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吾輩随想録「猫と主と時々の来客」

吾輩、家出を決意する

作者: 双瞳猫

苦沙弥先生の家の子供たちには追いかけ回され、細君には邪魔者扱いされ、肝心の主人は自分の胃弱のことばかり。こんな家、もうこりごりだ! ある決意を胸に、吾輩は家出をします。

「吾輩は猫である」の猫の視点から描く、ささやかな冒険譚です。

 序章 決意

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。


 と、まあ吾輩の出自については、かつてそう述べたことがある。今となっては、あの薄暗いじめじめした場所よりも、現在吾輩が起居するこの苦沙弥とかいう名の主人の家の方が、よほど精神的にじめじめしているのではないかと疑う今日この頃である。


 主人は相変わらず胃弱で、顔色は冴えず、書斎に籠っては「うーん」だの「ああ」だのと呻いている。細君に至っては、吾輩が少しでも台所に足を踏み入れようものなら、まるで不倶戴天の敵を発見したかのように目を吊り上げ、箒を片手に「シッシッ」と追い立てる。彼女にとって吾輩は、この家の平和を乱す一個の毛玉付き害獣に過ぎないらしい。


 そして何より腹立たしいのが、あの腕白な小供たちである。彼らにとって吾輩は、動く玩具以外の何物でもない。寝ているところをいきなりひっくり返されたり、大事な尻尾を捕まえてぶんぶん振り回されたり、ある時は墨汁を体中に塗りたくられ、まだらの三毛猫ならぬ「墨猫」にされかけたことさえある。その都度、吾輩は持てる限りの俊敏さで彼らの魔の手を逃れ、縁側の隅や押入れの奥で、屈辱に震えながら小さくなる外なかった。


 こんな家、もうこりごりだ。


 吾輩は、一介の猫ではあるが、猫なりの思慮と、猫なりのプライドを持っている。日に三度の食事と、雨風をしのげる寝床。それさえあれば満足であろうと人間は思うらしいが、それは大きな心得違いである。精神の充足、これこそが万物の霊長たる所以ではないか。ならば、猫とて同じこと。尊敬もされず、ただ邪魔者扱いされ、挙句の果てには玩具にされるような生活に、何の価値があろうか。


 ある晴れた日の午後であった。吾輩はいつものように縁側で丸くなり、春の柔らかな日差しを全身に浴びていた。微睡みの淵を漂っていると、例の小供たちが、今度は何やら細長い棒切れを手に、そろりそろりと近づいてくるではないか。その目つきは、獲物を見つけた狩人のそれである。吾輩は咄嗟に身構えた。


「ねえ、動かさないでよ」

「今度こそ、あのひげにリボンを結んであげるんだ」


 聞くに堪えない悪だくみである。吾輩のこの立派なひげは、ただの飾りではない。平衡感覚を司り、狭い場所を通り抜けられるか判断するための、重要な器官なのである。それにリボンだと? 断じて許せるものではない。


 小供たちが飛びかかってくる寸前、吾輩は電光石火の速さで身を翻し、庭へ飛び出した。背後で「あ、逃げた!」「待てー!」という甲高い声が追いかけてくる。吾輩は無我夢中で走り、庭の隅にある槙の木の、一番高い枝まで一気に駆け上がった。


 下で小供たちが悔しそうに吾輩を見上げている。ざまあみろ、と心の中で毒づきながら、吾輩はふと、塀の向こうに目をやった。そこには、いつも吾輩が羨望の眼差しで見つめている、壮麗な屋敷がそびえ立っている。金田某の邸宅である。


 赤煉瓦の高い塀、手入れの行き届いた広大な庭、そして陽光を反射してきらきらと輝く大きなガラス窓。あの家ならば、こんな腕白な小供も、ヒステリックな細君もいないに違いない。きっと、優雅で物静かな貴婦人がいて、毎日上等な鰹節やミルクを与えてくれるのだろう。そして、吾輩のような思慮深い猫を、一個の人格、いや「猫格」として尊重してくれるに違いないのだ。


