15話 : 月光の庭
朝餉の膳を下げながら、瑞が言った。
「今日は蓮が来ますよ」
朔は一瞬、手を止めた。蓮——確か母の姪にあたる従姉で、葛葉家の長女だったはずだ。幼い頃に一度だけ会ったことがある。大きな声でよく笑う子だった、という薄い記憶がある。
「篝、蓮のこと覚えてる?」
篝は褥の上で首を傾げた。今日は体調がそれほど悪くはないらしく、朝から目に光があり、じっとしていられない様子で枕元の紙に何か描いている。
「うーんと……小さいとき来たことある子?」
「ええ。葛葉の叔父様のお嬢さん」
瑞が篝の額に掌を当て、体温を確かめた。「今日は良い日ね。蓮に会えるわ」と微笑んだ。
朔は頷きながらも、その名前を半分だけ頭の隅に留めて庭に出た。冬の空気は相変わらず刃のように冷たい。今日も鍛錬がある。
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庭の外れ、敷地結界の際で法力を指先に集めていると、声が聞こえた。
遠い。門の方だ。——いや、もう門を越えて、庭に向かって一直線に近づいてきている。
「朔くーん! 篝ちゃーん!」
その声は、冬の枯れ木の向こうからまっすぐに飛んできた。
朔は型を崩して振り返った。松の幹の向こうから、小柄な人影が駆けてくる。黒髪を一つに束ね、小袖の裾を片手で持ち上げながら走っている。頬が赤く、息を切らしている。背丈は朔より少し低い。もう片方の手には風呂敷で包んだ小さな荷物を下げ——まるで小鳥が舞い降りるように、朔の前で不意に止まった。
「見つけた!」
満面の笑み。翡翠色の目が、切った息の合間から朔をまっすぐに見つめている。
朔は瞬きを繰り返した。声が大きい。土御門家の庭で、こんなに大きな声を出す人間はいない。
「あの——蓮、ちゃん?」
「あたし、覚えてるよ朔くん! 小さいときに一回会ってるでしょ。あたしのことは忘れてる顔してるけど、まあいいや!」
蓮は朔の返事を待たずに早口で続けた。「お母様に送ってもらったんだけど、門のところで『もう一人で行ける!』って言っちゃった。だってお母様と歩くと遅いんだもん」
朔は何と返すべきかわからず、ただ「はい」とだけ言った。庭の空気が、蓮の到着で一瞬にして一変していた。冬の静けさの中に、何か温かなものが混ざり込んで、冷気が後退していくような——そんな錯覚があった。
「篝ちゃんは中?」
「はい。篝は——」
朔が言い終わる前に、蓮は母屋の方角に向かって走り出していた。
「失礼します! 叔母様、蓮です!」
縁側に上がろうとする蓮を、瑞が穏やかな微笑みで迎える。「お疲れさま、蓮。走ってきたのね」
「えへへ。ちょっとだけ」
蓮は草鞋を脱ぎ、きちんと揃えてから上がった。所作はきびきびとして無駄がない。走ってきた少女と同一人物とは思えない手際の良さで、持ってきた風呂敷包みを丁寧に掲げた。「これ、お父様から。葛葉の庭で冬に実る枇杷です。少しだけど」
「まあ、枇杷。わざわざありがとう」
瑞が包みを受け取り、中を検めた。小ぶりだが黄金色に熟した枇杷が五つ。この里で果物は貴重だ。配給にもめったに入らない。
蓮はもう廊下を歩き始めている。「篝ちゃんの部屋、こっちだよね?」と、記憶を頼りに渡廊下を進む。朔は後を追った。
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篝の部屋の障子を開けると、光が差し込んだ。
篝は褥の上に起き上がり、膝に紙を広げて墨を含んだ筆を握っていた。障子が開く音にびくりと顔を上げ——そこに立つ蓮を見た。
蓮は一瞬、立ち止まった。笑みをそのままに、篝の顔をまっすぐに見つめた。
「篝ちゃん、あたし覚えてる?」
篝の目が揺れた。記憶を手繰るべく瞬きを数回。——翡翠の目。大きな声。どこかで確かに、この色の目を見たことがある。
「……蓮ちゃん?」
「そう! 覚えてた!」
蓮が手を叩いた。からん、と乾いた音が部屋の中に弾けた。篝が戸惑って目を丸くし、それから——釣られて、唇の端を小さく持ち上げた。
蓮はそれだけで満足げに頷き、篝のそばにすとんと座り込んだ。胡坐のまま——篝の褥の端に遠慮なく膝を置いて、風呂敷包みから別の小さな包みを取り出した。
「これ、篝ちゃんに」
広げたのは、薄い木片を台紙にした帖だった。表紙はなく、中を開くと——小さな花が押されている。花弁は白く、茎は細く褐色に乾いて、和紙の上に薄く貼りつけられていた。
「これね、冬咲きの白梅。お父様の畑の端に一本だけ咲くの。今年の一番花だよ」
篝の手が止まった。筆を膝に置いたまま、身を乗り出して帖を覗き込んだ。
「……本物のお花?」
