——笑っている。
声が弾んでいる。蓮の言葉を聞き逃すまいとする集中と、花の名前を声に出して確かめる喜びが、縁側に座る朔のもとへ流れてくる。
「山茶花の実からはね、油が取れるんだよ」
「油?」
「うん。髪とか肌に塗るの。叔母様——瑞叔母様も使ってるかもしれないよ」
「お母様が! 聞いてみる!」
篝の声が上ずっている。花の名前は、篝にとってただの言葉ではない。名前を知るたびに、篝の世界に一つずつ色が増えていた。
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作業の合間に、蓮が里の話を始めた。子供たちが水路の薄氷を踏んで遊んでいたこと。浄身院の薬草園で冬囲いの作業を手伝ったこと。囲いの隙間から新しい芽が覗いていて、春の準備がもう始まっていること。
篝は筆を膝に置き、蓮の話に聞き入っていた。相槌を打ち、質問し、ときおり笑い声を漏らす。蓮の言葉の一つ一つが、篝の目の前に見たことのない風景を広げていく。
——不意に、部屋の中が静かになった。
蓮が薬草園の話をしていたはずだった。「——それでね、今年は藤袴がいっぱい咲いてね。園のお姉さんたちが、みんなで花を摘んでお薬にしてたの。あたしも一緒にやって、手が紫色になっちゃった!」
蓮の声は楽しそうだった。薬草園を駆けまわる蓮の姿が、言葉だけで朔の脳裏に鮮やかに浮かんだ。
——その直後に、沈黙が落ちた。蓮の話の勢いが、水に触れた火のように静かに途切れた。
「……ねぇ、蓮ねぇ」
篝の声が少しだけ細くなった。
「篝もそこにいたかったな」
声は小さかった。でも、障子の向こうの朔の耳には——はっきりと届いた。
朔の指先が、膝の上で強く握りしめられた。
「あ、ごめんね。蓮ねぇのお話、すごく楽しいの。ほんとだよ。——ごめん、変なこと言った」
篝の声が慌てて明るくなろうとしている。——あの声だ。篝が本心を隠して笑おうとするときの、少しだけ高くなる声。朔はその声を知っていた。
蓮の声は一瞬止まった。
三拍ほどの沈黙。朔は息を殺して待った。
それから蓮の声が聞こえた。
「じゃあさ、花の名前、全部覚えよう」
声色はいつもと変わらなかった。速くて、明るくて、まっすぐ。でも——声の下に、芯が通っているのが朔にもわかった。
「あたしが毎回違うお花を持ってくるから、篝ちゃんが名前を覚えてこの帖に書いて」
「里の薬草園には春から秋にかけて、全部で六十三種類の薬草が育つの。花が咲くのはそのうち四十くらい。あたしが全部持ってくるから——」
蓮の声が一拍置いた。
「全部覚えたら、里の薬草園を全部知ったことになるよ」
静かな一言だった。
慰めでは、なかった。哀れみでは、なかった。蓮は篝に「かわいそうだね」とは言わなかった。「大丈夫だよ」とも言わなかった。
——できることを、示したのだ。
外に出られなくても。薬草園に行けなくても。花の名前を全部覚えれば、篝は里の薬草園を知っていることになる。蓮の手から篝の手へ、花が一つずつ渡されるたびに——篝の世界は少しずつ広がる。朔にはそのことが、障子の向こうに座ったまま、はっきりとわかった。
しばらく篝の声がしなかった。
——やがて。
「……うん。教えて、蓮ねぇ」
篝の声は湿っていた。でも——泣き声ではなかった。小さく、しかしはっきりと。
蓮がにっと笑う気配。さっきまでと変わらない、太陽のような。
「よーし! じゃあ今日覚えた分は五つね。藤袴、山茶花、忍冬、竜胆、白梅! 次は新しいの五つ持ってくるからね!」
篝が鼻をすすった。それから——笑い声が聞こえた。泣きそうな笑い声が。混じり合った声が、花のように淡く、壊れそうで、でも確かにそこにあった。
二人は帖の作業を再開したらしい。蓮の声が「この竜胆、もうちょっと右の方がいいかも」と言い、篝が「こう?」と答えた。部屋に、再び穏やかな空気が満ちていくのが、気配を通して朔にも伝わってきた。
朔は静かに立ち上がった。もう一度、庭の外れに戻ろう。鍛錬の続きがある。
