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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:1幕

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14話 : 冬の庭

 冬が深まると、朝の空気は刃になる。


 篝が褥の中でまだ寝息を立てている頃、朔は庭の隅に立っていた。敷地結界の温もりの際——もう十歩も進めば結界の外に出る。ここに立つと、敷地の内と外の温度の境が皮膚で分かる。左半身が温かく、右半身が冷たい。境目を踏み越えた瞬間、吐く息が白く凍った。


 指先がかじかんでいる。手のひらを握り、開く。握り、開く。何度か繰り返して血の巡りを促してから、朔は両手を前にかざした。


 法力を指先に集める。呼吸を整え、臍下に意識を落とす。吐く息を長く——吸う息を短く。掌の中心から指先へ、法力を糸のように伸ばしていく。


 結界の型。もう何百回と繰り返した動作だった。


 手のひらの上で淡い光が張られかけたが、六角の形を結ぶ前に霧散した。ただの膜なら、もう数秒は維持できる。だが、先日見たばかりの本物の結界と同じ「六角格子」を構築しようとすると、法力の制御が格段に難しくなる。


 朔は表情を変えない。手を下ろし、もう一度呼吸を整えてから、同じ動作を始める。


 ——五十七回目。


 朔は数えている。昨日、指先に光が及んだのは三十九回目だった。一昨日は四十五回。数字は嘘をつかない。


 六十二回目。指先が微かに温もりを帯びた。法力が掌の縁を越え、親指と人差し指の間で一瞬だけ光の線を結んだ——が、次の瞬間には消えた。面にならない。六角にならない。面を結べず、ただの平たい光に崩れて消えた。


 以前はそればかりが悔しかった。けれど今は、まだ先がある、という確認になっている。


 朔は手を下ろした。


 結界の際で見た光景が、まぶたの裏に残っていた。あの六角格子の輝き。術者たちが法力を要石に注ぎ続ける姿。膝が崩れる瞬間の、それでもなお手を離さない意志。父の「いずれお前もここに立つ」という言葉。


 ——あそこに立つ人間は、この鍛錬を何万回と繰り返してきた人たちだ。


 朔はふたたび手をかざした。六十三回目。


---


 久我崎の屋敷は、里の中央東寄りにある。


 総宰司の庁舎の裏手に風格のある門構えがあり、敷地の中は広く整えられていた。庭には枯山水が配され、冬の乾いた砂利に低い朝日が跳ねている。屋敷全体が、静謐と威圧を兼ね備えた空気に包まれていた。


 凌は、その空気が苦手だった。


 慧兄が縁側で草鞋を履き直すのを待ちながら、凌は木刀の柄を右手でしきりに握っていた。体の大きさに合わせて切り詰めた短い柄。どこに行くにも手放さない。父に「それを持ち歩くのはやめなさい」と言われたことがあるが、聞いていない。


 「凌、準備はいいか」


 慧の声だった。次兄は十歳。父・嶺壱の下で総宰司の公務に出入りし始めている。今日は土御門家への文書の届けと、何かの打ち合わせだという。凌にとってはどうでもいい話だった。ただ、慧兄が「ついてこないか」と誘うのに断る理由がなかっただけだ。


 凌は黙って頷き、慧の後を追って門を出た。


 里の道を歩く。冬の朝で人通りは少ない。吐く息が白い。慧は歩きながら、朝餉の配給所の前に並ぶ人々に軽く会釈を送り、すれ違う鎮護寮の術者に丁寧に挨拶していた。凌はそういうことが上手くできない。会釈されても目を逸らしてしまう。知らない大人の目が苦手だった。


 「今日は土御門の基様にお会いする。お前は——」


 「わかってる。好きにしてろ、だろ」


 慧が苦笑した。穏やかな、けれど少し寂しそうな笑みだった。


 「嫌なら来なくてよかったんだぞ」


 「別に嫌じゃねぇよ」


 嘘ではなかった。家にいても、することがない。父は忙しく、長兄の巌は凌に興味がない。慧兄だけが——凌が持て余しているこの落ち着かなさを、黙って受け止めてくれる。ついてくるだけでいい。何も求めない。それが、慧が凌に差し出すもののすべてだった。


