猫探し
モルブランの窓際で、カップに残ったコーヒーを飲み干すと、ほんのりとした苦味が舌に残った。外では通勤の人波が流れ、朝の街が慌ただしく目の前を過ぎていく。けれど、その空気とは対照的に、二人の時間はどこかゆるやかだった。
「今日の仕事は簡単だ」
カップを置きながら、おっさんはそう言った。低く少し掠れた声。
「迷子の猫探しだ。依頼人は近所の資産家。金払いはいい」
その響きに、帆高は思わず笑ってしまった。探偵の仕事といえばもっと硬派なものを想像していたのに、猫探しか――。
食事を終え、二人は事務所へ戻る。古びたビルの階段を上がり、散らかった机の横をすり抜け、必要な道具をいくつか鞄に放り込むと、おっさんはおもむろにガレージのシャッターを開けた。
そこにあったのは時代遅れの外車。艶を失った黒塗りのボディはくたびれて見えるのに、不思議と街の景色に馴染んでいた。おっさんがドアを乱暴に開けると、油の匂いとタバコの残り香が車内に漂った。
エンジンが唸りを上げ、二人を乗せて街を抜けていく。
依頼現場は広い屋敷の近くの住宅街だった。石垣に囲まれた庭の塀をよじ登ったのか、猫はそこから外へ抜け出したらしい。おっさんは腕時計を一瞥し、帆高に視線を向けた。
「時間を無駄にするな。手分けして探そう。おまえは東の路地を」
「はい」
そう返事をして、帆高は歩き出した。朝からの陽射しが石畳を明るく照らし、まだ涼しさを残す風が頬を撫でた。
住宅の隙間をのぞき込みながら、帆高は名前を呼んでみた。返事などあるはずもなく、ただ風に揺れた洗濯物がはためくだけ。そんな時だった。視界の端で、ふっと淡い光が揺れた。
「……え?」
目を凝らすと、それは蛍ほどの小さな光で、ほのかに脈打ちながら漂うように路地の奥へと進んでいく。まるで導かれるように、帆高は足を向けた。
狭い路地裏へ一歩踏み込んだ瞬間、ビューッと強い風が吹き抜けた。埃が舞い上がり、髪が乱される。思わず目を閉じた耳に、どこからともなく奇妙な音楽が流れ込んできた。古いオルゴールのような、それでいて聞いたことのない旋律。
恐る恐る瞼を開けると、視界は眩しい光に包まれていた。輪郭のない白が押し寄せ、空気が震える。心臓が跳ね、呼吸が止まりそうになる。
次の瞬間、風は嘘のように止み、光も音も消えていた。そこはただの路地。古びた壁、雑草、沈黙。夢でも見たのだろうかと疑うほどの一瞬の出来事だった。
「……はぁ」
大きく息を吐き出した時、視線の先にふいに小さな影が動いた。茂みの隙間から、灰色の毛並みの猫が顔を覗かせている。
「いた!」
帆高は声を張り、おっさんを呼んだ。猫は逃げようともせず、その場にじっと座っている。
二人で抱き上げると、猫は意外にも大人しく、すぐにおさまった。依頼人の屋敷へ戻ると、豪奢な玄関先で待っていた老婦人が涙ぐみながら迎えた。報酬は分厚い封筒に入れられ、礼の言葉とともに手渡された。
仕事を終えて車に戻る。夕暮れが街を朱色に染め、ガラス越しに影が長く伸びる。おっさんは運転席に腰を沈め、タバコを咥えた。
顎を少し上げる仕草とともに、火の気のないはずのタバコの先が赤く灯った。スッと煙が昇る。
「えっ……今、どうやって?」
驚きに声が裏返る。おっさんはわずかに口元を緩め、短く答えた。
「科学だ」
「いや、でも――」帆高は食い下がる。「火種なんてなかったじゃないですか」
おっさんは前を見据えたまま、ハンドルを軽く回した。
「……そのうち教えてやる」
それ以上、言葉を重ねる気配はなかった。
夕日の残光が車内を淡く照らす。街のざわめきも遠のき、ただ煙がゆるやかに揺れていた。腑に落ちないまま、帆高は窓の外に広がる暮れゆく街並みを眺めていた。