07.切り取られた教室
「こ、こんにちは」
つばさはとっさに挨拶をしていた。
何が「こんにちは」だ、さっき解散したばかりだ。
鴫野は、まばたきをしたあと、「こんにちは」と挨拶を返した。
特に慌てる様子もなく、つばさの机のそばに立ったまま。
「あ、あの、それ、俺のカバンだけど」
口にしてから後悔する。
これじゃまるで、鴫野が自分のカバンに何かをしようとしていたと決めつけているみたいだ。
鴫野は「んー」と小さく何か思案したあと、「スマホが無くなったの」と言った。
「だから空木くんのカバンの中、見ていい?」
スマホがなくなった? というか、「だから」ってなんだ?
疑われているのだろうか。
返事をしないでまごついていると、鴫野は「えっとね」と続けた。
「無いのに気づいたのは校門を出てから。盗られそうなタイミングは始業式の前後。前の学校だと生指の先生がポケットのスマホチェックしたから、教室に置く癖があって。それで、花園さんたちはホームルームが終わってからもずっとここでしゃべってたし、空木くんは荷物を置いたままプリントを集めに行ってたでしょ?」
生徒会の仕事は、冬休みの過ごし方に関するアンケートを各教室から回収することだった。確かに、つばさは荷物を置いて教室を出たし、その時はまだ花園のグループは教室にいた。
「で、花園さんたちが帰ったから、ちょっとチェックさせてもらってるの」
「花園を疑ってるの?」
「あの人、わたしのこと嫌いみたいだから。でも、それだけで証拠はないし、今日は機嫌がよさそうだったし、これまで大したことはしなかったのに冬休み明けの今にされるのはないかな、とも思ってる」
「それとぼく……俺のカバンは、どういう関係が?」
鴫野は驚いたように目を見開き、それからくすりと笑った。
「空木くん、いい人だね。さっきまでここにいた子たちが、あなたのカバンにわたしのスマホを隠したかもって思ったの」
「なんで俺のカバンに?」
「人のせいにできるし、ヘンなところに捨てたり壊すよりマシじゃない? 理由は、単にそこにカバンがあるから、かな?」
なるほど。しかし、もうひとつ疑われている感がぬぐえない。
いや、鴫野の弁は納得できたが、自分の失言も含めて、なんとなく意地を張りたかった。
「だったら、俺のカバン見てくれていいよ」
鴫野は「そう?」と言うと、遠慮なくリュックサックのファスナーを引いた。
リュックの口が開けられてから思考が回転し始める。
見られてマズいものを入れたりしてなかっただろうか。
同級生女子に見られて恥ずかしいような、子供っぽい趣味のものや、思春期男子の宝物などは入っていないが。
「あっ」
つばさと鴫野は同時に声を上げた。
「これって、カメラだよね?」
リュックから引っ張り出されたのは、純正ではない安物のケースに入れられたコンデジだ。ついさっき夕方の撮影計画について考えていたのに、存在を失念していた。
「みんなには言わないで」
「言わないけど、なんで? 写真部とかじゃないの? 不要物持ってきてる子なんて、いくらでもいるでしょ?」
「そ、それはそうだけど」
何を焦っているのだ。鴫野の言う通りだ。
そもそもスマホだって、緊急連絡以外での取り出しは禁止されているが、守られていないし、鴫野自身も守っていない。
「い、いちおう高価なものだから」
「ふうん? ……あ、分かった! 見られたら困る写真、撮ってるんだ?」
並びのいい歯を見せて笑う鴫野。
こんなふうに笑うんだ。つばさはあっけにとられてしまう。
「ちょっと、否定してよ」
「あっ……。見ても大丈夫だよ。電源を入れて、メニューボタンを押してから、四角と矢印のマークを押したら見れるから……」
なぜかうつむいてしまう。つばさの視界の隅で鴫野がカメラの電源を入れ、駆動するレンズに少し驚いた様子を見せた。それから、ボタン操作してスクリーンを見つめる。
「鳥だ。鳥の写真を撮ってるんだね。あっ、知らない鳥だ。これ、綺麗」
鴫野は目を輝かせてカメラに見入っている。
そういえば、撮った写真を誰かに見せたりしていない。
