03.ヒヨドリみたいな男
望遠レンズをつけたカメラは、三脚ごと音もなく芝生へと倒れた。
つばさが「あっ」と思う間もなく、耳を二度目の怒声が突き抜け、それから目がワンテンポ遅れて有名レンズブランドの文字を識別した。
「ご、ごめんなさ」「触るな!」
つばさはカメラを救わねばと身をかがめたが、持ち主に肩を押され尻もちをつかされる。
持ち主の中年の男性は三脚を立て直すと、目をぎょろぎょろと動かしてカメラをくまなく調べ、舌打ちをしたかと思うと、これ見よがしに深いため息をつきなおした。
どうしよう。少年は硬直する。
男はふくよかな体系をしている割に、目元が影か窪みかで黒く、目玉が少し飛び出して見えた。その目玉がぎょろりとこちらを睨む。
「壊れた」
少年は「えっ」と言うほかなかった。
身体が芯から冷えていく。壊れたのはボディだけか、それともレンズか。
どちらにせよ、安物のようには見えない。
今、つばさが手にしているコンデジよりも高価だということは確かだろう。
ぎょろ目男は座りこんだつばさのそばにそびえ立つようにし、見下ろしていた。
「弁償しろ」
弁償。鈍器のようなことばが少年の頭蓋を殴る。
いったい、いくらだろう? とうてい払える額ではないだろう。
自分が持っているコンデジですら、母のパート代のひと月ぶんで利かない。
祖父だって無理をして買ってくれたのだ。
そしていまさらになって今朝の言い合いのことや、険悪なまま飛び出してしまったことなどの後悔が、つばさの頭の中で跳ねまわった。
ぎょろ目の中年は魔法の呪文を唱えるような早口で、カメラボディとレンズの型式を口にした。
とどめに、冗談のような「ひゃくまん」というワードが降ってくる。
「そんなお金、払えません」
「おまえ、中学生か? どこの中学だ? 親は?」
男のカメラを倒したのは完全に自分の不注意だ。
ついさっきまでは、こころの中でマナーの悪いカメラマンたちに何度も唾を吐いていた自分に情けなくなる。
しかし、家族に迷惑をかけるわけにはいかない。
ここで祖父や母に金銭的な負担を掛けることは、空木家に忍びこんだ死のにおいを肯定することと同義だった。
「あの、なんでもしますから、親には言わないでください。弁償は絶対にしますから」
つばさの懇願に中年の口元がゆがむ。
「ガキが一丁前に。だったら、これだな。これで勘弁してやる」
男が手を伸ばしてくる。彼がつかんだのはつばさのコンデジだ。
これをよこせということなのだろうか。
無意識にストラップを引いて抵抗をしたが、奪おうとする力は強く、ストラップが手首に熱いほどに擦れてカメラが手から離れてしまう。
「おまえには過ぎたカメラだな。いいとこ十五万くらいか。百万には足らんな」
つばさは立ち上がれない。腰が抜けたわけじゃない。男の手から雑に吊り下げられた自分のカメラから視線が外せず、かつ男があまりにも近くの正面に立っていたからだ。
ぎょろりと目玉が横を見る。
彼の視線の先には、岩があった。
それは造園時に人工的に埋められた平らな岩で、普段は誰かが餌を撒いてスズメのステージを作っている場所だった。
自分のカメラで撮った、初めてのスズメ。
餌づけには反対だと思いながらも、茶色く小さな隣人の魔力に抗えなかったのを思い出す。
男が腕を持ち上げ、祖父からの贈り物が頭上高くにかざされた。
少年は怒ることも抵抗することもできず、ただただ鼻の奥が熱くなるのを感じた。
カメラが悲鳴を上げた。
かちかちかちかちとスズメバチの威嚇のような、シャッター音だ。
ぎょろ目の男は、いっそうその目玉を大きく見開き、つばさのコンデジを持ち上げたまま動きを止め、まるで鳥が音の出どころを探るように、頭を忙しなく動かした。
それから、つばさの後方に釘づけとなる。
「いやあ、いいのが撮れたな」
