04.アオサギは待つ
つばさは自室の天井を見上げながら、自然公園での一件を思い返す。
緑色のパーカーを着た彼は、名を白山といい、休暇には頻繁にあの公園へ野鳥撮影に訪れているという。
つばさに「ひゃくまん」と吹っかけたぎょろ目の男性は、最近この公園に現れるようになったらしく、撮影マナーが悪い……というか、フェンスを破壊したり、立ち入り禁止区域に踏み入ったり、公衆便所を利用しなかったりと犯罪行動が目立つらしかった。
そして白山が決定的な瞬間を写真に収めてやろうと、野鳥観察の片手間に男を監視していたところ、意図的にトラブルを待つ現場に遭遇したのだった。
つばさは白山に窮地を救われたのち、公園の小高い展望の丘の休憩所で彼と並んでベンチに座った。
白山は中年男を撃退したときとは打って変わって、つばさが落ちつくまで黙って、ただ静かに隣に座り続けた。
カラスが柿の木にやってきてもカメラを構えることもなく、アオバトが横切っても目で追うこともせず、じっと獲物を待つアオサギのように、そこにいた。
だが、つばさがやっとのことで「ありがとうございます。お兄さん」と口にすると、急に笑いだしたのだった。
「お兄さんはやめてくれよ。おれはこう見えて三十八、アラフォーだよ」
つばさは彼のことばを受けて、また黙りこんだ。
失礼を働いてしまったと思ったからではない。
このくらいの歳の男性の年齢を知るたびにやっていた「計算」のせいだ。
――同い年だ。
つばさの父の空木洋は、つばさが六つのころに他界していた。
享年三十歳。交通事故だった。
洋の母親、つまりは祖母といっしょに、つばさの小学校の入学祝いのための買い物に出かけたその帰りに、事故は起こった。
完全な貰い事故だ。交差点を直進中、信号無視、右側面への衝突。
運転席にいた洋は即死だった。助手席に座っていた祖母美代子も頭を打ち、三日間生死のはざまをさまよったすえ、意識を取り戻すこなく逝った。
残されたのはまだひらがなもほとんど書けない子どもと、今の時代としては若い母親の恵、そして定年を見据えていた祖父の潔だけだ。
恵は毎日泣いていたし、よく洋と晩酌をしながらニュースや世間のことを議論しあっていたはずの潔も、テレビすらつけずに自室で呑むようになった。
幼かったつばさは、父たちの死をすぐには理解できなかった。
入学式の日になって、他の家族と自分の家族を見比べたときになって、ようやく悟ったのだ。
めかしこむも笑っていないお母さんと、古ぼけた背広のおじいちゃん。
「お父さんとおばあちゃん、死んじゃったんだね」
恵と潔は入学式に無理に出ることはないと言った。
だが、つばさは首を振って出席し、校長先生や担任の顔を黙って見つめた。
白山が公園でしたように、辛抱強く獲物を待つアオサギのように。
つばさが最初に担任の教諭にした質問は、彼の年齢についてだった。
若き男性教諭の年齢は、父のふたつ下だった。彼はつばさの家庭の事情を知っていたらしく、「なんでも相談しろよ」と言った。
つばさは父と担任の年齢を比べ、「あと二年したら死ぬのだろうか?」などと考えた。
担任は一年生から四年生までの四年間、つばさを受け持った。
死ぬ人もいれば、死なない人もいるのだ。年寄りだって生きていることを考えれば当たり前だったが、つばさには父の死去以降、男性の年齢を数えたり、ニュースで知らせる誰かの死を追う癖がついたのだった。
かけがえのない二名を欠いた空木家の頭上には、まだ雲が停滞していた。
その暗雲は悲嘆の沛雨だけでなく、危険な霹靂までもを連れてきていた。
加害者側の運転手は、信号無視に飽き足らず、もっと多くの非常識を重ねた男だった。
ノーブレーキはもちろん、極端に低い車高、角度のついたナンバープレート。
勝手にぶつかるだけぶつかって、彼もまた死んでいた。
そのうえ、任意保険の加入すらしておらず、彼の家族も「縁を切って久しい」と言い張り、損害賠償の相続拒否をしたのだった。
あくまで拒否であり、法的な放棄が認められたわけではないらしかったが、話は長く宙に浮いたままとなり、幼いつばさには細かな事情も結末も話されないまま今日に至っていた。
空木家は事故が起こるまでは裕福だった。
自家用車は洋と潔の個人所有と、家族全員で出掛ける用で三台もあったし、その家族用も月に何度か動かされていたし、潔の退職後には家のリフォーム計画までもあった。
さまざまなものを手放し切り詰めつつ、潔は働き続けることを選んだ。つい最近、七十三まで働いた。
いっぽうで、潔は恵には外に働きに出ることを許さなかった。
内職のたぐいをしていることもあったようだが、つばさが帰れば母親は必ず家にいた。
「父を欠いたのだ、母はいなくちゃならん」それが潔の方針だった。
今のパートタイマーの仕事は、つばさの中学校進学に合わせての解禁だ。
つばさは家庭の事情をよく分かっているつもりだった。
聞き分けのいい子でありつつ、ちゃんと母親の愛を受け、父代わりの祖父があった。
今となっては、母にも祖父にも「違う道」があったことも理解している。
それでも自分のためを選んでくれたふたりには感謝している。
少年は幾度となく誓っていた。
マナーの守れるしっかりとした大人になって、ふたりに恩を返そう、と。
六年以上の歳月は、実父の面影をぼやけた思い出へと変えていた。
ただときたま、「生きていれば何歳」と考えるだけだ。
父に対する悪い記憶はない。
いい思い出はいくつかあったが、懐かしむほどまだ大人ではない。
かといって、どうして死んだのだと怨むほど子供でもなかった。
ところが、ここ最近になって「父が生きていれば」と思うことが増えている。
なぜならば、つばさは自分が考えていたよりもはるかに、母と祖父に子供扱いをされていたことが発覚していたからだ。
祖父、空木潔の闘病のことであった。
潔はつばさの知らぬ間にがんを患い、治療も手術も済ませていた。
完治、ということになっていたらしいが、それが再発したのだ。
それも、かなりの進行状況だという。
これがつばさに明かされたのがひと月ほど前、去年の暮れだった。
そして……、
「治療は受けんことにする」
いったいどうして?
