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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
エピローグ

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エピローグ : 灰色の海の底で

このささやかな物語に目を留めてくださったこと、深く感謝いたします。

荒涼とした世界で灯る、名もなき命の瞬き。

この物語の欠片が、あなたの心の片隅でひそやかに息づきますように。

 灰色の霧だった。


 息をしているものと、していないものの区別がつかない世界。見上げても鉛色の空、見渡しても黒く歪んだ木々が苦悶にねじれた腕のように天を掻いている。地面は泥濘で、踏み出すたびに靴底が沈み、離すときにぬちゃりと鳴った。泥の中に何か白いものが見えたが、確かめる者はいない。進んでいるのか同じ場所を歩いているのか、灰色の中では距離というものが信用できなくなる。


 空気が重い。吸い込むたびに肺の奥が湿り、腐葉と鉄錆のまじった臭いが舌の根にこびりつく。古い血の匂いに似ているが、もっと深く、もっと古い。何かがこの大気に溶けている——目には見えないが確かに在るもの。肌がちりちりと痺れていた。手の甲を見ると、毛穴のひとつひとつが開いて灰色の空気を吸い込もうとしているように見える。


 この感覚を、ここでは誰も異常とは呼ばない。ここではこれが当たり前だった。


 青年はその中に、静かに立っていた。


 長い漆黒の髪を一つに束ね、手に白い杖を携えている。杖の先端に連なる六つの環が、風もないのにりんと微かに鳴っていた。呼吸をするように。青年の足元だけ泥が乾いて、靴の裏さえ汚れていない。この青年のいる場所だけが灰色の海の底から切り離されたかのようだった。


 肩に小さな鷹が止まっている。灰銀色の羽に琥珀色の瞳、細い足にはくすんだ二色の紐が巻かれている。


 鷹が翼を広げた。音もなく舞い上がり、灰色の大気を裂いて霧の向こうへ消える。


 青年は動かない。杖を突いたまま静かに呼吸を整えている。待つことに慣れた者の姿勢だった。


---


 甲高い一声。


 鷹が戻ってきた。急降下して肩に降り立ち、琥珀の瞳で青年を真っ直ぐに見返す。羽が逆立っている。


 青年はその目を見て小さく頷いた。鷹の見た景色がそのまま伝わったかのように。


 「三つ向こうの谷筋。一体。——古い」


 短い呟き。表情は変わらないが、杖を握る指がほんの一瞬だけ白くなった。


 視線を移せば、青年の前方には仲間の影が控えていた。


 壁のように大きな体躯の青年が長い柄物を携えて立っていた。微動だにしない。腰を据えて重心を大地に沈めたまま呼吸ひとつ乱さず、そこにいるだけで空気が安定する。傾いた木々がほんの少し真っ直ぐになったように見えるのは錯覚だけではない——足元の泥がこの青年の周りだけ固く締まっている。


 その斜め前にもう一人、背丈はあるが細い。鋭い赤銅色の目が灰色の霧を射抜くように前方を睨み、腰の一振りに鯉口を切りかけたまま不敵な笑みを浮かべている。


 「——退屈しなさそうだな」


 低い声に恐れの欠片もなかった。


 杖の青年の横には小柄な少女がいて、弓を手にしている。澄んだ目が三人を見回し、全員の状態を一瞬で読み取ったように頷いた。


 「みんな、息が乱れてないね。——いけるよ」


 明るい声だった。この霧の底には似つかわしくないほど温かい。


---


 杖の環が一度、澄んだ金属音を立てて鳴った。四人が同時に顔を上げる。


 「右の尾根を回り込もう。谷底には降りない。こちらの地で迎え撃つ」


 短い言葉で方針を示しただけで三人が動いた。誰も聞き返さない。それだけの時間を、この四人は共に歩いてきた。


 大柄な青年が先頭を取り、柄物の石突を地面に突くと腹に響く振動とともに足元から太い根が盛り上がった。歪んだ大地を整えるように、ぬかるんだ泥を押し固めるように根が伸びていき、この青年が通った後には道ができていく。


 刀の青年が一歩遅れて続く。猛禽のような目で霧の奥に獲物を見据え、首筋の筋が浮くほど全身の感覚を研ぎ澄ませていた。


 少女と杖の青年が後方につく。少女は走りながら弓の弦を一度弾き、澄んだ音を反響させて弦の調子を確かめた。杖の青年がちらりと少女を見る。少女が小さく頷き返す。——大丈夫。それだけで通じている。


---


 霧の奥からそれは這い出てきた。


 長い黒髪が、蛇のようにうねりながら地面を這い、木の幹を伝い、枝に巻きつき、四方を包み込もうとしている。一本一本が太く、油のような光沢を帯びて脈動していた。


 甘い腐敗の臭いが空気を一段重くし、肌が焼けるように粟立つ。鷹が低く身構えて喉の奥で唸った。


 般若の面。白い肌。


 身の丈は木の幹ほどで、霧の中からゆっくりと全容が浮かび上がる。黒髪は空間を泳ぎ、じわりと円を描くように広がっていく。囲い込もうとしている——逃がさないという意思だけが明確な、原始的な暴力だった。


