06.鳥の群れ
ぱりっと冷えた空気の中、クリーニングしたての制服に身を包んで通学路を歩く。
学校に近づくにつれ同じブレザー姿が増え、ちらほらと鮮やかなマフラーが目立ってくる。
つばさのかよう公立中学校は、特に進学校でもなければ、荒れてると言われるような学校でもない。ごくごく平凡な地元の中学だ。
つばさの知る範囲では、いじめもないと思う。……思って、いた。
「よう、空木」「おはよう、つばさ」
友人男子に声を掛けられ、つばさも朗らかに「おはよう」と返す。
つばさの友好関係は良好だ。
小学校からの友達はもちろん、中学から一緒になった隣近所の小学校出身の友達は多く、つばさは部活こそはやっていないが、生徒会で後輩や上級生とも交友がある。
運動部連中は部活中心の人間関係にシフトしつつあったが、それでも深すぎず浅すぎずの付き合いはできている。
周りに気のいい連中が多いということもあるが、つばさ自身が衝突を避ける立ち回りを意識しているということもある。
白山にはからかわれたが、じつは女子たちとの関係も良好だ。
ここだけの話、けっこうモテると思っている。
試験が近づくと、男子をかき分けて勉強を聞きに来る子がいるし、あと一ヶ月もすれば、去年のように机や靴箱にチョコレートが放りこまれるだろうし。
だが、つばさがアプローチに応じることはない。男友達には「もったいない」と言うものもあるが、つばさ自身がまだそういうことにあまり頓着をしないことや、深い人付き合いの先にある漠然とした不安――いや、最近になって気づいた、別れへの忌避――が、邪魔をしていた。
それに何より。
――女子って、よく分からない。
教室に入れば、さっそく女子同士のおしゃべりが聞こえてくる。
あれは笹山を中心とした仮グループで、比較的勉強ができる優等生が集まっている。
最初に教室に入ってくる子たちで、話す内容は試験や提出物、行事などの世間話、それから受験までまだ一年あるというのに、狙う高校やその先の大学の話題が中心だ。
彼女たちは他に仲のいい子がいる場合が多く、予鈴が鳴るころには自然に解散して、休み時間や放課後はほんらい所属するグループで話している。
仲のいい子が来るまでのつなぎ……といえば聞こえは悪いが、別グループの子も混じっているため、ときおり「どこのグループで誰と誰が喧嘩した」とか、「誰かを外したがってる」という話も聞こえてくる。
つばさが特に理解できないのが、そういった情報を流す行為や陰口のようなものを口にしながらも、元のグループに戻るといつも通りに振る舞うところだ。
例えば、いつも遅刻ぎりぎりにやってくる花園希のグループは、ちょっとした諍いが原因で、花園と一番仲のよかった前橋がグループを外れて、前橋は登校時間が前倒しになり、休み時間も次に仲のいい(と、つばさが勝手に解釈している)部活の仲間のいる隣のクラスまで出張するようになった。
けれど、いつの間にか仲直りをしたらしく、前橋はまた花園たちと一緒に校門で風紀の先生に急かされている姿を見せるようになった。
友人関係に優先順位があること自体はしょうがないが、それは部活の子に失礼ではないか、そこまでして誰かと一緒に居たいのかと思う。
女子は一部の「ぼっち」を除いて、何をするにも誰かと一緒、基本的に群れたがっているように見える。
男子にもないわけではないが、男子は割と個別の行動を優先する者が多い。
……と、つばさは学生たちを観察して結論付けていた。
別にこれは、彼がいやらしい目で女の子たちを見ているということではなく、なんとなく他人の行動を観察するのが好きだからだったが、つばさ自身は新学期を迎えた今になって、その癖に気づき、また、合点がいったのだった。
――そうだ女子って、鳥の群れと似てる。
鳥類の多くは、群れを形成する。同種同士はもちろんだが、ときには天敵や食性の同じ別種も交えて「混群」と呼ばれる群れを作ることもある。
群れて目を増やすことで、餌や敵の早期発見が可能になる利点がある。また、襲撃を受けたさいも、数が多いほど頭割りで自分が狙われる確率が下がり、捕食者側としても標的が絞りにくくなって狩りの成功率が低下する利点がある。
こうして他者を利用する習性を持つため、一羽ぼっちでいるよりも、たとえ他種でも誰かがいてくれるほうが安心できるという。
