110話:痩せた畝
善次郎が立ち止まった。
外采棟に向かう道の途中。日が傾き始めた空の下で、善次郎の影が朔の影よりひとまわり大きく伸びている。善次郎は腰帯の脇袋に手を入れた。
布に包んだ小さな石を取り出す。暗い灰色で、法力はかすかに温い程度。善次郎はそれを掌に乗せ、朔の前に差し出した。
「これを知っているか」
朔は足を止めたまま法石を見た。暗灰色、微弱な法力残量。形は不定形で加工されていない。見覚えがあった。
「七位法石だね。外側際に大量にある。法力が弱すぎて護帯にも結界にも使えない」
善次郎が頷いた。
「……そうだ。使い道がない」
善次郎は法石を掌の上で転がした。親指で石の表面を撫で、転がし、また撫でる。言葉を選んでいた。
「あの日、帰還路で土に触った。穢れで養分が枯れている。だが——この石の周りだけ、土が違った」
善次郎が足を止めた。夕暮れの道端で朔と向き合う。
「今朝、里の畑にも触った。里の土も痩せている。穢れのせいじゃない。土に力がない。根は伸びているが根自体が痩せていた。畑仕事の里人も、じいさまの頃はもう少し採れたと嘆いていた」
善次郎が法石を持ち上げた。
「この石は護帯には弱すぎる。だが……土には、ちょうどいいかもしれない」
朔が法石を受け取る。燭明術で法力の残量と質を確認した。視界の端が澄み、法石の内部が透ける。法力が微かに脈動している——護帯の法石と比較すると数十分の一の出力。循環回路を動かすには到底足りない。
だが微弱な法力が長期間にわたって地中に滲み出し続けるとしたら。
朔の目が変わった。
「善次郎、ちょっと待って。つまり、これを土に埋めて、法力を土壌に少しずつ供給する——植物がそれを根から吸う。そういうこと?」
善次郎が頷いた。一度だけ。
「俺の樹相術で根を活性化できる。地錬術で法力の通り道を作れる。だが法力源がない。法石棚から引っ張るわけにはいかない。だがこいつなら——誰も使わない石だ」
朔は法石を掌の上で転がした。足りることは何もないと思われていた石が、善次郎の手には「ちょうどいい」と映っている。
「法力の均等配分は結界術の基本。法石の配置を設計すれば、善次郎の地錬術で法力の通り道を作れる……かもしれない」
「……やれるか」
「配置の計算はできる。でも——土のことは、僕じゃわからない。善次郎が土壌の状態を読んで、どこに法力が必要かを教えてくれないと」
善次郎は頷いた。短く、一度だけ。善次郎にとってはそれが最大の返答だった。
二人は外采棟に向かって歩き出した。朔の頭の中ではすでに法石の配置図が動き始めていた。護帯の循環回路と同じ比率——法力を一箇所に溜め込まず、均等に拡散させる。善次郎は隣を歩きながら何も言わなかった。だが朔には、善次郎の歩幅がいつもより少しだけ狭いのがわかった。
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翌日の昼下がり。外采棟の裏手の訓練場。
凌は練刀を振っていた。
何手目かわからない。汗が顎を伝い、握りの布が湿っている。腕の筋が熱い。法力を刃に通すたび、切っ先から霧のように漏れる。漏れるたびに角度を変え、また振る。虎太郎の効率型を真似た鍛錬は、とうに諦めていた。虎太郎の法力は凌のものと動き方が違う。同じ回路をなぞっても同じようには流れない。あの日の組み手で虎太郎の太刀を一手も届かせられなかったときから、わかっていたことだった。
だからいま凌が探しているのは、自分の出力型のまま漏れを減らす角度だった。手首を僅かに傾け、法力を刃に注ぐ方向を変える。一太刀。漏れる。もう一太刀。やはり漏れる。切っ先から散る法力の霧が夕陽に光った。
「……お前さ、踏み込むとき炎推使ってるだろ」
声がした。訓練場の脇。