 そうだ、家を出よう。


 この不愉快極まりない苦沙弥邸を捨て、吾輩は新たな生活を始めるのだ。目指すは、あの金田邸。もっと上等で、もっと知的で、もっと吾輩にふさわしい暮らしが、あの塀の向こうには待っているはずだ。


 決意は固まった。もはや一片の未練もない。吾輩は木の上から眼下の我が家(もはやそう呼ぶのもおこがましいが)を見下ろした。書斎からは相変わらず主人の呻き声が聞こえ、台所の方からは細君が小供たちを叱りつける声が響いてくる。ああ、騒々しい。実に、俗悪だ。


 さらばだ、苦沙弥先生。さらばだ、胃弱の主人と、その俗悪な家族たちよ。吾輩は、自らの力で、理想の生活を掴み取ってみせる。


 夕暮れが迫り、一家が夕餉の支度で慌ただしくなる頃合いを見計らって、吾輩はそっと槙の木から降りた。そして、誰にも気づかれぬよう、生垣の隙間を抜け、未知なる世界へと、その第一歩を踏み出したのである。


 第一章 冒険の始まり

 生垣を抜けた先は、吾輩が今まで知っていた世界とは全く異なる様相を呈していた。


 いつもは塀の上から、あるいは主人の膝の上から眺めていた道が、今は目の前に広がっている。土の匂い、草いきれ、そして、様々な人間の足跡が残した複雑な残り香が、吾輩の鼻腔をくすぐる。低い視点から見る世界は、何もかもが巨大に見えた。道の両脇に並ぶ家々の門構えは、まるで巨人の砦のようだ。時折、頭上を通り過ぎていく人力車の車輪の音は、雷鳴のように腹に響く。


 期待と不安が入り混じった、奇妙な高揚感を覚えながら、吾輩は歩き出した。まずは、この辺りの地理を把握せねばなるまい。金田邸は、苦沙弥邸の裏手、小高い丘の上にある。方向は分かっている。問題は、そこへ至る道筋である。


 用心深く、道の端に寄りながら進む。人間は、猫が道の真ん中を悠々と歩いていると、理由もなく怒鳴りつけたり、石を投げつけたりすることがあるのを、吾輩は経験上知っている。彼らの行動原理は、まことに不可解である。


 しばらく行くと、小さな橋が見えてきた。下には澄んだ小川が流れ、せせらぎの音が心地よい。橋のたもとで一休みしようと腰を下ろした、その時であった。


「グルルルル……」


 地を這うような、不気味な唸り声。吾輩は全身の毛を逆立てた。見ると、橋の向こうから、一匹の巨大な犬がこちらを睨みつけているではないか。


 その犬は、まるで小さな仔牛ほどの大きさがあった。毛は汚れ、ところどころ禿げている。片目は潰れているのか、白く濁っており、爛々と光るもう片方の目が、憎悪に満ちた光を放って吾輩を射抜いていた。涎を垂らしながら剥き出しにされた牙は、鋭利な短刀のように見える。あれに噛みつかれたら、吾輩の華奢な体など、ひとたまりもあるまい。


 野良犬。話には聞いていたが、これほど恐ろしい生き物だったとは。


「……何の用だ、新入り」


 犬は、唸り声の合間に、しゃがれた声で言った。


「ここは俺様の縄張りだ。てめえみてえな、飼い馴らされた腑抜けの来るところじゃねえ。さっさと失せな」


 飼い馴らされた腑抜け。その言葉が、吾輩のプライドを鋭く突き刺した。吾輩は家出をしてきたのだ。もはや誰の庇護下にもない、一匹の独立した猫なのだ。恐怖に震える足を叱咤し、吾輩は精一杯の虚勢を張って言い返した。


「吾輩は、貴様などに指図される覚えはない。この道は、万人に開かれた公道であるはずだ」


「公道だと? へっ、小難しいことをぬかしやがる。猫のくせに生意気な。ここではな、俺様が法だ。気に入らねえ奴は、喰っちまうだけだ!」


 言うが早いか、犬は猛然とこちらに突進してきた。万事休す。吾輩は死を覚悟した。その刹那、一台の人力車が猛スピードで橋に差し掛かった。驚いた犬は、慌てて身をかわし、その隙に吾輩は脱兎のごとく駆け出した。背後から「逃がすか、こん畜生!」という怒声が聞こえたが、振り返る余裕などない。