特に被食者としての側面が強い小鳥たちはそうだ。スズメ、シジュウカラ、エナガ、メジロ辺りはよくつるんでいる。
そして、何か問題が起こったり用事が済んだりすると、おのおのの群れへと帰っていく。
――でも、鳥は「ああいうこと」はしないよな。
教室に入ってくる女子生徒をちら、と見やる。
長い髪をポニーテールにして、まっかなマフラーで鼻先まで隠した子だ。
他の女子も彼女のことを見たが、とある女子は仲間と顔を見合わせると、「カモコさんだ」と、ひそかに笑いを交換し合った。
登校してきた女子生徒の名前は「鴫野磯子」。
教室では常に独りで、誰かとつるむことは滅多にない。
最初からそのつもりだったのか、「あの出来事」のせいなのかは分からない。
鴫野は前の夏、二年生の二学期になってからこのクラスに来た転校生だ。
海のそばの田舎町に暮らしていたらしいが、親の都合でこっちに越してきたという。
はきはきとした様子で自己紹介をしていたが、顔は能面のように無表情だった。
なぜならば、彼女は名乗りの時点で侮辱を受けたからだった。
黒板に書かれた彼女の名前は大きかった。
鴫 野 磯 子 と、みずからの手ではっきりと書かれた。
けれども、文字の知名度というもののいたずらか、生徒たちからは「鴨野?」という声がいくつか上がった。
それだけならきっと、彼女にとっても珍しくなかっただろう、鴫野は「鴨野コール」には黙って、手を止めることなく、漢字の横にふりがなを振った。
し ぎ の い そ こ
ところが、ここにくだんの花園希が冗談をかぶせた。
「い そ の か も こ」
花園は小学校の頃から、そういう余計な一言をやらないと気が済まないたちだった。小学生男子にも似たようなのは多かったが、中学になっても同じことを続けている女子は彼女ひとりだ。
二年生になってからこれに乗ったりする子も減ったのだが、これもまた日本文化のいたずらか、「カモ」に対するどこか間の抜けたイメージと、「磯野」とくれば誰もが想像するテレビアニメのせいで、珍しく花園の冗談に爆笑が起こってしまったのだった。
花園を中心とするグループは大きい。
珍しく男子までを含む混群だ。
花園がムードメーカーなこともあるが、彼女は身体の発育がよく、思春期男子の目をよく惹くのも手伝っている。
男子の目が向けられると、花園の近辺でも恋愛話が盛り上がりやすくなる。
去年まではどこか小学校の延長のような雰囲気が強かったが、今年になって急に関心ごとの中心に色恋が鎮座するようになっていた。
そして、花園には高校生の彼氏がいるとの噂だ。こうなってくると、上級生すらも花園の影響力は無視できなくなる……らしいのだ。
鳥の群れにはリーダーはいないが、女子の群れにはリーダーがいる。
そのリーダーが正しく名前を呼ばないのだ。
こうして、鴫野は教員以外から本名を呼ばれることは滅多になくなった。
カモノさん、カモコさん、イソノさん。
野球部男子は全員「おい、イソノ」と呼ぶ。
こういった意地の悪いことに反対するつばさですら、彼女に聞こえないところで呼び間違ったことがあった。
転校生というのは物珍しく、ああいったことがあった直後もクラスメイトたちは休み時間に彼女の机に集まっていろいろと質問をした。
だが、鴫野はつんと澄まして、短く二、三言の返事ばかりでつれなかった。
初めからそうするつもりだったのか、名前の件が絡んでいたのかは分からない。
この際、これもまた、たまたまかわざとか分からないが、くちぐち勝手な発言に紛れて、花園が「自分の質問が無視された」と憤慨した。
その話が伝わると花園とその周囲が鴫野を無視し始め、そのうちに「恋愛に興味のある組」の女子はたいてい彼女によそよそしくなった。
つばさがいつ見ても、鴫野磯子はひとりぼっちだ。
望んでか、望んでいないのかは分からない。
だが、群れのほうが彼女を外したのは、意志あってのことだ。
野鳥の群れは実利的でドライだが、こんな無駄な攻撃はしない。
故意の暴力や嫌がらせはない。花園だけは意図的に鴫野のあだなを口に出せるようにきっかけを探しているようなふしがあるが、そこに留まっている。
だから、これはいじめじゃない。
ただ、鴫野と花園の仲が悪いだけ。女子にはよくあることだ。
何か簡単なきっかけでこれは終わるだろう。