いずれSNSを開設してアップロードするつもりはある。
家族には見せたいが、祖父との件のせいでそういう空気になっていない。
よく考えると、白山とも写真を見せあったことがなかった。
「色んな鳥がいるね。あっちこっちに出かけて撮ってるの?」
「遠征はまだしてないよ。県営の公園と近所の川や田んぼだけ」
「空木くんの家の周りって、山奥ってわけじゃないよね?」
「うん。住宅地だし、国道のそばだよ」
「あ、あの大きな池のある公園? じゃあ、うちと近いね。近所だけで、こんなにたくさんの鳥がいるんだね」
撮影を始めたころの自分と同じ感想だ。
つばさはちょっと嬉しくなる。彼女のそばまで歩いて、一緒に画面を覗く。
「この鳥、よく突っ立ってるよね。大きいからちょっと怖いかも」
――アオサギ。あっ、マズい。
池の近辺でシャッターを切った写真だ。時系列的にしばらくは水鳥を撮っている。
鴫野の指が画像を切り替えると、スクリーンに映し出されたのは、マガモのつがいだった。
「これは……カモだね」
鴫野磯子の口元が自嘲的にゆがんだ……ように見えた。
「あ、あの、別にそういうつもりじゃ」
「あはは! 分かってるよ。っていうか、やっぱりわたしがウザがってたの、分かるんだ?」
「だって、あんなの、いじめみたいだろ!?」
語気が強くなった。目と目が合う。距離が近い。少年は一歩後ずさる。
「いじめかどうか、わたしもよく分かんないよ。イヤなのにはっきり拒否したことないし。スマホに何かされたんだったら、いじめだけど」
「いじめというか犯罪だよ。窃盗だ」
「そうだね。でも、もしやってても、いたずらでしたって言って終わりだろうけどね」
鴫野はカメラをつばさの手に返すと、カバンの口を大きく開いて、「なし!」と言った。
そのことばは何かを切るようだったが、つばさはカバンを取って帰ろうという気が起きなかった。彼女もまた、次の机を調べようとしない。
妙な沈黙だ。窓の向こうから、「ちゃっちゃっ」と、ツグミの鳴く声が聞こえる。
学校に植えられた樹木にも鳥はやってくる。
ツグミ、ヒヨドリ、ムクドリ、それからモズ。
今のつばさとしては目になじんだ鳥たちだが、見つけた生徒が物珍しげにしたり、女子が可愛いと騒ぐのもたびたびで、それが面白い。
これを思い出したせいか、つばさの口をついて、「カモも可愛いと思うよ」ということばが飛び出した。
「……へ?」
鴫野が首をかしげる。
ヘンな誤解を与えた気がする。
だが、鴫野はちょっと笑うと、「そうだね、わたしもそう思う」と言った。
それからふたりはまた黙りこむ。
どうすれば、この状況が終わるのだろうか。
鳥の声、校舎向こうのグラウンドから響く運動部の声、近隣を走る自動車の音が遠い。
教室だけが世界から切り取られたようだった。
「でもその、鴫野さんはあんまりカモっぽくないよ」
「じゃあ、どの鳥に似てるの?」
鴫野に似てる鳥。すらっとしてて、堂々としていて、群れたりしない鳥。
つばさはある鳥を思い浮かべ、カメラを操作した。
「コサギ、かな……」
朝焼けを受けながら川の瀬に立つ白い鳥がスクリーンに映し出される。
「綺麗……」
まさにコサギが水中を覗きこむように、鴫野の首が伸びてくる。
「写真撮るの、上手なんだね」
ポニーテールが制服の肩を滑り落ち、ふわっと石鹸のようなにおいがした。
「コ、コサギはサギの中では小型なほうで、全身が白で、黒いくちばしと脚のモノトーンカラー。頭の長い飾り羽と、レースをまとったような蓑毛が特徴的なんだ。採餌に関しては、アオサギやチュウサギほど待ちには徹さなくて、浅瀬をゆっくりと歩きながら、黄色い靴下を履いたような趾で水や土を掻いて餌となる生き物をあぶり出すんだよ」
早口である。
鴫野はこちらを見て目を丸くする。
また顔が近くて、つばさは矢継ぎ早に鳥のうんちくを垂れ流して誤魔化す。
「でも、鴫野さんの苗字の鴫も鳥の名前なんだ」
「え、そうなの? 確かに鳥って字が入ってるけど、どんな鳥?」
「シギは撮ったことないから」
