12話 : 癒し手たちの庭
初冬の朝だった。
門を出るとき、篝の息が白く曇った。ほんの一瞬のことだったが、朔はそれを見逃さなかった。篝は小袖の上から袿を重ねていた。その上からさらに、母の瑞が薄い綿入れを羽織らせていたが、冷気は布の隙間から容赦なく忍び込む。
「さくにぃ、寒くない?」
問いかけてくるのは篝の方だった。自分の体調よりも先に朔を気遣う——いつものことだ。朔は軽く首を振った。
「僕は平気。篝は?」
「篝も平気」
嘘だった。唇の色が薄い。けれど篝の目には力があった。今日は良い日だ。良い日の篝は、少しだけ背が高く見える。
浄身院への定期診察。これまでは熱を出して瑞に抱えられていくか、外が見えない輿に乗せられていくかのどちらかだった。今日は珍しく体調が良く、「自分で歩きたい」と篝が言い張ったのだ。
土御門家から南へ下る緩やかな坂。結界の外を篝が自分の足で歩くのは、今日が初めてだった。だから朔も心配になり、初めて付き添うことにしたのだ。先に立つのは母の瑞。篝は瑞の傍で歩き、朔は半歩遅れて二人の背を追った。
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居住区を抜けると、道は水路沿いに変わった。
冬枯れの葦が両岸に揺れている。水路を流れる水は透き通り、底の小石が朝日を受けてちらちらと光っていた。風が止むと水面が鏡のように凪ぎ、灰色がかった冬空を映す。
篝は早々と水路に目を奪われていた。
「さくにぃ、これ、さかな?」
「どれ?」
「あそこ。石の影——あ、動いた」
覗き込むと、指先ほどの小さな魚が石の陰に隠れては、すうっと流れに乗って出てくる。水が浅く澄んでいるから動きが丸見えだった。篝は膝を折りかけたが、瑞が振り返らずに「篝。裾が濡れますよ」と声をかけ、篝は素直に背を伸ばした。
「お母様は後ろにも目がついてるの」
篝が小声で朔に漏らす。朔は頷いた。母の目の良さは今に始まったことではない。
道の両脇に植えられた木々は葉を落としかけていたが、そのぶん枝の向こうに里の空が広く見えた。里の南は北に比べて結界の圧が薄いと父に聞いたことがある。鬼門にあたる北東を厚く張り、朱雀の方位にあたる南は結界が薄く、比較的風が通る。その差は肌に感じるほどのものではなかったが、空気がどこか柔らかい気がした。
二十分ほど歩いたろうか。篝の足取りが少しだけ鈍り始めた頃、前方に低い塀と、その奥に群青の瓦を載せた建物が見えた。
「あれが、浄身院だよ」
瑞が穏やかに言った。
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浄身院の門をくぐると、空気が変わった。
まず匂い。薬草の匂いだった。乾燥した草と苦味のある樹皮を混ぜたような、鼻腔の奥をかすかに引き締める香り。朔はこの匂いを知っていた——母の袖口に、いつも仄かに残っているものだ。けれど浄身院の中では、その匂いが空間を満たしている。
次に音。人の気配はあるのに、声がほとんど聞こえなかった。足音も衣擦れも、すべてが抑えられている。枯山水の庭を挟んで、いくつかの棟が回廊で繋がっていた。石畳は磨き上げられ、塵ひとつ見えない。庭に植えられた冬椿が一輪だけ紅い花を咲かせていて、それが淡い陽光に静かに灯っていた。
穏やかだった。けれど朔は、その穏やかさの下に張り詰めたものを感じた。清潔さが徹底されすぎている。声が抑えられすぎている。それは安らぎではなく、何か——汚すことを恐れている人々の緊張だった。
「瑞さま」
回廊の奥から、一人の女性が足早に歩いてきた。白い小袖に浅葱色の袿——浄身院の癒し手の装束だ。年齢は母と同じくらいだろうか。女性は瑞の顔を見ると、表情をほころばせた。
「まあ、お久しぶりです。お変わりなく——いえ、少し痩せられましたか」
「あら、そんなことはないわ。この子たちが食べ盛りで、私の分まで減っているだけよ」
瑞が微笑んだ。それは家で見る母の微笑みとは少し違った。声の温度が同じなのに、纏う空気が変わっている。朔にはそれが——母の「家の外の顔」なのだと直感的にわかった。
瑞は癒し手の女性と並んで歩きながら、短いやり取りを交わした。帰還した外采使の検疫状況、最近使い始めた新しい薬草の配合、入院している患者の経過。言葉の端々に専門的な響きが混じる。家では子供たちにわかる言葉で静かに語りかける母が、ここでは違う。かつてこの場所で第一線の医療に立っていた人の話し方だった。
