朝食
煙のにおいが鼻を刺して、穂高はゆっくりと目を開いた。
カーテンの隙間から射し込む光はまだ淡く、外は完全に目を覚ましてはいないようだった。横になっていたのはソファーで、肩口には毛布がかけられている。誰かが気を利かせたのだろうと気づいた瞬間、胸の奥に小さな温もりが灯った。
視線を動かすと、窓際の古びた仕事机に脚を投げ出し、椅子に寄りかかって新聞を広げている男の姿があった。片手には煙草。灰を落とす仕草は慣れすぎていて、空気そのものに染み込んでいるようだった。
「……起きたか」
新聞から目を上げず、男は短く言った。声は低く、まだ煙を喉に引きずっているようなざらつきがあった。
穂高は寝返りを打って体を起こす。背中に残るソファーの沈みと、煙の匂いが奇妙に混ざり合い、現実感が遅れて追いついてくる。
「顔、洗っとけ。……それから、朝飯だ」
男は新聞を折りたたむと、立ち上がった。ジャケットを羽織る仕草は妙にきっちりしていて、昨夜見た疲れ切った顔が一瞬別人のように引き締まって見えた。
そのまま穂高を促し、二人は外に出た。
朝の空気は冷えていて、肺に流れ込むたび煙の匂いを洗い落としてくれるようだった。
◆
しばらく歩いてたどり着いたのは、小さな喫茶店だった。古びたレンガの壁に「モルブラン」と書かれた看板。入口のドアには鈴がついていて、押し開けると軽やかな音が響いた。
中は木目のカウンターと丸テーブルがいくつか。常連らしい客が数人新聞をめくっている。焙煎したてのコーヒーの香りが漂い、煙にまみれた体が少しずつほどけていく。
「おっさん、また来たの?」
カウンターの奥から声が飛んできた。
現れたのは赤毛をひとつにまとめた女だった。光の加減で栗色にも真紅にも見える髪は、日本人離れしていて目を引いた。切れ長の瞳は強気だが、笑みを浮かべれば人懐っこさがにじむ。
「朝っぱらから新聞なんか広げて煙草ふかしてると、ますます老けるわよ」
「余計なお世話だ」
男は軽く肩をすくめ、いつものことと言わんばかりにカウンターに腰を下ろした。
穂高も隣に座ると、女が興味深そうに視線を向けてくる。
「その子は? 見ない顔ね」
「……拾った」
おっさんの素っ気ない答えに、女はため息をつく。
「ほんと昔から変わらないわね。で、名前は?」
穂高が名乗ろうと口を開きかけたとき、女が先に続けた。
「こっちの古臭いのは、朝比奈って言うの。知らなかったでしょ?」
穂高は驚いて隣を見た。男――朝比奈は、煙草をくわえたまま黙ってコーヒーを待っている。
「……教えてくれてなかった」
「そうでしょ。こいつ、自分の名前を名乗るのすっごく嫌がるんだから」
女は呆れながらも、どこか楽しげだった。
「私は木村杏。ここ『モルブラン』のマスターの娘。気軽に“杏”って呼んで」
差し出された手を握ると、指先はしなやかで力強かった。
やがてテーブルにトーストと目玉焼きが運ばれる。温かい湯気が上がり、穂高の胃袋が久しぶりに目を覚ます。三人は軽く世間話を交わした。杏は新聞記事のことや、近所の噂話を軽快に話し、朝比奈は必要なところだけ低い声で相槌を打つ。
「で、穂高くんは、どういうわけで朝比奈と一緒にいるの?」
杏の問いに、穂高は答えに詰まる。まだ説明しきれる状況ではなかった。代わりに朝比奈が口を開く。
「事情があってな。……まあ、俺の仕事柄、いろんな人間を拾うこともある」
「仕事柄?」
杏が眉を上げると、朝比奈は苦々しい笑みを浮かべた。
「探偵だ」
短い一言。だがそれだけで空気がわずかに引き締まる。杏は「ほら出た」と言わんばかりに肩をすくめた。
「この人、昔から厄介事に首突っ込むのが得意なのよ。……だから彼女のひとりもできないのよ」
杏はからかうように笑い、朝比奈は煙草をくわえたまま視線をそらす。
冗談めいた言葉の裏に、互いにだけわかる長い時間が滲んでいた。
穂高は皿の上のトーストを噛みしめながら、隣に座る探偵――朝比奈という男をちらりと見た。
彼の横顔は、煙にかすむ視線の奥に、まだ言葉にされていない何かを秘めているように見えた。