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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:1幕

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11話 : 里の息吹

 内工座を訪れた日から、朔の足は敷地の外に向かうことが増えた。


 基が「朝の鍛錬の後、敷地の外を歩いてよい」と許したのだ。もっとも、父の言葉はいつも通り簡潔だった。朝餉の膳に箸を伸ばしながら、「里の道は覚えておけ」とだけ。それが許可であると朔が気づいたのは、母の瑞がかすかに微笑んだからだった。


 最初の数日は独りだった。門を出て、すぐに戻る。近隣の道を少しだけ歩いては、土御門家の塀が見える距離で足を止めた。けれど内工座を訪れたとき、里はただの地面の広がりではなく、息をしている場所だと知ってしまった。もっと歩きたい。もっと見たい。その衝動は、法力の膜を練るときの没頭に似ていた——一歩先に何があるのかを、この目で確かめたかった。


 そしてこの朝、基が鍛錬の終わりに「ついてこい」と言った。


---


 高台を下りる坂道は、すでに何度か歩いて記憶していた。けれど今日は基が先に立ち、いつもと違う方角に足を向けた。


 西と南の間——土御門家から見て南西に下る細い道だった。両脇に生垣が続き、その向こうに素朴な板葺きの屋根が並ぶ。朝の炊煙がところどころから細く立ち上り、朝餉の甘い匂いが空気に薄く溶けていた。


 「父上」


 朔は基の隣に並びながら、足元の土を踏みしめた。


 「この道は、どこまで続いているのですか」


 「結界の際までだ」


 基の声は素っ気ない。けれど足運びは朔の歩調に合わせてある。直垂姿の父は、朝の光の中ではただ背の高い影だった。


 やがて基が足を止めた。道の片側に、朔が初めて見る場所があった。


---


 低い石塀に囲まれた敷地。塀の内側には苔むした飛び石が奥へ続き、その先に小さな堂が見えた。木造の、質素な建物。規模は土御門家の主殿よりずっと小さいが、どこか厳かな空気が漂っている。


 けれど朔の目を引いたのは堂ではなく、その手前の地面に並ぶものだった。


 石碑。


 大小さまざまな石碑が、飛び石の両脇に整然と並んでいる。近づくと表面に名前が刻まれていた。名前の下に、小さく二行の文字。日付と、それに添えられた一文——「外界にて殉ず」「決死圏にて殉ず」。


 一つ、二つ、三つ——朔は石碑を目で追い始めた。四つ、五つ。並びが途切れず、道の奥まで続いていく。数えきれなかった。並んでいるのは数十基にとどまらない。苔の生えた古い碑から、刻まれた文字がまだ新しい碑まで。年月を跨いで、石碑は淡々と増え続けている。


 喉の奥が、ぎゅっと締まった。


 朔は足を止めたまま、石碑の列を見つめていた。里の中から結界の外を眺めていたとき、外界は灰色の海だった。遠くて、ぼんやりしていて、現実味が薄かった。けれどこの石碑は違う。里のただ中に、名前を刻んで建っている。


 「祖霊堂だ」


 基の声が、朔の思考を断った。


 父は石碑に目を向けていなかった。堂の方を見て、ただ静かに立っていた。


 「外采使の殉職者を弔う碑がある。里を出て、戻らなかった者たちだ」


 それだけ言って、基は塀の外を先へ歩き出した。石碑について語ることも、朔に何かを説いたりすることもなかった。ただ、「ここにこういう場所がある」という事実を見せただけだった。


 朔は最後にもう一度、石碑の列を振り返った。初冬の弱い朝日が碑の表面を淡く照らしている。苔の緑と、新しい碑の白い石肌。どの名前も、朔は知らない。けれどこの人たちがいたから——あの門を潜って外に出て、資源を持ち帰ったから——里は今日も息をしている。


---


 道を歩き直すと、基は塀沿いに足を進めながら、ぽつりと口を開いた。


 「朔、結界は均一に張られていると思うか」


 唐突な問いだった。朔は少し考え、首を横に振った。


 「……いいえ。たしか、鬼門にあたる北東が最も厚いと聞きました」


 「そうだ。では家の敷地結界はどうだ」


 朔は歩きながら、朝ごと肌に感じている敷地結界の感覚を思い出した。日々の鍛錬の中で、結界の温もりが均一ではなく、場所によって微かに差があることには気づいていた。


 「篝の部屋のあたりが一番厚い気がします。庭の端に行くと少し薄くなります」


 基はわずかに足を緩めた。振り返りはしなかったが、声色がほんのかすかに柔らかくなった。


 「結界は壁ではない。膜だ。一枚の大きな膜。どこを厚くし、どこを薄くするかは張る者が決める。篝の部屋の周囲を最も厚くし、表門に近い場所をやや薄くしてある。守るべきものの近くを厚く、人が出入りする場所は通しやすくする」