篝は瑞の袖を軽く握りながら、黙ってその会話を聞いていた。母の知らない顔を見ている——その目が、好奇心と少しの戸惑いで揺れているのを、朔は横目で捉えた。
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回廊を進むと、開け放たれた広間があった。
そこに、朔は初めて「穢れの治療」を見た。
広間の奥に幾つかの牀が並び、外采使と思しき男女が横たわっていた。傍に膝をつく癒し手が、かざした手のひらから淡い光をゆらめかせている。光は水のように揺らぎ、患者の体を包んでは沁み込んでいく。癒除術。治療中の広間は静かだったが、その静けさには重さがあった。患者の一人が時折、低く呻く。癒し手の額にはうっすらと汗が浮いている。
——あれが穢れの「芽」か。
父から聞いた知識が、目の前の光景と結びついた。第一期。五感が変容し始める段階。癒除術で浄化できるが、放置すれば根を張る。
広間の奥にはさらに仕切られた区画があった。布の衝立の向こう。朔の目がそちらに向いた瞬間、瑞が静かに朔の肩に手を置いた。
「朔。あちらは見なくていいですよ」
声は穏やかだったが、指先にかすかな力がこもっていた。朔は衝立の隙間——ほんの一条の隙間——から、横たわる人の腕にまだらに浮かぶ黒い紋様を一瞬だけ見た。
第二期。「根」。黒い菌糸が体表に表れる段階。
心臓が一度、強く打った。
朔は目を逸らした。母の手が肩から離れた。けれどその指先の温もりが、しばらく衣の上に残っていた。
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篝の診察は、浄身院の奥まった一室で行われた。
清浄な空気。白い壁。窓から差し込む初冬の光が部屋を柔らかく照らしている。朔は部屋の隅で膝を揃え、壁際に座って待った。
癒し手が二人、篝の前に正座してかしこまった。一人は先ほど瑞を迎えた女性。もう一人は年嵩の男で、白髪交じりの温和な顔をしていた。二人は篝の脈をとり、額に手を当て、背に手を添わせ——丁寧に、けれど困惑を隠さない顔つきで、互いに目を見合わせた。
「穢れの蓄積は前回からほぼ変化なし……いえ、わずかに増えています」
女性の癒し手が、瑞に向かって言った。声を落としている。
「結界の中にいらっしゃるのに、なぜ蓄積が進むのか。大気中の極微量な穢れが——通常であればどなたにも影響しないはずのものが、篝さまの体内に溜まっていく。正直に申し上げて、前例がありません」
年嵩の癒し手が、手を膝の上に置いたまま首を傾げた。
「穢れとの相性というべきか……体が穢れを弾かないのです。受け入れてしまう。我々の癒除術で浄化は可能ですが、一時的な措置に過ぎません。根本の原因が——」
言葉が途切れた。原因がわからない。それがすべてだった。
朔は膝の上に置いた手を、きつく握った。
わかっていたことだった。篝の体が弱い理由は、誰にも説明できない。父の結界が弱いわけではない。浄身院の癒除術が劣っているわけでもない。ただ篝の体だけが——穢れに対して、無防備に開かれすぎている。
対面の壁際で、瑞が静かに座っていた。表情に変化はなかった。けれど朔には、母の沈黙がいつもと違うことがわかった。あれは穏やかさではない。聞き慣れた言葉を、もう何度目かわからないほど受け止めてきた人の、静かな忍耐だった。
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診察が一通り終わると、癒し手たちは浄化処置に移った。篝の体に蓄積した微量の穢れを癒除術で洗い流す、定期的な処置。
淡い光が篝を包む。篝は目を閉じて、力を抜いていた。慣れているのだろう。処置を受けるその姿は穏やかで、痛みもなさそうに見えた。
処置が終わり、癒し手たちが部屋を辞してから、瑞が篝の傍に膝をついた。
「気分はどう?」
「うん、少し楽になった」
篝が微笑んだ。それは嘘ではなさそうだった。処置の後はいつも少しだけ体が軽くなるのだと、以前篝が言っていた。
瑞は篝の額にそっと手を当てた。
そのとき——朔の目に、母の手が微かに光ったように見えた。
ほんの一瞬。まばたきのように短い。篝の額に当てた掌の周りに、薄い光の膜が揺れたように見えた。
篝が一瞬、ふっと表情を緩めた。目を閉じたまま、安らいだ息をつく。
朔は目を凝らした。けれど瑞の手にはもう何の光もなかった。窓から差し込む陽の加減か——気のせいだろう。癒し手の処置が効いているだけだ。朔はそう結論づけた。
瑞は何事もなかったかのように手を離し、篝の頬を撫でた。
「もう少し待っていてね。お母様、少しだけ話があるから」