「うん。押し花っていうの。花を摘んで、紙に挟んで、重しを乗せて乾かすとこうなるんだよ。枯れないの」
枯れない。
朔は篝の横顔を見た。篝の目が大きく見開かれている。黒い瞳に白梅の花弁が映り込み、かすかに光を集めているようだった。
——消えない絵が欲しいな。
いつだったか、篝が地面に描いた庭の花の絵を雨が洗い流したとき、篝がぽつりとこぼした言葉が、朔の胸に蘇った。篝の描く花はいつも消えた。雨が降り、風が吹き、砂の上の線はそのたびに消えていった。
目の前に、消えない花がある。
「篝ちゃん、触ってみて。そっとだよ」
蓮が帖を篝の手のひらに載せた。篝は息を詰めたまま、指先でそっと花弁に触れた。乾いた花弁のかすかな凹凸が、指の腹を通じて伝わったのだろう——篝が小さく息を吸い込んだ。
「かたい。でも……やわらかい」
「でしょ? お花はね、乾くと少し硬くなるけど、形はそのまま残るの」
篝は帖を胸の前に大事に抱き込み、何度も見返した。白梅の枝の伸び方。花弁の重なり。暗い褐色に沈んだ茎。それらがすべて「消えない形」で紙の上に留まっている。
朔は、妹の横顔に浮かんでいる表情を見逃さなかった。うれしさだけではない。驚きと、どこか——渇いていたものが満たされたような、深い安堵。
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蓮は篝のそばに座ったまま、外の話を矢継ぎ早にした。
「今日ね、途中でつららを見つけたの。門のところ——里の大門のとこにすっごい大きなつららがぶら下がっててね、あたしの腕くらいあった!」
「えっ、そんなに?」
「うん! 触ったらね、手がじーんてして、指先が赤くなって——」
「お腹すかない? つらら舐めたらお水の味するかな」
「えー、それは——うーん、やってみたいけど、お母様に怒られそう」
蓮の話はとりとめがなく、速く、次々に場面が飛ぶ。里の道で見かけた猫のこと、配給所の前に並んでいたおじいさんが蓮にお菓子をくれたこと、浄身院の庭の南天の実が赤く色づいていたこと。
篝は最初、蓮の勢いに圧倒されていた。相槌を打つ暇もなく、目だけが蓮の表情を追っている。
だが——いつのまにか、篝の体がほんの少しだけ蓮の方に傾いていた。
「それでね、そのおじいさんがね、『蓮ちゃんは葛葉のとこの子かい』って聞くから、『そうです!』って言ったら——」
「ふふ」
小さな笑い声だった。篝の口元がほころび、声が零れた。
蓮は一瞬だけ言葉を止めて篝を見て、それからにっと笑った。何も言わず、また話の続きを始めた。
朔は部屋の隅で膝を抱え、二人を見ていた。蓮は篝の体調を気にしていないわけではない——話の合間に篝の顔色をちらりと見ている。でも、篝に対して声を落とすことも、話を短くすることもしなかった。特別扱いをしない。篝を「病の子」ではなく、ただの「篝ちゃん」として扱っている。
その距離感が、朔には新鮮だった。
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ひとしきり話が尽きると、蓮がくるりと振り返った。
「ねえ朔くん、朝なにしてたの? 庭で立ってたでしょ」
「鍛錬を——していました」
「なにやってるか見せてよ!」
返事を待たず、蓮は立ち上がった。篝の方を向き、「篝ちゃん、ちょっとだけ朔くん借りるね!」と手を振ってから、朔の袖をつかんで庭に引っ張り出した。
冬の風が頬を刺す。庭の外れに並ぶ松の足元に霜が降りている。朔は先ほどまで立っていた場所に戻り、蓮に向き直った。
「あの……何をしているかというと——」
「いいからやって! 説明は後でいいよ」
朔は観念して鍛錬の構えをとった。呼吸を落とし、臍下から法力を引き上げ、指先に集める。六角格子の形を意識しながら——手のひらを前にかざす。
結果はいつもと同じだった。淡い光が指先にちらつき、膜になる前に霧散する。
蓮は腕を組んで見ていた。二回、三回、同じ動作を繰り返す朔を黙って見つめている。だが蓮の目は朔の手のひらに灯る法力ではなく、朔の指先そのものに注がれていた。
四回目の試行が終わったとき、蓮が口を開いた。
「ねえ、朔くん。指先赤くなってるよ」
朔は自分の指先を見た。確かに、指の腹が冷気で赤く腫れている。冬の朝から何十回と型を繰り返しているのだ。かじかんでいる自覚はあったが、鍛錬の最中は意識しないようにしていた。
「こうやって温めて」
蓮が朔の両手を、自分の小さな手のひらで包んだ。
——温かかった。