最初に返された理由は、「もう充分、生きたから」だった。
潔は七十もなかばに差しかかろうとしているが、平均寿命が八十を超える時代だ、つばさは納得しなかった。
こっちだって、まだ孝行できていないのに。どうして。
がんは転移などで完治が難しく、治療に苦痛が伴うものも多いと聞く。
しかし、つばさの知る祖父はへこたれる男でも、恐怖から逃げる男でもない。
祖父に対して声を荒げたのは久しぶりだった。
すると潔は、反発して怒鳴るわけでもなく、悪びれるわけでもなく……そう、ちょうど白山が年齢の話をしたときのように笑って、「美代子のことが忘れられんくてな。理由をつけて早く逝きたいんだ」などと宣ったのだ。
冗談じゃない。遺されるほうの身にもなってよ。
暖簾に腕押し、「すまんすまん」と笑みを含んだまま謝られ、潔はそのまま美代子との馴れ初めや、若いころの思い出を語り始めた。
つばさはいつしか彼の思い出話に引きこまれて、怒りはどこへやら、笑いを誘われもして、まんまと逃げられたのだった。
つばさが治療拒否の「真の理由」に勘づいたのは、クリスマスイブの夜だった。
潔は新しい上着を買って贈ってくれたのだが、恵が「前のがまだ着れるのに。どうせまた成長期ですよ」と、また小言を言ったのだ。
つばさはこれに対して反論した。祖父のお金で買ったものだというし、母だってパートを始めたのに。そんなにお金に余裕がないのか。
ことばは濁された。
母は黙りこみ、祖父もたじろいでこの時ばかりは動揺が透けて見えた。
祖父が治療を受けないことを決めた理由には、金銭面の問題も絡んでいる。
裕福でないことは承知していたが、それが家族のいのちに関わる部分にまで達していることに衝撃を受けた。
もう少しのあいだ、なんとかできないのか。
あと二年とちょっと待ってくれれば自分も高校生だ。バイトだってできる。
それとも、余命がもうそれを許せるほどに残されていない?