赤みがかった茶髪を耳の後ろで留めた男が、腕を組んで立っていた。茶色の目が凌の足元を見ている。左頬に古傷が一筋。腰に双短刀——北斗衆第三班の前衛、戸隠征矢。その後ろに、弓の手入れ道具を抱えた長身の女が立っている。漆黒の長髪を高い位置で結い上げた、鋭い黄鉄色の目。矛代鶫。虎太郎の妹で、第三班の班長だった。
鶫は訓練場の端の木柱に寄りかかり、弓の弦を外しにかかった。征矢だけが凌のほうを向いている。
「……ああ」
凌は素振りを止めなかった。征矢の言う通りだった。踏み込みの瞬間に足元へ雷火術の炎推を流し、加速を斬撃に乗せようとしていた。同じ雷火術の使い手なら、足元に走る法力の残光が見える。
「速くなるけど、振りが大きくなってる。加速した分だけ止まれなくなるんだよ、それ」
凌の手が止まった。征矢の指摘は的確だった。加速は乗る。だが振り切った後に次の動作へ移るまでの隙が消えない。怪異を相手にすれば、その一拍が命取りになる。
征矢は少し笑った。左頬の傷が動く。
「同じ雷火術でも俺のは『逃げるための速さ』だからさ。止まり方のほうが大事なんだよ。……あんたのとは使い方が違うだろ?」
逃げるため。凌はその言葉を反芻した。考えたことがなかった。法力を流すのは「速く斬る」ためだけだと思っていた。速く止まるために加速する——怪異の前で踊るように動き視線を引きつけるためだけの速さ。自分の中にはない発想だった。
弦を替え終えた鶫が、新しい弦の張りを指で確かめながら凌の練刀に目をやった。一瞥。それだけだったが、視線に重みがあった。
「兄さんの真似してもしょうがないよ。あんたにはあんたの力があるでしょ。——それを、どう使うかだけ考えなさい」
鶫の声は虎太郎のように穏やかではなかった。歯切れがよく、短い。だが突いている場所は同じだった。お前のやり方を見つけろ——前衛の父と兄とは違う道を選んで後衛の弓を取った人間の言葉だった。
凌は言い返さなかった。
鶫が弓を肩にかけ、征矢が軽く片手を上げて訓練場を離れていく。二人の足音が遠ざかった。
凌は練刀を構え直した。三太刀目。手首の角度を、さっきよりもう一度だけ変える。法力が柄から刃に通り、切っ先に向かう——漏れが、減った。完全ではない。だが刃の先端から霧のように散っていた法力が、いくらか収まっている。
なぜ減ったかはわからない。法力を通す角度に正解がある——今日わかったのはそれだけだった。
「凌、手見せて」
蓮が水筒を抱えて訓練場の端に立っていた。いつから見ていたのかわからない。凌が練刀を下ろすと、蓮は迷わず凌の右手を取った。掌にマメが潰れた跡が三つ。皮がめくれて赤い肉が覗いている。
蓮が癒除術を流した。水行の法力が傷口を覆い、痛みが引いていく。
「無茶しないの」
「うるせぇ、大丈夫だ」
蓮はため息をついた。それ以上は言わなかった。
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夕刻。農地の端に空き畝が一つあった。
休耕地の隅で、菜花が数株だけ萎びた葉を残している。里人たちは日が傾く前に引き上げていた。畝は静かだった。
善次郎と朔が二人で畝の前に立っている。凌と蓮はいない。善次郎が声をかけたのは朔だけだった。まだうまくいくかどうかわからない。善次郎は結果が見えないものを人前に出すことを好まない。
善次郎が畝のそばにしゃがみ、練薙刀の石突を地面に突き立てた。柄に手を添え、地錬術の法力を流し始める。温く重い法力が柄を通って石突から土に沁み込んでいく。畝の中に法力の通り道——法力が流れやすい筋目を土中に引く作業だった。
土が固い。法力が通りにくい。善次郎は焦らなかった。力を弱め、ゆっくりと通す。
朔が七位法石を三つ取り出した。善次郎が帰還路で複数回に分けて拾い集めたもので、それぞれ布に包まれている。朔がしゃがんで畝の長さを歩数で測り、法石を等間隔に埋める位置を示した。
「ここと、ここ。間隔は——十五歩」
