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夜にラドロン  作者: OU
第1夜
4/5

猫探し

モルブランの窓際で、カップに残ったコーヒーを飲み干すと、ほんのりとした苦味が舌に残った。外では通勤の人波が流れ、朝の街が慌ただしく目の前を過ぎていく。けれど、その空気とは対照的に、二人の時間はどこかゆるやかだった。

 「今日の仕事は簡単だ」

 カップを置きながら、おっさんはそう言った。低く少し掠れた声。

 「迷子の猫探しだ。依頼人は近所の資産家。金払いはいい」

 その響きに、帆高は思わず笑ってしまった。探偵の仕事といえばもっと硬派なものを想像していたのに、猫探しか――。


 食事を終え、二人は事務所へ戻る。古びたビルの階段を上がり、散らかった机の横をすり抜け、必要な道具をいくつか鞄に放り込むと、おっさんはおもむろにガレージのシャッターを開けた。

 そこにあったのは時代遅れの外車。艶を失った黒塗りのボディはくたびれて見えるのに、不思議と街の景色に馴染んでいた。おっさんがドアを乱暴に開けると、油の匂いとタバコの残り香が車内に漂った。

 エンジンが唸りを上げ、二人を乗せて街を抜けていく。


 依頼現場は広い屋敷の近くの住宅街だった。石垣に囲まれた庭の塀をよじ登ったのか、猫はそこから外へ抜け出したらしい。おっさんは腕時計を一瞥し、帆高に視線を向けた。

 「時間を無駄にするな。手分けして探そう。おまえは東の路地を」

 「はい」

 そう返事をして、帆高は歩き出した。朝からの陽射しが石畳を明るく照らし、まだ涼しさを残す風が頬を撫でた。


 住宅の隙間をのぞき込みながら、帆高は名前を呼んでみた。返事などあるはずもなく、ただ風に揺れた洗濯物がはためくだけ。そんな時だった。視界の端で、ふっと淡い光が揺れた。

 「……え?」

 目を凝らすと、それは蛍ほどの小さな光で、ほのかに脈打ちながら漂うように路地の奥へと進んでいく。まるで導かれるように、帆高は足を向けた。


 狭い路地裏へ一歩踏み込んだ瞬間、ビューッと強い風が吹き抜けた。埃が舞い上がり、髪が乱される。思わず目を閉じた耳に、どこからともなく奇妙な音楽が流れ込んできた。古いオルゴールのような、それでいて聞いたことのない旋律。

 恐る恐る瞼を開けると、視界は眩しい光に包まれていた。輪郭のない白が押し寄せ、空気が震える。心臓が跳ね、呼吸が止まりそうになる。


 次の瞬間、風は嘘のように止み、光も音も消えていた。そこはただの路地。古びた壁、雑草、沈黙。夢でも見たのだろうかと疑うほどの一瞬の出来事だった。

 「……はぁ」

 大きく息を吐き出した時、視線の先にふいに小さな影が動いた。茂みの隙間から、灰色の毛並みの猫が顔を覗かせている。

 「いた!」

 帆高は声を張り、おっさんを呼んだ。猫は逃げようともせず、その場にじっと座っている。


 二人で抱き上げると、猫は意外にも大人しく、すぐにおさまった。依頼人の屋敷へ戻ると、豪奢な玄関先で待っていた老婦人が涙ぐみながら迎えた。報酬は分厚い封筒に入れられ、礼の言葉とともに手渡された。


 仕事を終えて車に戻る。夕暮れが街を朱色に染め、ガラス越しに影が長く伸びる。おっさんは運転席に腰を沈め、タバコを咥えた。

 顎を少し上げる仕草とともに、火の気のないはずのタバコの先が赤く灯った。スッと煙が昇る。

 「えっ……今、どうやって?」

 驚きに声が裏返る。おっさんはわずかに口元を緩め、短く答えた。

 「科学だ」

 「いや、でも――」帆高は食い下がる。「火種なんてなかったじゃないですか」

 おっさんは前を見据えたまま、ハンドルを軽く回した。

 「……そのうち教えてやる」

 それ以上、言葉を重ねる気配はなかった。


 夕日の残光が車内を淡く照らす。街のざわめきも遠のき、ただ煙がゆるやかに揺れていた。腑に落ちないまま、帆高は窓の外に広がる暮れゆく街並みを眺めていた。

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