 凌は木刀を握り直した。


 先日、父に言われた言葉がまだ頭にこびりついている。


 ——お前は自由にしてよい。


 長男の巌は、父の後を継いで総宰官になるべく、幼い頃から厳しい教育を受けている。記憶力に優れ、感情を表に出さず、物事を数字と力関係で把握する。いずれ父を超えるだろうと、屋敷の者は皆が口を揃える。


 次兄の慧は、情報の収集と分析に才がある。人の表情を読み、言葉の裏にある意図を見抜く。慧もまた、総宰司の最前線で重要な役割を担い始めている。


 そして凌は——計算ができない。駆け引きもできない。文書を読み解くのも苦痛だ。父に求められる能力の、どれひとつとして持っていないことは、凌自身がいちばんよくわかっていた。


 ——お前は自由にしてよい。


 それは許しではなかった。凌の耳には、こう聞こえていた。


 ——お前に、久我崎の総宰官は務まらない。


 凌は木刀の柄をきつく握り、前を向いた。


---


 土御門家の門をくぐったとき、空気がわずかに温くなった。


 足元の霜が消え、苔が青く残っている。門の内側と外側で、冬の深さが違っていた。


 慧が正面の座敷へ通されていく。凌は玄関口で立ち止まり、「好きにしていていいよ」と言われた。いつものことだ。


 凌は庭を見回した。


 広い。自分の家よりも広い庭だった。枯山水ではなく、実際に草木が植えられている。冬枯れの低木の向こうに常緑の松が何本か立ち、その足元には苔と落ち葉が重なっていた。池もある。薄氷が張り、冬の弱い陽光を反射している。


 凌は木刀を片手に、庭を横切った。走るわけではない。ただ歩き回る。足元の砂利が鳴る音がやたらに大きく聞こえて、凌は芝のある方へ足を移した。音が消えた。


 庭の外れに差し掛かったとき、凌の足が止まった。


 ——誰かいる。


 低木の向こう、敷地の隅。冬の陽が斜めに射す場所に、一人の子供が立っていた。


 凌と同じくらいの背丈。漆黒の長い髪を後ろで一つに束ね、小袖の袖を二の腕の上まで捲り上げている。その両手を、前方にかざしている。


 凌は足を止めたまま、その姿を見つめた。


 両手をかざし——何かの型をとり——そしてゆっくりと手を下ろす。手を下ろした後も表情は変わらない。石のように静かな顔のまま、もう一度手をかざし直す。同じ動作。同じ型。同じ結末。


 何も起きない。法力の光も見えない。ただ、手をかざして——下ろす。その繰り返し。


 それが何度も繰り返された。凌は立ったまま、十回、二十回と数えた。


 何やってんだ、あいつ。


 最初はそう思った。


 けれど——三十回を数えたあたりから、凌の中で何かが変わった。


 あいつは、一度も悔しがらない。顔をしかめもしないし、舌打ちもしない。肩を落としもしない。何も成功していないのに、手順だけが寸分の狂いなく繰り返される。一回目と三十回目が、まったく同じ真剣さを帯びている。


 凌は自分の木刀を握る手に力が入るのを感じた。


 凌にも鍛錬はある。だが——何のために打つのか、凌にはまだ答えがなかった。


 あいつは違う。


 凌にはわかった。あいつの動作には「誰かに見せる」ための要素が欠片もない。ただ自分のために——いや違う、「自分が何かを達成するために」、淡々と積み重ねている。失敗の回数は見えているはずなのに、失敗を失敗と引きずらない。一回一回が、同じ重さの挑戦として積み重ねられている。


 すげぇ。


 凌はそう思った。初めてだった。同い年の誰かを見て、そう感じるのは。


 ——いつのまにか、凌は低木の陰から出ていた。足音を立てまいとしたが、冬枯れの芝が踏まれて乾いた音を立てた。


---


 「——それ、何やってんだ?」


 声が出ていた。聞こうと決めたわけではない。口が勝手に動いた。


 目の前の子供が、びくりと肩を震わせた。


 振り返った顔は——凌が予想していたよりも、ずっと穏やかだった。目つきの鋭い凌とは対照的に、漆黒の目は静かで、どこか柔らかい光を宿していた。


 その目がわずかに見開かれ、凌を見た。凌の手にある木刀を見て、それから凌の顔に戻った。


 「結界術の——鍛錬です」


 落ち着いた声だった。凌より少し低いか、同じくらいか。驚いているはずなのに、声が揺れない。


 「結界? ——あの、壁みたいなやつか」


 子供は頷いた。「はい。ただの膜じゃなく、本物と同じ六角形の膜を作る練習です」と、短く語った。それだけの説明で、凌には「壁みたいなやつ」が「壁」そのものではなく、壁を作るための基礎の基礎であることがわかった。