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夕方、朔が鍛錬を終えて母屋に戻ると、蓮はもう帰った後だった。
篝の部屋の前で足を止めると、中から微かな声が聞こえた。
「ふじばかま……にんどう……りんどう……さざんか……はくばい……」
篝が花の名前を唱えている。声は小さく、ゆっくりで、一つ一つの音を確かめるように繰り返していた。
朔は静かに障子を引いた。
篝は褥の上に座り、完成した押し花帖の最初の数頁を広げて見つめていた。帖の上に花が並んでいる。藤袴、忍冬、竜胆。その横に、篝の字で名前と効能が書き添えられている。
篝が朔に気づいた。
「さくにぃ、見て」
帖を持ち上げて差し出す篝の顔は、朝とは別人のように明るかった。
「これ、藤袴っていうんだよ。熱さましになるんだって」
朔は帖を受け取った。和紙の上に丁寧に押された紫色の花弁。その横の、篝の真っ直ぐな字。
「それとね、これは忍冬。冬を忍ぶって書くの。蔓がどこにでも巻きつくんだって。蓮ねぇが教えてくれた」
篝が朔に「教える」側に立っている。
朔の胸の中で、小さな何かが動いた。
「すごいね、篝。……もっと教えて」
篝が嬉しそうに帖の次の頁を開いた。
「竜胆はね、花が下を向いて咲くんだけど、すごく綺麗な紫色なの。蓮ねぇの一番好きなお花なんだって」
篝が竜胆について語る声は、蓮から聞いた言葉をそのまま返しているのではなく——篝自身の感覚を通して組み直されていた。蓮が「かっこいい」と言った花を、篝は「綺麗な」と言い換えている。蓮の言葉を受け取り、自分の中で噛み砕いて、自分のものにしてから返す。
朔は帖を篝に返した。篝は嬉しそうに帖を膝の上に置き、指先で花の輪郭をなぞりながら、さらに話し続けた。
「あとね、さくにぃ。山茶花の実からは油が取れるんだって。お母様も使ってるかもしれないよ。今度聞いてみる」
「そうだね。聞いてみよう」
朔は微笑んだ。篝の中に、蓮が灯した小さな火が息づいている。自分はその火を消さないようにするのではなく、風を送る側にまわるべきなのかもしれない——と、ぼんやりと思った。
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夜。篝は押し花帖を枕元に置いて眠っていた。
白梅の頁にはもう新しい仲間が加わっている。藤袴、忍冬、竜胆。篝の字で書かれた名前と効能が、和紙の上に静かに並んでいる。
朔は縁側に座って庭を見ていた。
雲が切れ始めていた。冬の夜空の隙間から星が一つ、二つとこぼれ出し、庭の枯れ木の輪郭にかすかな光を落としている。篝の部屋からは穏やかな寝息が漏れ、押し花帖の和紙が微かに星明かりを返していた。
寒かった。でも立ち去りがたかった。
篝が「篝もそこにいたかったな」と呟いた瞬間が、朔の胸に刺さったまま抜けなかった。
篝はずっと、そう思っていたのだろう。朔はそれを知っていた。知っていて、触れないようにしていた。
蓮は触れた。しかし、傷には触れなかった。
蓮が差し出したのは六十三という数字だった——篝にとっての「外に出る代わりの道」を。それは朔には思いつかなかった。
まだ答えの形は見えない。でも少なくとも——篝の力を信じることは、守ることの一部だと朔は思い始めていた。
星が一つ、雲の切れ間から零れ落ちて枯れ木の向こうに消えた。冬の夜は深い。遠くで禊ぎの鐘が鳴り終え、里はまた静寂に沈んだ。
朔は目を閉じた。指先に法力の残余が薄く灯っている。今日の鍛錬で掴みかけた何かが、まだ指の奥で息をしている。
明日もまた、やるべきことがある。鍛錬がある。篝と話す時間がある。蓮が持ってきた花の名前を、篝から教わる時間がある。
——そしていつか、篝が外で花を見る日が来るように。
朔はその願いを胸の内に閉じこめて、部屋に戻った。篝の押し花帖の、花の並んだ頁が月明かりに白く浮かんでいた。