 息も絶え絶えに、路地から路地へと逃げ込んだ。どこをどう走ったのか、もはや分からない。ようやく犬の気配が消えたことを確認し、吾輩は古びた物置の陰でぜえぜえと肩で息をした。心臓が、破れそうなほど激しく鼓動している。


 外の世界は、吾輩が想像していたよりも、はるかに危険な場所であった。ほんの数時間前まで、縁側で呑気に昼寝をしていた自分が、遠い昔のことのように思える。早く、早く金田邸へ行かねば。あそこなら、あんな恐ろしい犬もいない、安全で快適な暮らしが待っているはずだ。


 少し落ち着きを取り戻した吾輩は、再び周囲を伺いながら歩き始めた。日はとっぷりと暮れ、辺りは闇に包まれている。空には、冴え冴えとした月が浮かんでいた。


 第二章 試練

 夜の闇は、昼間とはまた違った脅威を孕んでいた。


 物陰という物陰に、得体の知れない何かが潜んでいるような気がしてならない。時折、暗闇からギラリと光る二つの目が見え、吾輩はびくりと身をすくませる。しかし、それは同じように夜の闇を彷徨う、同族の猫たちであった。


 だが、彼らは決して友好的ではなかった。吾輩が近づこうとすると、背中の毛を逆立て、「フーッ!」と激しく威嚇してくる。ある者は、鋭い爪をちらつかせながら、喉の奥で低く唸った。


「よそ者が、うろちょろするんじゃねえ」

「ここは俺たちのシマだ。餌場を荒らす気なら、ただじゃおかねえぞ」


 彼らの目は、飢えと猜疑心で濁っていた。苦沙弥先生の家で、のうのうと暮らしてきた吾輩とは、明らかに違う。その日その日を生き抜くための、剥き出しの闘争心が、彼らの全身から発散されている。吾輩の体から、飼い猫特有の、石鹸や主人の書物の匂いがするのを嗅ぎつけているのかもしれない。


 吾輩は、彼らのコミュニティに入れてもらおうなどという甘い考えを捨てた。彼らは、吾輩を仲間とは見なしていない。縄張りを侵す、ただの侵入者としか見ていないのだ。吾輩は、彼らの縄張りを刺激しないよう、建物の屋根から屋根へと、慎重に伝い歩きながら進むことにした。


 屋根の上は、地上よりは安全だったが、別の問題が吾輩を苦しめ始めた。


 空腹である。


 そういえば、昼餉の煮干しを小供たちに横取りされてから、何も口にしていない。家を出るという大事業に気を取られ、腹が減っていることさえ忘れていた。しかし、一度意識すると、胃袋が焼け付くように痛み、力が湧いてこない。


 どこかに、何か食べるものはないだろうか。


 鼻をひくつかせ、匂いを頼りに食べ物を探す。すると、どこからか魚の焼ける、香ばしい匂いが漂ってきた。匂いの元をたどると、一軒の家の裏手に出た。開け放たれた窓から、台所の様子が伺える。食卓の上には、見事な焼き魚が一匹、皿に乗せられている。


 吾輩は、ごくりと生唾を飲み込んだ。あの魚を、一口でもいいから食べたい。誘惑に抗えず、吾輩はそっと窓から忍び込もうとした。しかし、その時、家の中から「こら、泥棒猫!」という鋭い声が飛んできた。同時に、何か硬いものが飛んできて、吾輩のすぐ横の壁に当たって砕け散った。茶碗か何かだろう。


 慌ててその場を離れながら、吾輩は情けなさに涙が出そうになった。泥棒猫。吾輩が、泥棒猫だと。苦沙弥邸では、一度もそんな風に罵られたことはなかった。たとえ邪魔者扱いはされても、吾輩はあの家の一員だったのだ。食事は、時間になれば必ず与えられた。それが、当たり前のことではなかったのだと、今更ながらに思い知らされた。