善次郎が黙って法石を受け取り、朔が指した位置で地錬術を使って土中に押し込んだ。掌から温い法力が流れ、法石の表面を土壌と馴染ませていく。三つ目を埋め終えたとき、善次郎の爪の間は黒い土にまみれていた。
善次郎は畝に両手を当てた。樹相術を流す。木行の法力が掌から土に沁み、根に向かう——。
法力が、曲がった。
通り道を辿るはずの法力が途中で横に逸れている。畝の土は農地として耕されているが、その下の地盤が法力を吸い込んでいた。善次郎が作った筋目の壁が薄く、地盤との境で法力が散ってしまう。通り道が途切れた。
善次郎の手が止まった。指先が土の中に沈んだまま動かない。
「……地盤が法力を散らしてる?」
朔が膝をつき、善次郎の手の横に自分の掌を当てた。燭明術で土の中を透かし見る。法力の流れが途中で霧散していた。
「……道が保たない」
善次郎が低く言った。声に苛立ちはない。だが手を引こうとしなかった。
沈黙が落ちた。畝の上に夕陽が傾いている。善次郎は畝に手を当てたまま動かない。朔も考えていた。
「善次郎。法力の通り道の外側に、薄い壁を作れないかな」
善次郎が顔を上げた。
「護帯の外殻と同じ原理だよ。結界で壁を作るんじゃなくて——善次郎の地錬術で通り道の周囲を少しだけ固めれば、法力が横に散らなくなる」
善次郎はしばらく黙っていた。それから、もう一度両手を畝に当てた。地錬術の法力を、今度は通り道の周囲に薄く流す。道を作るのではなく、道の壁を作る。善次郎の得意な「壁」だった。
通り道の周囲がわずかに固くなる。法力が横に散る隙間が塞がれていく。善次郎は壁を薄く保った。分厚い壁は土の中の空気と水を止めてしまう。土中に壁を作る経験はなかったが、加減は体が知っていた。
善次郎が再び樹相術を流した。法力が通り道を辿り、最初の法石に触れる。法石の微弱な出力と、通り道を伝ってきた樹相術が合流する。法力が二つ目の法石に届く。三つ目。善次郎は手を土の上に置いたまま、目を閉じた。
「……届いた」
善次郎の声が掠れていた。
「法力が根に触れてる。吸っているかはまだわからない——だが、道は繋がった」
朔は何も言わなかった。善次郎の横顔を見ていた。壁を張るときの険しさではない。もっと穏やかで、もっと遠い目。
「明日見に来よう」
「……ああ」
善次郎が立ち上がった。膝の土を払い、畝を見下ろす。何も変わっていないように見えた。萎びた菜花の葉が夕陽に揺れている。法石も通り道も目には映らない。
だが、道は繋がった。
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外采棟の裏手の井戸。
善次郎は桶の水で手を洗った。冷たい水が指を走る。爪の間に入り込んだ黒い土が落ちきらない。指の腹でこすり、何度か水をかける。一本ずつ、丁寧に。善次郎にとって土は汚れではなかった。だが外采使の手が土まみれでは怪訝に思われる。
足音がした。凌が裏手の角を曲がってきた。善次郎が井戸端で手を洗っているのを見る。視線が善次郎の手に行った——爪の間の黒い土。穢れではない。ただの土だった。
凌は何も言わなかった。通り過ぎざま、善次郎の肩に掌をぶつけた。軽く、一瞬だけ。善次郎は顔を上げなかった。何も返さなかった。凌の足音が棟の中に消えていく。
善次郎は井戸の縁に腰を下ろした。洗い終えた手を膝の上で乾かす。指先には今朝触った畝の手触りが残っていた。薄く、力の足りない土。それでも根を伸ばそうとしている土。夕方に埋めた法石の、わずかに温い感触。地錬術で引いた筋目の手応え。
急がなくていい。木は急がない。
庇の端に鳴弦が止まっていた。善次郎の木行の法力にゆるやかに応じて、羽を膨らませている。
善次郎が立ち上がり、棟に入ろうとしたとき、奥の土間の灯りの中に朔の背中が見えた。広げた図面の上に筆が走っている。穢れ灯の外殻図面だった。善次郎はちらりとそれを見た。見ただけで何も言わず、棟の奥に消えた。