 つまり——成功していない基礎の練習を、何百回と繰り返していたのだ。


 凌はしばらく黙った。


 何か言うべき言葉があるはずだが、見つからなかった。凌は言葉を探すのが下手だ。大切なことほど、口から出てこない。代わりに、足が動いた。


 三歩進んで、その子の斜め後ろの地面に腰を下ろした。木刀を膝の上に置いた。


 「——見ててもいいか」


 自分で言って、少し驚いた。何を見るつもりなのかも、はっきりしない。ただ、もうすこしだけ、こいつが何かを掴む瞬間を見ていたかった。


---


 朔は戸惑った。


 鍛錬を誰かに見られるのは、父と兄以外では初めてだった。瑞は庭にいるとき遠くから見守っていることがあるが、こんなに近くで——しかも同じくらいの年の、見知らぬ子供に腰を据えて見つめられるのは、まったく未知の経験だった。


 断る理由がなかった。自分の鍛錬を誰かに「見せる」つもりはないが、「見てもいいか」と聞かれて、いけないとも思えなかった。


 「……はい」


 朔は前を向き直し、鍛錬を再開した。


 最初は意識してしまった。背中に視線がある。誰かの目が、自分の手元を追っている。それだけで指先の法力がわずかに乱れた。六十七回目、六十八回目——光が指先に及ぶことすらなかった。


 だが、十回ほど繰り返すうちに、視線の存在が溶けていった。


 後ろの子供は一言も発しなかった。咳払いもしない。欠伸もしない。退屈そうに体を揺することもなかった。ただ、じっとしている。


 沈黙の時間だった。冬の陽が地面を照らし、二人の影を長く引いている。風が吹くたびに松の枝が軋み、乾いた葉が地を掃く音が走った。遠くから禊ぎの鐘が一度だけ響き、里の日常を告げた。


 朔は鍛錬を続けた。八十四回目、八十五回目。法力が指先で微かに熱を帯びる瞬間が増えてきた。あと少し——あと少しだけ、形を保てれば。


 呼吸を深く落とす。臍下から法力を引き上げ、掌を通して指先へ送る。今日の法力の流れは、いつもと少しだけ違っていた。何が違うのかは、朔にもわからない。ただ指先へ向かう法力の密度が——ほんの僅かだけ、均一に保たれている気がした。


---


 九十一回目だった。


 指先に、光が灯った。


 法力が親指と人差し指の間で、一瞬だけ小さな六角形の膜を結んだ。薄い、淡い——氷の結晶のように繊細な光の格子。それが指先に張りつき、一瞬だけ、確かに法力の壁としての形を保った。


 「おっ」


 背後から声が漏れた。


 膜は声に驚いて——いや、朔の集中が声に反応してわずかに乱れたのだろう。光は霧散し、指先に温もりの名残だけを残して消えた。


 だが朔は目を見開いていた。


 一瞬だった。ほんの一瞬。けれど確かに——今のは形だった。光が通り過ぎただけではなく、法力が面として、膜として、ほんの一瞬だけ形を保ったのだ。


 手のひらを見つめた。指先がまだ微かに温かい。法力の残り香のような、とても淡い温もり。


 朔は小さく微笑んだ。


 初めてだった。父に見せたときの四秒間の膜とは違う。あれは精一杯の集中の産物だったが、ただのいびつな平面だった。今のは——本物の結界と同じ、最小単位の『形』。それが日課の中の一回、毎日の繰り返しの、九十一回目の中で、自然に生まれたもの。


 そして初めて、誰かに見てもらいながらの成功だった。


 父でも兄でもない。名前も知らない、木刀を膝に置いた同じくらいの年の子供が、黙ってそばにいるだけの——それだけのことなのに、なぜだか朔の中に、静かな充足が広がっていた。