「そうなんだ。えっとじゃあ……」
鴫野はスカートの脇に手を入れると、「そうだった。スマホ無いんだった」とつぶやく。
「スマホ探すの手伝おうか?」
「ん……もう出てこない気がするからいいよ。それに、犯人探しっぽくなっちゃう気がするし、間違うと面倒だから」
「証拠を写真で押さえよう。スマホは大事なものだし、警察はともかく、先生に連絡しないと」
「そうだけど、ダメだよ、そういうの」
ぴしゃりと言われ、にらまれてしまう。
つばさは納得がいかない。
自分だって、ひとの机を漁って、カバンの中に隠したかもと言ったくせに。
「それに、そーいう写真、撮らないでほしいかも」
どきりとする。つばさはマナーの悪いカメラマンの写真を撮影したことがある。
盗撮になるかと思い至り、どうせその写真で何をするわけでもないから、結局は消していたが。
「ね、鳥以外には撮ってないの?」
「今のところは。風景とか、街並みとかも撮りたいけど、許可とか権利が気になるし、近所を撮ってもしょうがないかから……」
本音をいうと、野鳥観察やオオタカ狙いにハマって忘れていたのだが。
「まじめだね。いいことだと思うけど。じゃあ、人は撮らないの? 家族とかは?」
つばさは黙りこむ。
父や祖母が生きていた頃の写真はアルバムにしまってあるが、死別以来はほとんど家族写真を撮っていない。
祖父がまだ元気なうちに、撮っておかなくては。
「ごめん。……もしかして、訳ありだった?」
「うちは父さんが死んだから」
「そっか、うちは離婚。わたしはお父さんについてこっちに来たの」
鴫野はさらりと言うと窓際へと移動し、いくつかの机と窓の外を見比べると、自分のではない誰かの机の上に腰かけた。
「ね、空木くん、撮って」
鴫野は返事も待たないで、そっけない感じで窓の外を見た。
つばさは言われるがままに、人物向けの撮影モードに変え、スクリーンの中に同級生と教室を納める。
つい鳥を撮るときの癖でズームを使うが、すまし顔がアップになってボケていき、慌ててレンズを縮めた。
構図を深く考える写真はあまり撮ってこなかった。
左に窓と鴫野、右を大きく開けてがらんとした教室。
窓から差しこむ昼の太陽が、化粧っけもないのに他の女子たちより大人びて見える少女の顔を輝かせている。
つばさは少女と教室を切り取った。
カメラを下ろすと、鴫野は「もういい? 首が疲れちゃった」と向き直る。
つばさは撮った写真を、少しどきどきしながら見せた。
「ふうん、わたしってけっこう可愛いかも」
「この写真、どうしよう。印刷とかしたほうがいい?」
「いやいや、いいよ。でも、できるなら後でスマホに送って」
と言って顔を見合わせる。だから、そのスマホが無いんだって。
つばさは視線を落として息をつく。
スマホは誰にとっても大切な物だ。見つけてあげたい。
「あのね」
視線を戻すと、鴫野も微妙に困った顔をしていた。
「マズいことを思い出したんだけど」
「何?」
「今日ね、そもそもスマホ持ってきてないかも」
「えっ?」
「今日は家を出てから一度も触ってないの。いつもなら、授業が始まるまで眺めてるんだけどね」
「早とちりなら、それはそれでいいけど」
「そうだね。でもはっきりしないし、家に忘れてきたこともないから、こんがらがっちゃうね」
鴫野が机から飛ぶように降り、手でスカートを直す。
「今日の朝、スマホを出さなかったのは空木くん、あなたのせいだよ」
えっ。つばさは顔だけで返事をする。
「だって、わたしのこと、ずっと見てたでしょ? だから、なんだか動きづらくって」
鴫野ははにかんでいた。
彼女は腕を伸ばして自分のカバンをつかむと、「じゃあね」と、振り返りもせずに、ポニーテールを弾ませて教室を出て行った。
――なんだか、またけむに巻かれた気分だ。
しかも、赤いマフラーを床に落として行ってるし。
つばさはマフラーを拾い上げると、急いでカメラを片付け、鴫野のあとを追った。
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