淡影の夜
ふうとうの中から滑り出た写真は、薄い光の下で静かに揺れていた。どこにでもいる青年の笑顔。少し不器用そうに口角を上げたその横顔を、依頼に訪れた彼女は震える指で何度も撫でるように示してみせた。
「彼、急に連絡が途絶えてしまって……。昨日から音沙汰がなくて、警察にも行ったんです。でも、『二十四時間以上経たないと受理できない』って言われてしまって……」
声は掠れ、涙の膜が張りついている。それでも必死に伝えようとするその姿は、言葉よりも真剣さを雄弁に語っていた。彼女は手元の紙にびっしりと書き連ねていた。彼の趣味、職場、住んでいるアパートの住所、通っているカフェの名前。さらに、何気なく交わした会話の断片まで。そこには切実な想いが詰まっていた。
帆高は黙って聞いていた。聞きながら胸の奥でざわめくものがあった。
――こんなふうに、自分を案じてくれる人がいるなんて、なんて幸せなんだろう。
帆高にとって、それは縁遠い感情だった。自分の居場所を求めながらも、家族のぬくもりを確かに感じたことは少なかった。愛されるということが、ここまで人を強く突き動かすものなのか。彼女の一言一言が帆高の心に重く沈んでいった。
「……で、昨日の行動を細かく教えてくれ。最後に会ったのはいつだ?」
おっさんが椅子の背もたれに深く寄りかかりながら、軽く問いかけた。質問の口調は柔らかいが、目は依頼人の仕草の隅々までを拾い上げている。彼女は途切れ途切れの声で答えた。おっさんはうなずきながら必要な点を数度確認し、やがて机の上に指をとんとんと叩いた。
「よし、明日から動こう。あんたも休め」
その言葉に、彼女の肩は少しだけ落ち着きを取り戻した。
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夜が明けて、翌朝。
淡い陽光に包まれた街を、おっさんと帆高は歩いていた。行方不明の青年の痕跡を求め、彼の職場や実家、親しい友人たちを順に訪ねた。しかし、どこでも「特に変わった様子はなかった」と返されるばかり。
「……見えてこないな」
昼下がり、二人はやや重い足取りで、青年が暮らしていたアパート近くのコンビニに入った。冷房の効いた空気に包まれながら、おっさんが店員に軽く話を振ると、思わぬ返事が返ってきた。
「そういえば……昨日じゃないな、その前の日の深夜二時くらいに見たよ。外でタバコ吸ってた。確かに」
その言葉に、二人は顔を見合わせた。確かな証言。やっと手に入った、細い糸のような手掛かりだった。
「その時の映像とか……」
おっさんがさらりと切り出した。だが、店員は苦笑して首を振る。
「すみません、警察じゃないとお見せできないんです」
やはり壁は厚い。けれど、確かに青年はその時間にここにいた。帆高の胸の中に、ようやく小さな光が差し込んだ。
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事務所に戻ると、二人はカップラーメンを手にしてテーブルに腰を落とした。湯気が立ちのぼる香りに、空腹が急に目を覚ます。テレビをつけると、ニュースキャスターの張り詰めた声が響いた。
「昨夜、都心の宝石店から深紅のルビーが盗まれました。例の怪盗による犯行と見られています。しかし、これまで盗まれた品は必ず数日のうちに返却されてきました。今回、まだ返却が確認されていないことから、市民に驚きと不安が広がっています」
映し出される映像は、煌めく赤の宝石。夜の街に消えた怪盗の残り香のようだった。
おっさんは何気なくリモコンを取ると、反対のチャンネルへと切り替えた。
「……」
帆高は何か言いかけたが、湯気に混じって言葉は霧散した。
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ラーメンを食べ終えると、おっさんは古びたノートパソコンを持ち出した。カタカタと小気味よい音を響かせながらしばらくキーを叩き続け、やがて画面を帆高に向ける。
「見ろ」
そこに映っていたのは、薄暗い店先の様子。
――コンビニの防犯カメラの映像にしか見えなかった。
「……これって」
帆高の声は自然と低くなる。画面の端を通り過ぎる青年。確かに、ふうとうに入っていた写真の彼だった。
「どうやって……これ、犯罪じゃないの?」
帆高が眉をひそめると、おっさんはにやりと口の端を持ち上げた。
「合法だろ?」
問いに答えているようで、何も答えてはいない。だが、否定もしない。おっさんの声は煙のように濁って消えた。
画面の中の青年は、誰かを待つように振り返った。そこには誰もいない。ただ薄暗い街灯の下、時間だけが静かに流れていた。
二人は言葉を失い、ただ映像を凝視した。
帆高の胸の奥で、不思議なざわめきが再び膨らみ始めていた。