柔らかく、しっかりとした手だった。指先の冷えを掌の温もりで溶かすように、蓮は朔の手を丁寧に包んでいる。その手つきは——幼いとは思えないほど正確で、力の入れ方に迷いがない。指先、指の関節、手の甲——血の巡りが悪い箇所を知っているかのように、的確に温めていく。
浄身院の、癒し手の手だ。
朔がそう思った瞬間——蓮の袖口から、かすかな匂いが鼻先を掠めた。
甘く、少しだけ苦い。湿った土の気配を含んだ、植物の匂い。
記憶の底から、同じ匂いが浮かび上がった。あの日——母に連れられて浄身院を訪れたとき、回廊に漂っていた空気。癒し手たちの衣に染みついていた、薬草の匂い。
「蓮ちゃん……浄身院の匂いがする」
蓮は目を丸くし、自分の袖口を嗅いだ。
「ああ、やっぱりわかる? あたし、お家でずっとお薬の手伝いしてるからね。お父様の畑で薬草を育てて、乾かして、潰して——って毎日やってると、もう取れないんだよね、この匂い」
あっけらかんと笑いながら、蓮は袖口を広げて朔の鼻先に突き出した。「くさい?」
「いえ——いい匂いです」
朔はそう答えた。嘘ではなかった。浄身院で嗅いだときは、あの匂いは病と治療の匂いだった。しかし蓮の袖口から漂うそれは、同じ匂いなのにどこか温かく、生活の中に溶けた匂いに感じられた。
蓮は「変な朔くん」と笑って手を離した。朔の指先には確かな温もりが残っている。自分の指先が芯まで冷え切っていたことを、その温もりによって初めて自覚した。
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日が傾き始めた。
蓮は篝の部屋に戻り、もう一度押し花の帖を広げて、花の名前を一つずつ教えていた。朔は縁側に座って、障子一枚を隔てた向こうの二人の声を聞いていた。
「これはね、寒菊。冬のいちばん寒いときに咲くの。強いお花だよ」
「かんぎく……」
「あとね、これは水仙。里の水路沿いにも咲いてるの。見つけたら摘んで持ってくるね」
「ほんとに?」
「もちろん!」
蓮の声と篝の声が交互に重なる。篝の相槌がだんだんと早くなり、声に力が入っていくのが朔にもわかった。
瑞が茶を載せた膳を運んできて、朔の隣に腰を下ろした。篝と蓮の声を聞きながら、目を細めている。
「……蓮は昔から、こういう子なの」
瑞が言った。低く、どこか懐かしむ声だった。
「姉の楓に似ているわ。人のそばに行って、何も構えずに笑って——それだけで、場所が変わるの」
朔は黙って頷いた。瑞が、自分の姉をそんなふうに語るのを聞くのは初めてだった。
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「篝ちゃん、あたし帰るね!」
夕暮れ。蓮は草鞋の紐を結びながら、篝に手を振った。
篝は部屋の敷居のところまで這うようにして出てきていた。体調の良い日でなければここまで動かない。朔は篝が無理をしていないか気遣いつつ、妹の横顔を見つめていた。
「蓮ちゃん」
篝が声をかけた。蓮が振り返る。
「また外のお話、聞かせて」
篝の声は小さかったが、しっかりと音を持っていた。お願いではなく——約束を求める声だった。
蓮は立ち止まり、篝をまっすぐに見つめ返した。目が、ほんの一瞬だけ揺れた。何を思ったのかは朔にはわからない。——すぐに、満面の笑顔が戻った。
「もちろん! 今度はもっとお花持ってくるからね! 押し花帖、いっぱいにしようよ!」
篝がこくりと頷いた。その頬にうっすらと赤みが差しているのに、朔は気がついた。寒さではない。嬉しさが頬に出ている。
蓮が門の方へ駆けていった。石畳に草鞋の音が弾む。門の手前で一度だけ振り返り、大きく手を振ってから、冬の道に消えた。
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夜。
篝はとうに眠っている。押し花の帖を枕元に置き、白梅の頁を開いたまま。
月が出ていた。冬の月は冴えて鋭く、庭の松の影を白い砂の上にくっきりと落としている。常緑の枝の先から霜が光り、池の薄氷が月光を返して静かに揺れている。
朔は縁側に腰を下ろして庭を眺めていた。
今日の一日を、振り返る。
自分がしてきたことは、篝を「守る」ための行為だった。蓮は違った。篝を「笑わせて」いた。
守ると、笑わせるは、違うのだ。
——篝はどちらを求めているのだろう。
答えは出ない。
朔は立ち上がり、篝の部屋を覗いた。蓮の掌の温もりが、まだ消えずにいた。あの手が押し花帖を差し出したとき、篝の目に灯った光が、まぶたの裏に焼きついている。
守る方法は、ひとつだけではないのかもしれない。
月の光が障子を透かして、篝の枕元を淡く照らしている。白梅の頁を開いたままの押し花帖の上に、消えない花が静かに眠っていた。