瑞は立ち上がり、部屋を出ていった。
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篝と二人きりになった。
篝は腰かけたまま、窓の外を見ていた。浄身院の庭。冬枯れの景色の中に、ぽつりと紅い色が点っている。灰色と枯色の中に不意に灯る鮮やかさは、どこか篝自身に似ていた。
「さくにぃ」
篝がこちらを向いた。
「お母様、ここにいた頃はどんなだったんだろうね」
朔は少し考えた。家での母しか知らない。穏やかで、物静かで、けれど芯が強い。今日この場所で見た母は、それとは少し違っていた。癒し手たちと言葉を交わすときの声は生き生きとしていて、専門的な知識が次々と唇からこぼれ出ていた。
「……腕の良い癒し手だったんだと思う。ここの人たち、母上を見るとみんな嬉しそうだった」
「うん」
篝が頷いた。少し間があった。
窓の向こうで、癒し手が中庭を横切って薬草を運んでいるのが見えた。白い装束。穏やかだが迷いのない足取り。あの人たちは毎日ここで、穢れに蝕まれた人を治している。治せない人もいるのだと、先ほどの広間で朔は理解した。それでも手を伸ばし続けている。
「ねえ、さくにぃ」
篝が、ぽつりと言った。
「篝、お母様みたいな癒し手になりたいな」
朔は、息を呑んだ。
篝は恥ずかしそうに笑っていた。けれどその目は真剣だった。
「体が弱くたって——手のひらから光を出すだけなら、篝にもできるかも。お母様みたいに、誰かの痛いのを楽にしてあげられたら」
それは願望ではなかった。祈りに近い何かだった。
朔は胸の奥がぎゅうと締まるのを感じた。篝は外に出られない。走ることもできない。けれどこの子は——自分にできることを、自分なりに考えていた。外に出て戦えなくても、手のひらで誰かを癒すことならできるかもしれない。体が弱い自分だからこそ、痛みを知っている自分だからこそ——そう思っている。
「……なれるよ」
言葉が喉からこぼれた。
篝の目が少し大きくなった。
「さくにぃ、嘘ついてない?」
「ついてない」
嘘ではなかった。理由はうまく言えない。けれど、あの小さな手のひらの向こう側に、篝だけの光があると——朔にはそう思えた。
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日が傾き始めていた。冬の日は短い。水路の水面に夕暮れの空が映り、葦の穂先が風に揺れるたびに金と灰が混じりあう。
篝は瑞に手を引かれて歩いていた。行きよりも歩幅が小さくなっている。体力の限界が近いのだろう。けれど篝は弱音を吐かなかった。時折ぐっと唇を引き結んでから、また前を向いて足を運ぶ。
瑞は篝の歩調に合わせて速度を落としながら、時折朔の方を振り返った。母の目が——かつて癒し手として多くの患者を救ってきたはずのこの人の目が——複雑な光を帯びていた。
朔にはわかった。母の沈黙が、自分への怒りを堪えているのだと。
三人は黙って坂道を登った。夕暮れの光が細く長い影を地面に落としている。篝の小さな影が瑞の影に寄り添い、朔の影がその横を歩く。
門をくぐった。篝がほっと息をつくのが聞こえた。帰ってきた——父が張った結界の膜の中に。
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その夜、篝の部屋に水を届けに行くと、篝はもう褥に入っていた。
「今日、疲れたでしょ」
朔が枕元に水差しを置くと、篝は頬を褥に預けたまま、うっすらと目を開けた。
「ちょっとだけ。でもね、さくにぃ」
「うん」
「今度ね、お母様に、篝にも何か教えてほしいってお願いするの。癒除術のこと」
「母上なら、きっと喜ぶよ」
朔がそう言うと、篝はかすかに笑った。もう瞼が重くなっている。
「……さくにぃが結界をつくるでしょ。篝は、その中の人を治すの。そしたら、二人で全部できるよね」
声は途切れ途切れだった。眠りに落ちかけている。
朔は返事をしなかった。その代わりに、篝の褥の端を直し、そっと立ち上がった。
部屋を出て、廊下を数歩歩いたところで足が止まった。
——治し方がわからない。
あの癒し手たちの困惑が、瞼の裏によみがえった。その言葉の冷たさを、朔は初めて「現実」として受け取った。篝は癒し手になりたいと言った。嘘ではないと答えた。けれど——篝自身の痛みを取り除く方法は、まだ誰にも見つけられていない。
答えは出なかった。出ないまま、朔は自分の部屋に向かって歩き出した。冬の廊下は冷えていた。けれど敷地結界の温もりは、薄く、確かに足元を包んでいた。