聞きたいことや提案したいことは、いくつもあった。
だが、実際にこの話題になるとつばさは冷静さを欠き、潔は冗談めかしてかわすことばかりをするようになる。そして恵は忙しいふりをした。
誤魔化しを押しのけても、潔の伝家の宝刀「俺の人生だろう?」には勝てない。つばさは、自分のために彼の老後が大きく変わったことを理解していた。
――もしも、父さんが生きていれば。
あの事故さえなければ、祖父は治療をしないなどと言い出さなかっただろうか。そうに違いない。
仮に祖父の死が免れないものだとしても、父がいればもう少し受け止めやすくなっただろうに。
いや、そもそも身体を悪くしたのだって、心身の疲労が無関係とはいえまい。
……と、父に一切の責任を負わせるような恨みごとを唱えるのも、珍しくなくなっていた。
ことに、今日においては、今朝に出逢った白山という父と同い年の男のせいで、考えずにはいられないのだった。
カメラを倒した引け目とぎょろ目の男の悪意と威圧の余韻は、思い出せばまだリアルに感じることができる。
つばさは礼を言った流れで、いかに自分が危機的状況だったのか、白山に打ち明けた。
余計なこと――家庭の財政状況や、祖父の病気の話まで――してしまった。
白山はまたアオサギで、今度はつばさがヒヨドリだった。
そうだ、話を聞いてもらったほうの礼を言っていない。
――また、会えるだろうか。
それに、百万円は言い過ぎにしても、カツアゲから救われたのだ。
ことば以上の礼が必要だと、今更になって思う。
祖父ならそういう筋は絶対に通す。手土産のひとつくらいは渡すべきだ。
連絡先の交換をしておけばよかった。
つばさの吐露が落ちついてからは、マナーの悪いカメラマンや、素早くてなかなか撮らせてくれないヤマガラやエナガの話で盛り上がった。
白山が落ち葉の上で座りこんでいたのは、ヤマガラが出てくるのを待っていたからだそうだ。
ヤマガラは人に飼われていた歴史を持ち、人に慣れやすいいっぽうで、せわしなく動き続けるために画角に納めづらい。
白山は少し離れたところの樹木を観察していたらしく、ヤマガラはよくその木にエサを隠すのだそうだ。
「でもな、ヤマガラとしては本当はそれをまだ消費したくないはずなんだ」
そのヤマガラがよく採餌をおこなうスポットは、アオバトの撮影待機をしているカメラマンたちの溜まり場になっていた。
彼らが長く粘れば粘るほど、ヤマガラはひもじくなってしまう。
つばさは腹を立てた。アオバトは餌づけでおびき出されている一方で、そんなことが起こっているなんて。
「ヤマガラ的には不幸だし、アオバトも別に人間には感謝してないだろうな。あっ、人間があそこにドングリを隠したぞ。しめしめ、あとで横取りしてやろう、くらいのもんだと思うよ」
オートライシズムと呼ばれる鳥の行動がある。
耕運機の通ったあとに出てくる虫やミミズを捕ったり、トビが漁港で処分される魚に群がったり、サギが釣り人の横でおねだりをしたりなど、他の生物の行動を利用した採餌方法だ。
「カメラ趣味の餌づけもこれに含めれないこともないと思う」
「でも、鳥から自力で生きる力を奪うって言いますよ」
「鳥はそのくらいで生きる力をなくさないよ。木から実が無くなればよその木に移るし、軒並み実が落ちれば今度は地面に行く。だが、全肯定はしないさ。ほんらい鳥が口にしないものを与えて身体を壊したり、あるはずのない植物が生えたり、水質が悪化したりもする。やりっぱなしはダメだ」
「誰かが食パンをカモにあげてましたけど、栄養が偏りますよね」
「ヤマガラにおにぎりをあげようとしたのを見たこともあるな。ねばついた米は素嚢を詰まらせるし、海苔なんて人間でも日本人くらいしか消化酵素を持たない」
白山は付け加える。「ま、それに餌づけは……」
「ゲーム的にズルっぽいよな」
「そっか、それだ。チートな感じがするんですよね。だから他の人がやってるのが気に入らないんだ」
「どっちかというと、集団で待ちに徹する撮影のほうが問題だろう。何時間も粘るってことは、鳥はそこに釘づけになって何もできていないってことだからな」
「人間的にもマナーが引っかかります! カメラバッグで椅子を占有したり、タバコを吸ったり! ぼくのおじいちゃんなら、絶対にそんなことしない!」
「まあ落ち着けって。でも、自分のじいさんと同じくらいの歳の人が情けない奴だと、悔しくなるよな」
白山は野鳥観察を始めてまだ二年だというが、やはりつばさよりも遥かに詳しかった。知識量だけでなく、考えの深さや豊かさも見えた。
そのうえ白山は、自然公園では近年、春になるとオオタカが営巣していると教えてくれた。
しかも、見られる猛禽はつばさが思っていたよりもずっと多く、ハイタカ、ハヤブサ、チョウゲンボウ、ミサゴなどが来ることもあるという。
こうしてつばさは気分を弾ませ、軽い足取りで帰ってきてしまったのだった。
で、礼を言うのも、連絡先の交換も忘れた。
これもまた、けむに巻かれたような気がしないでもない。
少年は天井を見上げたまま大きなため息をついた。
それから、今日逢った男の返してくれたことばを反芻する。
「自分のじいさんと同じくらいの歳の人が情けない奴だと、悔しくなる」
まったく、その通りだ。あんな連中が幅を利かせているんだ。祖父が生きるのを諦める道理なんて、ない。
つばさは寝返りを打ち、重力に任せてベッドに腕を叩きつけた。
一階から夕食の甘いにおいが漂ってくる。すき焼きの香りだ。
正月には焼肉だのすき焼きだのをやるし、潔の好きなカニ鍋も欠かさない。
これだって、安くないだろうに。
胃袋に詰めこまれた十個の切り餅とおせちの残りはとうに消えていた。
自分が育ちざかりなのも憎らしい。
――ああ、そっか。
つばさはもうひとつ気づく。
貧しいのは理解していたが、一度も空腹で苦しんだ記憶がない。
ベッドに顔を埋め、自分はまだ子供なのだと歯噛みした。
母の呼ぶ声がする。返事は胃袋がした。
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