---


 凌は立ち上がっていた。


 何か言いたかった。今見たもの——あの一瞬の光、指先に灯った微かな膜、何百回も失敗した末にようやく形になったもの——それについて何か言いたかった。


 けれど、言葉が出ない。


 胸の中に渦巻く何かが、喉を塞いで出てこない。代わりに拳を握り、歯を噛み、ようやく——


 「……すげぇな」


 それだけだった。それしか言えなかった。


 目の前の子供がこちらを見た。穏やかな目が、驚きと困惑と——ほんの少しの嬉しさを映していた。


 「ありがとうございます」


 丁寧な声。凌とは違う。まっすぐで、品がある。


 凌は頬が熱くなるのを感じた。何だ、この感じは。悔しいのとは違う。羨ましいのとも違う。この子が今日まで積み重ねてきたものが、ちゃんと報われた。その瞬間に立ち会えたことが、ただ——


 「凌、そろそろ帰るぞ」


 慧兄の声が、座敷の方から聞こえた。足音が近づいてくる。凌は振り返り、慧の姿を確認した。座敷での用事が終わったらしい。


 「ん」


 凌は振り返り、もう一度あの子を見た。子供は両手を下ろし、凌を見つめ返していた。何か言いかけたように唇が動いたが——結局、二人とも何も言わなかった。


 凌は木刀を拾い上げ、慧のところへ歩いていった。


---


 帰り道を歩きながら、慧がちらりと凌を見た。


 「友達でもできたか?」


 軽い声だった。からかいの色はない。ただ、弟がいつもと違う顔をしていることに気づいた兄の、さりげない問いかけ。


 凌は視線を前に向けたまま、しばらく黙っていた。


 冬の風が里の道を吹き抜け、凌の短い髪を揺らした。配給所の前にはもう人がいない。遠くの鎮護寮の方角から、交代の知らせのような合図の音がかすかに響いていた。


 「——また行く」


 凌は、それだけ言った。


 慧が足を止めた。


 弟の横顔を、一瞬、驚いた目で見つめた。凌が自分から他者に興味を示すのは、慧の記憶にない。家の中では木刀を振り、家の外では木刀を握りしめて黙っている。それが弟の日常だった。


 慧は驚きを呑み込み——嬉しそうに、笑った。


 「そうか」


 それだけだった。兄もまた、多くを語らなかった。二人はそのまま、冬の道を久我崎家へ向かって歩いた。凌の右手は木刀を握り、左手はぶらぶらと遊んでいた。いつもなら拳を固めている左手が、今日は開いていた。


---


 夕暮れ。


 朔は篝の部屋の前に座っていた。


 篝は昼寝からとうに起きて、褥の上で絵を描いている。今日は体調がよいらしく、墨を含んだ筆を活き活きと動かしていた。紙の上に庭の松が描かれ、その幹に小さな鳥が止まっている。


 「さくにぃ、今日は庭で何してたの?」


 「鍛錬だよ。いつもの」


 「ふうん」


 篝は筆を止めず、紙の上に枝を一本伸ばした。


 「誰かいた?」


 朔は一瞬、黙った。篝の勘はいつも鋭い。


 「……知らない子が来ていた。しばらく見ていて、帰っていった」


 「どんな子?」


 朔は少し考えた。


 「目つきが少し怖い子だった。でも——悪い子じゃないと思う」


 篝はまた一筆加え、鳥に目を描き入れた。小さな黒い点が、紙の上でこちらを見返している。


 「また来る?」


 それは篝の期待なのか、ただの問いなのか、朔にはわからなかった。


 「わからない」


 正直にそう答えた。名前も聞いていない。どこの家の子かも知らない。ただ「見ててもいいか」と言って座り込み、最後に「すげぇな」と言って帰っていった——それだけの出会いだった。


 けれど朔の指先には、あの九十一回目の温もりが、まだかすかに残っていた。あの一瞬、誰かがそばにいて——声もかけず、ただ見ていてくれた時間が、鍛錬の何かを変えたような気がしている。何が変わったかは、まだわからない。


 「また来るといいね」


 篝が言った。筆を置き、描いた絵を持ち上げて朔に見せた。


 松の木。枝に止まる鳥。その隣にもう一羽——描いていなかったはずの二羽目が、いつの間にか枝に並んでいた。


 朔は小さく笑った。


 冬の夕暮れが障子を橙に染め、篝の絵の上に温かい光を落としていた。二羽の鳥が、紙の上で寄り添うように、冬の枝に止まっていた。


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