別の男性の声だ。つばさも身をよじって背後を確認する。
二本の足がある。少し視線を上げれば、どこかで見た緑色。
「おまえはなんだ」
「第三者です。カメラが倒されたんですから、客観的な証拠があったほうがいいでしょう?」
緑のマウンテンパーカー男が薄笑いを浮かべていた。
中年、ではないように見えるが、若いとも言い難い。
ヒヨドリのように跳ねた髪には、白髪がちらほら覗いている。
「本人が認めてるから証拠はいらん」
「そうおっしゃらずに。動画も撮ってるんですよ。この子が上を見上げて……」
「いらん!」
カメラの持ち主が怒鳴り、つばさは肩を跳ねさせる。
「それに気づいたあなたが、どうしてだか注意もしないで、カメラにぶつかるまでにやにやしながら突っ立ってたところもちゃんと撮れてますよ」
「な、なにを……」
「ほら、カメラの写真を撮っておきましょう。どこが破損しましたか? 電源は入りますか? レンズに傷は? ジョイントにひびなんかは?」
緑の男はぎょろ目の言うことに構わず、カメラに向けてつぎつぎとシャッターを切った。
最後は何か操作をしたと思ったら、ストロボを焚いて男の顔面を撮影した。
「やめろ!」
「ほら、行きましょう警察に。おれが証言しますよ。ところで、あの自転車はあなたのですよね? うしろのかごに乗ったリュックからはみ出てるバールのようなものって何に使ったんですか? あ、今日は使ってませんよね。でもなんだかフェンスみたいな色をした塗料がついたままだ。ワイヤーカッターとかも入ってたりして」
緑の男は矢継ぎ早に、けたたましく、まるでヒヨドリのように喋り立てる。
バールのようなもの? ワイヤーカッター?
どういうことだ? つばさは理解できず、混乱していた。
「ど、泥棒?」
「誰が泥棒だ!」
ぎょろ目はつばさを怒鳴りつけるが、緑の男を見て眉を曲げる。
緑の男は、ぎょろ目に向かって手を突き出していた。
「なんだ、その手は?」
「少年の言う通り。そのままカメラを持っていったら、泥棒ですよ」
「だから、これは弁償で……」
「若い子のカメラを岩に叩きつける弁償ってなんですか? さてはそのカメラの中に、お宝でも隠されてるんですね? それとも、首相暗殺計画の証拠を収めたカメラとすり替わっていたとか?」
「な、なにをバカな」
「そんなバカなことより、あなたの大事なカメラが心配でしょう? ほら、もう一度確認しておきましょうよ」
「カメラはいい! もう直った!」
つばさのカメラが緑のパーカーの男に押し付けられる。
ぎょろ目男は三脚のついたカメラを回収すると、小走りに自転車へと駆け、そのまま走り去っていってしまった。
「大丈夫か?」
緑の男が手を差し出し、つばさは助け起こされる。
「大切なカメラだろ? お父さんのおさがりか? お年玉で買ったのか?」
つばさは黙って首を振りながらカメラを受け取る。
礼を言いたいが、ことばがつっかえて出てこない。
「おれの持ってるのよりいいやつじゃないか。メーカーは同じだな。ふむ、このコンデジなら上等な一眼を持っててもサブ機として残したいし、おさがり説は違うとみた」
男は独りで勝手に、楽しげにことばを並べている。
「そうだな……。おじいちゃんからの誕生日プレゼント、だな」
つばさは思わず呼吸を止めた。
「えっ、マジか? 当たり? ハトが豆鉄砲を食ったような顔してるぞ?」
ピンポイントで当てておきながら、困ったそぶりを見せる男。
それはそうだ。だって、つばさの鼻の奥で熱くなっていたものが、目までせり上がってきていたのだから。
「怖かっただろ。もう大丈夫だぞ」
遊ぶような調子は一転、優しげな口調。彼は微笑んでいた。
それから、ぽん、と少年の背中が叩かれた。
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