青年の痕跡
階段を降りるにつれ、空気はさらに湿り、鉄と油が混じったような重たい匂いが帆高の鼻腔にまとわりついた。地下から湧き上がるざわめきは、低く、どこか獣の唸り声に似ている。
一段一段踏み下ろすたび、帆高の心臓は妙に高鳴った。背後にあるはずの地上の気配が遠のき、別世界へ落ちていくようだった。
やがて階段の先に光が差した。裸電球が不規則に吊り下げられ、赤や緑のネオンが壁を染めている。地下広場の中央には無数のテーブルが並び、人々が押し寄せていた。
宝石を並べる者。剥製や古書を抱える者。得体の知れない薬瓶を差し出す者。どの顔も、表の世界からはじき出された陰りを纏っている。
帆高は無意識におっさんの背に身を寄せた。どこからか噴き出す蒸気が白い霧を生み、視界を曖昧にしていく。霧の向こうで、一瞬だけ異様な光が揺れた。
淡い青。だが、明滅するたびに紫や緑へと姿を変え、まるで意思を持って漂っているかのようだった。周囲の誰も気づかない。帆高だけが、その幻のような光に目を奪われた。
「……おっさん、今の――」
「気にするな」
おっさんは短く遮った。だが声の奥には、わずかな緊張が滲んでいた。
光が漂っていた方角へ進むと、そこに宝石商の店があった。古びたショーケースには、色とりどりの石が乱雑に並べられている。
店主は痩せぎすの男で、琥珀色の眼鏡越しに二人を値踏みするように見た。おっさんが名を告げると、男は肩をすくめ、低い声で答えた。
「確かに来たよ。若い男だ。手にしてたのは……そう、深紅の宝石。連日ニュースに上がっている、例の怪盗の盗品だろうよ。どこで手に入れたかは知らんがな」
帆高は息を呑んだ。
「そいつは、ここで売ったんですか」
「いや。売ろうとした矢先だった。黒服の男が現れてな。もっと高く買うと言って、彼を連れていった」
男は薄く笑った。
「欲に目がくらんだんだろう。青年はあの男について行った。……その先は知らん」
情報を聞き出した二人は、足早にその場を後にした。帆高の胸はざわついていた。青年が確かにここに来ていた。その手に、深紅の宝石を持って。
――
車に戻ると、おっさんは迷いなくパソコンを取り出した。助手席の足元には、違法改造の黒い装置が配線とともに収められている。キーを叩く音が闇を切り裂くように響いた。
「図書館の半径二百メートル。監視カメラを全部拾う」
画面には次々とリストが並び、映像が小窓に展開されていく。表向きはただの公共カメラ。しかしおっさんは闇市の回線にまで食い込んでいた。
数分後、帆高が声をあげた。
「……これ!」
拡大された映像には、黒いコートの男と、キャップ帽を目深に被った青年が映っていた。二人は肩を並べ、夜の街を歩いている。
別のカメラへ切り替える。さらに別の通りへ。映像は途切れ途切れに二人を追う。
やがて、白いハイエースが画面の端から滑り込んだ。扉が開き、黒服の男が青年を押し込む。青年は必死に抵抗するが、次の瞬間、体が崩れ落ちた。気絶させられたのだ。
帆高は思わず拳を握り息を飲んだ。
映像の中で事件は止まらない。ハイエースは扉を閉ざし、暗い通りを走り去った。
おっさんは冷静にキーボードを叩き続けた。
「追うぞ」
カメラの切り替えに合わせ、車の位置を追跡する。見知らぬ通り、橋、工場地帯。映像はやがて、一つの場所で途切れた。
黒い建物が広がっていた。錆びついた看板、割れた窓。使われなくなって久しい廃工場。
そこで、ハイエースは止まっていた。
「……青年は、ここに」
帆高の声は震えていた。
おっさんはパソコンを閉じ、深く息を吐いた。
「廃工場か。……面倒なことになったな」
車内に沈黙が落ちた。外の街灯がフロントガラスをかすかに照らす。
帆高はその光の中に、先ほど闇市で見た淡い青の輝きを幻のように思い出していた。
それはただの目の錯覚だったのか。それとも、この先を予告するものなのか――。
冷え込む夜はさらに深まり、二人を廃工場へと導いていった。