 腹はますます減り、足取りは重くなる。夜風が身に染みて、寒さが骨身にこたえる。もう、一歩も歩けない。そう思った時、吾輩の目に、見覚えのある赤煉瓦の塀が飛び込んできた。


 金田邸だ。


 ついに、たどり着いたのだ。吾輩は最後の力を振り絞り、塀によじ登った。


 第三章 金田邸の幻滅

 塀の上から見下ろした金田邸の庭は、吾輩の想像を遥かに超えて壮麗であった。


 西洋風の庭園は、隅々まで手入れが行き届き、幾何学的な模様を描く植え込みの間を、白い砂利道が走っている。中央には、月の光を浴びて静かに水を湛える噴水まである。苦沙弥邸の、雑草が生い茂るだけの殺風景な庭とは、まさに天国と地獄の差だ。


 吾輩は、音を立てないように慎重に庭へ降り立った。柔らかな芝生の感触が、疲れた肉球に心地よい。ガラス張りのテラスの向こうには、明るい室内が見える。シャンデリアの光が溢れ、重厚な絨毯の上には、見るからに高価そうな家具が並んでいる。


 ああ、これだ。これこそが、吾輩が求めていた生活だ。


 期待に胸を膨らませ、吾輩はテラスへと近づいていった。すると、ガラス戸の向こうの、ビロード張りの豪奢な長椅子の上に、一匹の猫が優雅に寝そべっているのが見えた。


 その猫は、吾輩が今まで見たこともないほど、美しい猫だった。雪のように真っ白で、絹糸のように艶やかな長い毛が、全身を覆っている。顔は潰れたように平たく、大きな青い瞳は、まるでサファイアのようだ。首には、小さな鈴のついた赤いリボンが結ばれている。血統書付きの、ペルシャ猫というやつに違いない。


 吾輩は、思わず見とれてしまった。そして、彼女(その優美な姿から、雌であると直感した)に、自分の境遇を話し、一夜の宿と、少しの食べ物を恵んでもらえないか頼んでみようと思った。これほど美しい猫ならば、きっと心も優しいに違いない。


 吾輩は、ガラス戸を前足でカリカリと引っ掻いてみた。


 中のペルシャ猫は、ゆっくりと顔を上げ、気怠そうにこちらに視線を向けた。そして、そのサファイアの瞳が、吾輩の姿を捉えた瞬間、侮蔑の色に染まったのを、吾輩は見逃さなかった。


 ペルシャ猫は、音もなく長椅子から降りると、すべるようにガラス戸のそばまでやってきた。そして、ガラス一枚を隔てた向こう側から、鼻先に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。


「まあ、なんて汚らしい猫。どこのドブから這い上がってきたのかしら」


 その声は、鈴を転がすように可憐だったが、含まれている毒は、どんな刃物よりも鋭く吾輩の心を抉った。


「失礼。吾輩は、ドブから這い上がってきたわけではない。見ての通り、れっきとした……」


「れっきとした、何ですって? その泥だらけの毛並み、痩せこけた体、それに、その下品な顔つき。どう見ても、素性の知れない雑種じゃないの。ここは、あなたのような下賤な猫が来ていい場所ではありませんわ。お失せなさい」


 下賤な雑種。


 その言葉は、雷鳴となって吾輩の頭上で轟いた。野良犬に「腑抜け」と罵られた時とは、比較にならないほどの屈辱だった。吾輩は、自分が雑種であることを、これまで一度も恥じたことはなかった。むしろ、苦沙弥先生の書斎で、古今東西の書物に囲まれ、知識を吸収してきた吾輩は、そこらの血統書付きの猫よりも、よほど知的で高尚であると自負していた。


 しかし、この豪奢な邸宅と、目の前の美しいペルシャ猫を前にして、吾輩のささやかなプライドは、粉々に打ち砕かれた。泥と埃にまみれた自分の姿が、急にみすぼらしく、惨めに思えた。


「……吾輩は、ただ、少しの食べ物と、雨露をしのげる場所を……」


 か細く、懇願するような声が出た。自分でも驚くほど、情けない声だった。


「施しを乞うなら、裏口のゴミ箱でも漁ることね。でも、見つかったら、ここの庭師に袋叩きにされるから、覚悟しておくことよ。さあ、早く消えないと、わたくしの美しい毛に、あなたの汚い匂いが移ってしまうわ」


