深紅の依頼の始まり
しばらく小さな依頼を、三日に一度のペースでこなしているうちに、二週間が過ぎていた。浮気調査、迷子のペット探し、簡単な張り込み。どれも数時間で終わる仕事ばかりだが、毎回少しずつ異なる顔ぶれや出来事に触れることで、日々の景色はほんの少しずつ変わっていく。
その日の仕事を終え、帆高はおっさんに連れられて、屋台ラーメンへ向かった。夜風が肌を冷たく撫でる中、赤い提灯が軒先で揺れ、湯気と香ばしい匂いが路地に広がっている。帆高にとって、屋台ラーメンは初めての体験だった。
「ほら、ここだ。俺の行きつけ」おっさんが立ち止まり、赤い提灯を指さす。帆高は少し緊張しながらも、どこかワクワクした気持ちで後ろをついて行った。
屋台の奥では店主が中華鍋を振るい、湯切りのリズムに合わせて麺が踊る音が小気味よく響く。中年の男性で、丸い眼鏡と白い前掛けがよく似合っている。湯気と香ばしい匂いが夜の路地に広がり、帆高の鼻をくすぐった。
「おう、いらっしゃい。いつもの?」店主がおっさんに声をかける。
「頼む」おっさんは軽く頷く。帆高は少し戸惑いながらも、同じメニューをお願いした。
湯気の向こうに運ばれてきたラーメンは、スープの表面が黄金色に光り、中太の麺が熱々の湯気をまとっている。厚みのあるチャーシューは箸でつまむとほろりと崩れ、濃厚なスープと絡んだ麺は口に運ぶともちもちとした弾力を感じさせた。帆高は思わず息を飲む。「……うまい」
おっさんも一口すすり、店主に軽く頷いた。「やっぱり、ここは外れねぇな」
「ありがとうございます。お二人ともおかわりはどうですか?」店主は忙しそうにしながらも、微笑んで声をかける。
「いや、このままで十分だ」おっさんが答え、帆高も頷いた。
通りを行き交う人々、揺れる提灯、夜の街のざわめき。日常と非日常の境目にあるような、ほんの少し幻想的な時間が静かに流れた。屋台の明かりと香り、店主の手際の良さが、二人だけの小さな幸福感を増幅させる。
ラーメンを食べ終え、体の芯まで温まった二人は事務所へ戻った。机の上には今日の調査で使ったメモやノートパソコンが散らかっている。午後の光が窓から差し込み、書類の隙間を淡く照らしていた。
翌朝、いつものように二人はモンブランで朝食をとる。店内には穏やかな光が差し込み、コーヒーの香りが漂っている。だが、帆高はおっさんの顔を見ると、目の下にくっきりとした隈ができていることに気づいた。昨夜は夜遅くまでいろいろと動き回っていたのだろう。理由は分からないが、少し疲れているようだ、と帆高は感じるだけだった。
店内のテレビでは、昨夜あった事件が報道されていた。近隣の資産家の家から宝石が盗まれたらしい。映像には警察のパトカーが忙しなく動き、取材陣が家の前で騒ぐ様子が映し出されている。「またしても…」「しかし盗まれた宝石が翌日には戻るらしい」という断片的な情報に、帆高の胸は小さくざわついた。
盗まれたものが戻るという不思議な噂。誰も真相は分からないけれど、なぜかニュースを見ているだけで心が引き寄せられるような感覚があった。普段の事件や依頼とは違う、少し背筋が伸びるような、不思議な高揚感だ。
「……面白そうな話だな」思わず口に出す。おっさんはコーヒーを一口飲み、軽く肩をすくめる。「噂ばかりで真偽はわからんがな」
雑談を終え、二人は事務所へ戻ると、机の向こうにはすでに人影があった。低めのセダンから降り立ったらしい、整った髪を軽くまとめた女性が、落ち着いた色のワンピースに身を包み、柔らかな笑みを浮かべて立っている。日常の延長線上にはない、少し特別な空気をまとっていた。
おっさんは椅子に腰を下ろし、帆高に軽くうなずきながら、依頼人に向かって声をかける。「どうぞ、こちらにかけてください」
依頼人は丁寧に座り、肩の力を少し抜いた。窓から差し込む光が髪を柔らかく照らし、揺れるたびに淡い色を帯びる。
「実は……お願いしたいことがありまして」静かな声には、微かな切実さが混ざっている。帆高は胸の奥に小さな緊張を覚え、おっさんもいつもの柔らかい笑みの奥に、わずかな鋭さを宿していた。
手元には淡い色の封筒と小さな書類が置かれている。窓の外では街灯が揺れ、室内には微かにコーヒーと焼き菓子の香りが漂う。昨夜の宝石事件の影響は、街の空気や人々の反応にちらりと残っている。帆高はその空気に小さな興奮を覚えながらも、まだ理解できないまま、これから始まるやり取りを見つめていた。