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夜にラドロン  作者: OU
第1夜
3/5

朝食

 煙のにおいが鼻を刺して、穂高はゆっくりと目を開いた。

 カーテンの隙間から射し込む光はまだ淡く、外は完全に目を覚ましてはいないようだった。横になっていたのはソファーで、肩口には毛布がかけられている。誰かが気を利かせたのだろうと気づいた瞬間、胸の奥に小さな温もりが灯った。


 視線を動かすと、窓際の古びた仕事机に脚を投げ出し、椅子に寄りかかって新聞を広げている男の姿があった。片手には煙草。灰を落とす仕草は慣れすぎていて、空気そのものに染み込んでいるようだった。


「……起きたか」


 新聞から目を上げず、男は短く言った。声は低く、まだ煙を喉に引きずっているようなざらつきがあった。


 穂高は寝返りを打って体を起こす。背中に残るソファーの沈みと、煙の匂いが奇妙に混ざり合い、現実感が遅れて追いついてくる。


「顔、洗っとけ。……それから、朝飯だ」


 男は新聞を折りたたむと、立ち上がった。ジャケットを羽織る仕草は妙にきっちりしていて、昨夜見た疲れ切った顔が一瞬別人のように引き締まって見えた。


 そのまま穂高を促し、二人は外に出た。

 朝の空気は冷えていて、肺に流れ込むたび煙の匂いを洗い落としてくれるようだった。


 ◆


 しばらく歩いてたどり着いたのは、小さな喫茶店だった。古びたレンガの壁に「モルブラン」と書かれた看板。入口のドアには鈴がついていて、押し開けると軽やかな音が響いた。


 中は木目のカウンターと丸テーブルがいくつか。常連らしい客が数人新聞をめくっている。焙煎したてのコーヒーの香りが漂い、煙にまみれた体が少しずつほどけていく。


「おっさん、また来たの?」


 カウンターの奥から声が飛んできた。

 現れたのは赤毛をひとつにまとめた女だった。光の加減で栗色にも真紅にも見える髪は、日本人離れしていて目を引いた。切れ長の瞳は強気だが、笑みを浮かべれば人懐っこさがにじむ。


「朝っぱらから新聞なんか広げて煙草ふかしてると、ますます老けるわよ」


「余計なお世話だ」


 男は軽く肩をすくめ、いつものことと言わんばかりにカウンターに腰を下ろした。

 穂高も隣に座ると、女が興味深そうに視線を向けてくる。


「その子は? 見ない顔ね」


「……拾った」


 おっさんの素っ気ない答えに、女はため息をつく。


「ほんと昔から変わらないわね。で、名前は?」


 穂高が名乗ろうと口を開きかけたとき、女が先に続けた。


「こっちの古臭いのは、朝比奈って言うの。知らなかったでしょ?」


 穂高は驚いて隣を見た。男――朝比奈は、煙草をくわえたまま黙ってコーヒーを待っている。


「……教えてくれてなかった」


「そうでしょ。こいつ、自分の名前を名乗るのすっごく嫌がるんだから」


 女は呆れながらも、どこか楽しげだった。


「私は木村杏。ここ『モルブラン』のマスターの娘。気軽に“杏”って呼んで」


 差し出された手を握ると、指先はしなやかで力強かった。


 やがてテーブルにトーストと目玉焼きが運ばれる。温かい湯気が上がり、穂高の胃袋が久しぶりに目を覚ます。三人は軽く世間話を交わした。杏は新聞記事のことや、近所の噂話を軽快に話し、朝比奈は必要なところだけ低い声で相槌を打つ。


「で、穂高くんは、どういうわけで朝比奈と一緒にいるの?」


 杏の問いに、穂高は答えに詰まる。まだ説明しきれる状況ではなかった。代わりに朝比奈が口を開く。


「事情があってな。……まあ、俺の仕事柄、いろんな人間を拾うこともある」


「仕事柄?」


 杏が眉を上げると、朝比奈は苦々しい笑みを浮かべた。


「探偵だ」


 短い一言。だがそれだけで空気がわずかに引き締まる。杏は「ほら出た」と言わんばかりに肩をすくめた。


「この人、昔から厄介事に首突っ込むのが得意なのよ。……だから彼女のひとりもできないのよ」


 杏はからかうように笑い、朝比奈は煙草をくわえたまま視線をそらす。

 冗談めいた言葉の裏に、互いにだけわかる長い時間が滲んでいた。


 穂高は皿の上のトーストを噛みしめながら、隣に座る探偵――朝比奈という男をちらりと見た。

 彼の横顔は、煙にかすむ視線の奥に、まだ言葉にされていない何かを秘めているように見えた。

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