 ペルシャ猫は、そう言い放つと、ふいと顔をそむけ、再びビロードの長椅子へと戻ってしまった。もう、吾輩のことなど、存在しないものとして扱っている。


 吾輩は、その場に立ち尽くした。憧れの金田邸は、吾輩にとって、地獄よりも冷たい場所だった。上等な暮らしとは、美しいものとは、かくも無慈悲で、排他的なものだったのか。


 その時、ぽつり、と吾輩の鼻先に冷たいものが落ちてきた。雨だ。雨粒は、あっという間に数を増し、庭の芝生を、木々の葉を、そして、打ちのめされた吾輩の体を、激しく打ち始めた。


 行くあてなど、どこにもなかった。


 第四章 帰郷

 冷たい雨が、容赦なく吾輩の体を叩きつける。体温はどんどん奪われ、空腹と疲労と、そして心の傷が、ずっしりと全身にのしかかる。もう、どうなってもいい。このまま、どこかの暗い片隅で、誰にも知られずに朽ち果てていくのだろうか。


 朦朧とする意識の中、吾輩はただ、雨を避ける場所を求めて、よろよろと歩き始めた。どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。ただ、足が、体が、覚えている方角へと、無意識に進んでいく。


 どれくらい歩いただろうか。雨は少し小降りになっていた。ふと顔を上げると、目の前に、見慣れた、しかし今はひどく懐かしく思える黒い板塀があった。


 我が家だ。苦沙弥先生の家だ。


 どうして、戻ってきてしまったのだろう。あんなに嫌で、決別したはずの場所に。しかし、吾輩の足は、吸い寄せられるように、勝手知ったる生垣の隙間を抜け、庭へと入っていた。


 庭の隅には、吾輩が家出の決意を固めた、あの槙の木が静かに立っている。雨に濡れた縁側。そして、障子の向こうには、温かい色の灯りが漏れている。あの灯りの向こうには、胃弱の主人と、口やかましい細君と、腕白な小供たちがいる。吾輩が、あれほど俗悪だと唾棄した日常が、そこにはある。


 しかし、今の吾輩にとって、その障子越しの灯りは、何よりも温かく、心安らぐものに思えた。


 吾輩は、縁側の濡縁の下に潜り込み、小さく丸くなった。冷え切った体が、少しずつ震え始める。もう、動く気力もなかった。ここで、夜が明けるのを待つしかない。もし、このまま死んでしまったら、誰かが見つけてくれるだろうか。細君は、汚いと眉をひそめながら、吾輩をどこかへ捨ててしまうだろうか。小供たちは、少しは悲しんでくれるだろうか。そして、主人は……。


 主人の顔を思い浮かべた。いつも不機嫌そうで、自分の胃のことばかり考えている、つまらない男。しかし、時折、書見の合間に、吾輩の頭を無言で撫でてくれることがあった。その手つきは不器用だったが、不思議と嫌ではなかった。


 ああ、主人の膝の上で、丸くなって眠りたい。


 そんなことを考えていると、不意に、ガラリ、と戸の開く音がした。


 びくりとして顔を上げると、そこには、寝間着姿の主人が立っていた。手には、ランプを提げている。主人は、ランプの光で庭を照らし、何かを探しているようだった。


「……どこへ行ったんだ、あの猫は」


 主人の、独り言ともつかぬ呟きが聞こえた。


「飯時になっても戻らんとは。どこかで、車にでも轢かれているんじゃあるまいな……」


 その声には、普段の気難しさとは違う、確かな憂いの色が滲んでいた。主人は、吾輩を探してくれていたのだ。


 吾輩は、濡縁の下から、そっと這い出した。そして、力の入らない声で、「にゃあ」と、か細く鳴いた。


 主人は、はっとしたようにこちらを向いた。ランプの光が、真正面から吾輩を捉える。ずぶ濡れで、泥だらけで、痩せこけた吾輩の姿が、はっきりと照らし出された。


 主人は、しばらく無言で吾輩を見ていたが、やがて、大きなため息をついた。そして、いつものぶっきらぼうな口調で、しかし、その声の奥に、どうしようもない安堵の色を隠しながら、こう言った。