――そうだろうか。
鴫野磯子は、どこかのグループに入れるだろうか。
来年度にクラス替えがあっても、縦横に伸びた花園の影響力からは逃れられない。
花園が命じていようが、命じてなかろうが。
一羽の鳥が飛び立つと、反射的に他の鳥も続いてしまうのと同じだ。
鴫野磯子は、平気なのだろうか。
彼女は誰とも挨拶をせず、窓際の席に着席した。
笑みもなく、かなしげでもなく、怒りも見せずに。
教室に入るときも、着席しているときも、すらりとした背筋をぴんと伸ばして、うつむいたり、机に突っ伏すこともなく、教科書かスマホを見ている。
野生生物は怪我や病気を隠すという。
弱った個体は捕食者に狙われやすいからだ。
もちろん、それは人間によるカメラ撮影の場合も同じで、鳥は目を見開いて相手を注意しながら、採餌やさえずりを続け、どうどうと振る舞う。
そして、ある程度の接近、フライトディスタンスを割った瞬間に、飛び立って逃げる。本当は不安で不安でしょうがないのに、ぎりぎりまでこらえているのだ。
本当に、鴫野磯子は平気なのだろうか。
つばさは正直、彼女が冬休み明けもちゃんと登校してきたことに、ほっとしていた。
祖父の病が明らかにされて以来、「死」というものに敏感になっている。
新学期や連休の前後は、学生がよく落命するのだ。
マンションの屋上に靴と悲鳴を残したり、電車前へと躍り出て。
今朝もまた都心のダイヤの乱れがニュースになった。
つばさの瞳の中で、鴫野磯子がマフラーを外している。
くるくると、首に巻きついた、まっかなマフラーを。
……。
「知りたいのなら、確かめるしかないな」
白山に相談したさい、彼はそう言った。
「おれもきみの言う通り、女子同士にありがちな行動だと思うが、簡単なことで仲間に入れるのと同じで、何がきっかけでエスカレートするかも分からないし、本人にその気があるなら取り持ってもいいかもしれないな。でも、あくまで彼女の意思次第だ。お節介をやった上にきみが嫌われたり、本格的ないじめに発展したら目も当てられないからな。まずは確かめること」
その通りだと思った。確めて、解決させたい。
他のクラスメイトがどう思っているかは知らないが、鴫野と花園の問題が無いほうが、教室の空気だって旨いだろうとつばさは考える。
「そういうわけで、声を掛けてみろ」と、締めくくった白山がにやけていたのは、ちょっと引っ掛かるが。
――!
つばさは勢いよく顔を背けた。見ているのを鴫野に気づかれたらしい。
つばさの机の横で談笑していた男友達が首をかしげている。
鴫野も鴫野で小首をかしげている。鳥が首をかしげるのは、相手をよく観察しようとしているからだ。
つばさは椅子を少し引いて友人の陰に隠れた。コミュニケーションが特段に苦手というわけではないが、やはり話しかけづらい。何か切っ掛けが必要だろう。
始業式とホームルームが終わり、下校時間になった。
つばさは生徒会の雑務で廊下をゆきながら、何かいい手はないかと考える。
職員室に書類の束を提出し、教室棟へと続く廊下から校門への道を見下ろす。冬休みに会えなかったぶんのおしゃべりをようやく済ませた花園たちが帰っていくところだ。もうすぐ十二時。つばさも腹が減ったと思う。
家に帰って昼食をとったら、夕方の活動時間に合わせて野鳥観察に出かけようか。
ところが荷物を取りに教室へ戻ったら、鳥や飯どころではなくなった。
赤いマフラーを巻いたポニーテールの少女が、机を漁っている。
それも自分の机ではなく、他の生徒の机を覗きこんだり、手を突っこんで教科書をどけたりまでして。
鴫野磯子。何をしているのだろうか。
つばさは息ができない。教室に片足を踏み入れたまま固まっている。
身を隠すべきだろうか、それとも動かないほうがいいか。
初めて逢った鳥にカメラを構えるような緊張感があった。
距離を詰めなくとも、レンズを向けた瞬間、台無しになるかもしれない。
鴫野は順々に机を調べていき、ある机を見て動きを止めた。
机の上にはリュックサック。
その中には、祖父に買ってもらったカメラがこっそり忍ばせてある。
校則違反だが、登下校中に珍しい鳥を撮り逃して惜しい思いをするのを考えると我慢が出来なかった。
揺れていたポニーテールが動きを止める。
くるりと振り返る少女。
目と目が合った。
***