 朔は黙って聞いていた。父の結界が——篝のことを最も考えて張られているという事実が、胸の底にじんと沁みた。父は口数が少ない。篝を心配していると直接言うことはない。けれど結界に、すべてが刻まれている。


 「里の大結界も同じだ」


 基は道の先を見据えたまま続けた。


 「北東の鬼門を最も厚くし、外采門の周囲は開閉のために薄く施す。限られた法力と法石を、どこにどれだけ配分するか——それが結界の術理だ。無限に力があれば均一に張ればいい。だがそうはいかない。足りない中で、何を最も守りたいかを決める。結界とは——選ぶことだ」


 選ぶこと。朔はその言葉を反芻した。結界術とは力の壁を作る技ではなく、「何を守るか」を選ぶ技なのだ。父が篝の部屋を最も厚くしたように、里の結界もまた、守るべきものの優先順位が刻まれている。


 「……いつか、僕にもそれが判断できるようになりますか」


 小さな声だった。


 基は答えなかった。数歩先を歩く父の背中は、朝の光に照らされて大きく見えた。


---


 道は再び里の中心に向かって緩やかに登り始めた。


 隣家の塀の内側から、女性の声が聞こえた。子供をあやす声。水路沿いの道では、二人組の男が堰の石を積み直している。朔はその手つきを目で追いながら通り過ぎた。里の人々はそれぞれの持ち場で働いている。結界を維持する者、武器を作る者、食料を運ぶ者、水路を整える者。誰もが、この狭い結界の中で自分の役割を担っていた。


 道の向こうに、広場のような空き地が見えた。


 その隅で、薙刀を振っている影があった。


 朔は足を止めかけた。少年だった。朔よりも頭一つは背が高く、体つきもがっしりしている。朔よりいくつか年上だろう。背丈に対して不釣り合いに大きな薙刀を、それでも正確な軌道で振り下ろしている。素振り。黙々と、一人で。足捌きに無駄がなく、薙刀が風を切る音には芯のある重さがあった。


 ——あの動き、きれいだ。


 朔はしばらくその影を見つめていた。自分が毎日法力の膜を練るように、あの少年も毎朝あの場所で薙刀を振っているのかもしれない。同じような時間を、同じような静けさの中で繰り返している——そんな気がした。


 「朔」


 基の声に促されて、朔は足を動かした。振り返りかけたが、基はもう先を歩いていた。薙刀の少年のことを父に尋ねるには、もう距離が開いていた。


---


 土御門家の門に向かう最後の坂を登っているとき、道端で畑仕事をしていた老人が顔を上げた。


 「おや、基の倅か」


 しわだらけの顔に、穏やかな目。老人は腰を伸ばし、朔をしげしげと見つめた。


 「父によく似た目をしておるなぁ。鋭い。じっと見られると、こっちの腹の中まで覗かれそうでな」


 「あ……すみません」


 朔が慌てて目を逸らすと、老人はからからと笑った。


 「褒めておるんだよ。良い目だ。基もそうだった——子供のころから、真っ直ぐ見つめる目をした子でなぁ」


 基は三歩先で足を止めていたが、振り返りはしなかった。老人に軽く頭を下げ、何も言わない。けれどその沈黙が、基なりの敬意の示し方だと朔にはなんとなくわかった。


 門に辿り着くと、結界の法力がふわりと肌に返ってきた。外との境目に立つたびに思う——ここは父が守っている場所だ。篝がいる場所だ。けれど今日改めて感じたのは、この結界の外にもまた、守られるべき人々がいるということだった。


 あの老人。水路を直す男たち。子供をあやす母親。そして——石碑に名前を刻まれた、もう帰ってこない人たち。


 基の倅——里の人々にとって、朔はそういう存在なのだ。それは誇らしさよりも、じわりとした重さとして胸に落ちた。


---


 篝の部屋の襖を開けると、妹は文机に向かっていた。


 体調の良い日だった。頬にわずかに赤みがあり、目に力がある。朔が入ってくると、篝は顔を上げて花が咲くように笑った。


 「おかえり、さくにぃ。今日はどこに行ってたの?」


 「里の中を歩いてきたんだ。父上と一緒に」


 朔は篝の隣に腰を下ろした。篝は身を乗り出すようにして朔の顔を覗き込む。


 「ねえ、何があった? どんなとこだった? 教えて」


 朔は、今日歩いた道のことを話した。


 坂を下りると家々が並んでいること。炊煙が立ち上って、粟粥の匂いが朝の空気に溶けていること。水路があって、男の人たちが石を積み直していたこと。子供をあやす声が聞こえたこと。