「どこを、うろついていた。馬鹿猫め」


 終章 再発見

「馬鹿猫め」


 その言葉は、不思議と吾輩の心に温かく響いた。金田邸のペルシャ猫に投げつけられた、冷たい侮蔑の言葉とは全く違う。それは、不器用な主人の、最大限の心配と、そして再会を喜ぶ気持ちの表れに違いなかった。


 主人は、しゃがみ込むと、吾輩をひょいと抱き上げた。寝間着が汚れるのも構わずに。主人の腕の中は、温かかった。久しぶりに感じる、人間の体温だった。


 家の中に運び込まれると、台所から細君が飛んできた。吾輩の無残な姿を見るなり、「まあ、なんてこと!」と甲高い声を上げたが、その声にはいつものような棘がなく、むしろ狼狽の色が濃かった。


「あなた、この子、どこにいたんです? 怪我は? とにかく、体を拭いてやらないと」


 細君は、乾いた手ぬぐいを何枚も持ってくると、てきぱきと吾輩の体を拭き始めた。その手つきは、いつも吾輩を追い払う時とは比べ物にならないほど、優しかった。小供たちも、いつの間にか集まってきて、心配そうに吾輩を覗き込んでいる。


「猫さん、お腹すいてる?」

「ごめんなさい、追いかけたりして」


 意外な言葉に、吾輩は少し面食らった。


 やがて、体中の水分が拭き取られると、主人は吾輩を自分の書斎へ連れて行った。そして、戸棚から、とっておきらしい鰹節の包みを取り出し、小皿に山盛りにして出してくれた。


 吾輩は、無我夢中で鰹節に食らいついた。家出をしてから、初めて口にする、まともな食事だった。外の世界で味わった、あの身を切るような空腹と比べれば、この鰹節は、まさに天上のご馳走であった。


 腹が満たされると、急激な眠気が襲ってきた。主人は、そんな吾輩を、そっと自分の膝の上に乗せた。そして、大きな手のひらで、吾輩の背中をゆっくりと撫で始めた。


 ゴロゴロロ……。


 吾輩の喉から、自然と音が漏れ出た。それは、満足と、安心と、そして、この上ない幸福感の表れだった。


 外の世界は、厳しく、冷たかった。美しいものは、傲慢で、吾輩のような雑種を受け入れてはくれなかった。生きるためには、奪い合い、騙し合い、常に警戒していなければならなかった。


 それに比べて、この家はどうだ。主人は胃弱で偏屈だし、細君は口やかましい。小供たちは、時に残酷だ。決して、理想郷などではない。


 しかし、ここには、温かい寝床がある。腹を満たす食事がある。そして何より、不器用ながらも、吾輩の存在を認め、心配してくれる者たちがいる。


 当たり前だと思っていた日常。不満ばかりを募らせていたこの場所こそが、吾輩にとってかけがえのない「我が家」だったのだ。塀の向こうに見えた金田邸の壮麗さは、所詮、吾輩には縁のない幻影に過ぎなかった。吾輩の幸福は、この雑然として、騒々しく、しかし温かい人間の膝の上にあったのだ。


 吾輩は、主人の膝の上で、深く、満ち足りた眠りへと落ちていった。もう、家出をしようなどとは、微塵も思わなかった。


 吾輩は猫である。名前はまだ無い。しかし、名前など、もはやどうでもよい。吾輩には、帰るべき場所があるのだから。ただ、その事実だけで、十分に満たされていた。吾輩は、静かに、そして誇らしげに、ただゴロゴロと喉を鳴らし続けるのであった。 (了)


本短編を読んだところで、諸君の生活が豊かになるわけでもあるまい。吾輩のささやかな家出の顛末を覗き見て、人間の愚行を再確認するが良い。


結局のところ、どこへ行こうと人間は相変わらず滑稽で、吾輩はやはり吾輩なのである。

さて、そろそろ昼寝の時間だ。あとのことは知らぬ。

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