 その背にもう一つの顔がある。鬼。歪んだ口が裂けるように笑い、四つの腕がゆっくりと構えを取った。


 肌がびりびりと粟立つ。空気そのものが怯えている。少女の弓を持つ指先が一瞬だけ震え——すぐに止まった。大柄な青年の肩がほんの僅かに強張ったが、足は微動だにしない。


 刀の青年の目が鋭くなり、腰に力がこもる。


 杖の青年が背中越しに一言。


 「——待って」


 刀の青年の手が鯉口から離れた。考えるより先に、体がそう応えていた。この声を疑ったことは、一度もない。


---


 大柄な青年が柄物の石突を地面に叩きつけると、ごうっと大地が鳴った。


 足元から太い根が噴き出してこちらと怪異の間に木の壁がせり上がる。分厚い。黒髪の束が壁に絡みつき、ぎしぎしと軋ませるが崩れない。一瞬を食い止めた。


 同時に杖の青年が杖を振り、環が鳴った。何かが目には見えないまま空間に広がっていく。


 肺の奥に張りついていた膜がふっと緩み、呼吸が楽になった。肌を犯していた灰色の「何か」が空気ごと遮断された。


 「——行こう」


 刀の青年が矢のように飛び出した。木の壁を蹴り台にして跳躍し、空中で身を捻りながら蒼白く光る刃を振り抜く。一閃。黒髪の束が断ち切られて宙に舞い、着地と同時に怪異の懐へ潜り込んだ。般若の面が首をもたげ、鬼の腕が振り下ろされる。


 躱す。


 爪の先が頬を掠め、風圧で切れた肌から一筋の赤が走った。だが足は止まらない。刀が弧を描いて鬼の右肩に食い込む黒髪の根本を一薙ぎに斬り飛ばすと、怪異の体勢が一瞬だけ崩れた。大柄な青年が投じた柄物の石突が残る鬼の腕を打ち据え、軌道をそらす。その間に刀の青年は身を翻して壁の裏側まで飛び退いた。


 般若の口が開いた。声が漏れる。言葉のようなものが——意味は持たないのに、頭の芯を直接掴んで揺さぶるような不快な振動が空気を伝う。耳の奥が熱くなり、視界が白く飛ぶ。杖の青年の指が白く握りしめられた。——頭の中に、手を突っ込まれている。


 その刹那、甲高い鳴き声が霧を引き裂いた。鷹が灰銀色の翼を広げて怪異の顔面すれすれを旋回しながら叫び、その一声が般若の「声」を掻き消す。一瞬の静寂が戦場を洗い流した。


 少女が弓を構えていた。矢が微かに光る。


 ひと呼吸——放つ。


 矢は力そのものを奪うように怪異の動きを鈍らせ、二の矢が関節を射抜き、三の矢が膝を貫いた。正確に、冷静に。怪異の膝が折れかける。


 退がってきた刀の青年の頬に少女が掌をかざした。微かな光が血を止める。その目がほんの一瞬だけ揺れたが——声は温かいままだった。


 「大丈夫、まだいけるね」


---


 怪異が咆哮した。


 黒髪が木の壁を砕いて破片が飛び散り、鬼の腕が残骸を薙ぎ払い、般若の面がこちらを見据えた。


 大柄な青年が薙刀を構え直して前に出た。髪の束を柄で叩き落とし穂先で弾きながら一歩も退かない。足元の根が全身の重みを大地に縫い止め、壁のように立ち塞がる。


 杖の青年が杖を高く掲げた。環が鳴り、澄んだ音が霧を貫く。


 杖を中心に壁が広がった。目には見えないが、黒髪がその壁に触れた瞬間ばちりと空気が爆ぜて弾かれる。


 怪異が壁を叩く。壁がきしむ。青年の額に一筋の汗。けれど表情は変わらない。


 静かに壁の向こうを見つめている。壁越しに怪異の内側を透かすように、何かを探している。


 目が細まった。


 「——面の下、胸の奥。拳ひとつ分、左」


 核の位置。それが見える。この青年には。


 杖が宙を薙ぎ、環が三度鳴った。怪異と壁の間の空間が局所的に歪み——見えない足場が斜めに三段、宙に浮かんだ。


 刀の青年を見た。目が合った。何も言わなかった。


 「……今だ」


 刀の青年が壁の境界から迷いなく飛び出した。


 怪異が振り向く。鬼の四つの腕が一斉に襲いかかる。


 少女の矢が飛んだ。鬼の手首を射抜いて振り下ろされる腕の軌道をずらす。


 刀の青年は空中の何もない場所に足をかけ、見えない足場を一段、二段と蹴り上がると身体を宙へ跳ね上げ、三段目で体を反転させて怪異の死角——真上から落ちた。


 蒼白い一閃。


 般若の面の下、胸の奥、拳ひとつ分左——そこを一太刀で貫いた。


 黒髪が力を失って地面に落ちる。般若の面が真っ二つに割れて白い破片が霧の中に散り、鬼の顔が歪んで四つの腕が力なく垂れる。大地に還っていくように、音もなく崩れ落ちた。


 風が止んだ。灰色の霧が少しだけ薄くなった気がした。


---


 大柄な青年が柄物の石突を叩いて汚れを落とした。無言で、仕事は終わったという空気だった。


 少女が駆け寄って刀の青年の手を取った。指先から手首にかけて浅いが長い切り傷が走っている。


 「——手、切れてるじゃない」


 「かすり傷だ」


 目をそらす。少女は何も言わず傷口に掌をかざした。淡い光が傷跡をなぞり、薄い線だけを残して消えていく。


 杖の青年は杖を地面に突いて小さく息をついた。鷹が肩に戻る。


 青年は鷹の頭をそっと指先で撫でた。鷹が目を細める。


 霧の奥を見つめる。まだ影が蠢いている。


 「……まだ奥がある。行こう」


 穏やかで、けれど揺るがない声。


 三人が頷いた。言葉はいらない。ここに至るまでの長い道のりが、その沈黙を信頼に変えていた。


 四人と一羽が、再び灰色の海へ踏み出していく。


 青年の横顔は穏やかだった。——ほんの少しだけ、寂しそうに。


---


 ——これは、ずっと先の物語。


 今はまだ、あの少年が四歳で、灰色とは正反対の澄んだ空の下、世界の端に立ちすくんでいた、秋の朝の話から始めよう。


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