 篝は目を輝かせて聞いていた。朔が話すたびに、小さく息を呑んだり、「うん、うん」と頷いたりする。外に出られない篝にとって、朔の言葉は窓だった。朔がこの目で見てきたものを、篝は耳と想像力で受け取る。


 「それから、広場で薙刀を振ってる人がいたんだ。僕より年上に見えた——すごくきれいな動きだった」


 「薙刀! どんな人? 顔は? 怖い人?」


 「ううん。怖いっていうか、真剣な——一人で黙々とやっていた。僕が法力を練るときみたいに、毎日やっているんだと思う」


 「ふうん」


 篝は少し考えるように小首を傾げた。


 「さくにぃと同じだね。その人も、毎日なにかを積み重ねてるんだ」


 その一言が、妙に胸に響いた。朔は軽く頷いて、話を続けた。


 祖霊堂の、あの無数の石碑のことは——少し迷ってから、話すのをやめた。小さな堂があることだけを教え、庭先に並ぶものについては口を噤んだ。篝は聡い。石碑の話をすれば、それが何を意味するのか、すぐに察するだろう。帰ってこなかった人たちのこと。篝にその重さを背負わせたくはなかった。


 代わりに、坂道で出会った老人のことを話した。


 「父上に似ていると言われたんだ。目が鋭いって」


 「あはは。さくにぃ、お父様に似てるのは目だけだよ。お父様はこわーい顔してるけど、さくにぃは優しい顔してるもん」


 篝がくすくす笑った。朔も少しだけ口元が緩んだ。


 その頃には篝は話を聞くだけでは飽き足らなくなっていた。文机の引き出しから細い枝を取り出すと、部屋の隅に置いてある浅い木箱——庭から持ち込んだ砂を敷いてあるもの——の前に座り込んだ。


 「さくにぃ。お家を出て坂を下りるでしょ? それで最初に何が見えるの?」


 「生垣があって……その向こうに、板葺きの屋根がたくさん。右の方に水路が流れてて——」


 朔が話すたびに、篝は砂の上に枝で線を引いていく。坂道、生垣、屋根の並び。水路。広場。道の曲がり角。朔の言葉を一つずつ受け止めて、篝の手が小さな地図を描き出した。


 正確な地図ではなかった。篝は実際の景色を見たことがないから、大きさも距離感も想像だ。けれどそこにはたしかに里の息吹があった。朔が見てきた風景が、篝の手を通じて砂の上に現れている。


 ——以前も、こうだった。


 朔は篝が砂に枝を走らせる横顔を見つめながら思い出していた。庭の地面に外の世界を描いた日。あの絵は雨に流されたが、篝の中に残ったものは残り続けた。


 砂の上の線は、指で撫でれば崩れる。それでも篝の手は止まらなかった。


 「ここが、お寺みたいなとこ?」


 「ううん。お堂みたいな——あ、もう少し左に。うん、そんな感じ」


 篝はにこにこしながら線を足していく。朔は指で位置を示しながら、篝の地図が少しずつ里の形に近づいていくのを、不思議な温かさで見守っていた。


 ——いつか篝にも、この景色を自分の目で見せたい。


 けれど今日はその願いに、小さな焦りが混じっていた。祖霊堂の石碑。帰らなかった人たちの名前。この里は守られている場所だ。その現実を、父は言葉ではなく石碑の前を通るという行為で見せた。


 篝の地図が仕上がった。小さな砂の上に描かれた、この子だけの里の風景。朔は最後に一つだけ訂正した。


 「ここの坂、もう少しだけ急なんだ」


 「えー、さくにぃの足が短いだけでしょ」


 篝の軽口に、朔は笑った。砂の上の里は歪んでいたけれど、それでよかった。篝が見る里は、篝の里だ。いつか本物の景色の中を一緒に歩ける日が来たら、そのときは——。


 その先を、朔はまだ言葉にできなかった。けれど胸の底で、小さな火が一つ灯ったことだけは確かだった。


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