29.鳥になる
時はつばさが驚くほどあっという間に、飛ぶように過ぎていった。
小学生の頃は一日がもっと長く、明日がもっと遠くに感じたはずだったが、多忙と焦りが時計の針をぐんぐんと押し進めていくようだった。
八月にはつばさの生まれた頃からの家は手放され、空木家は3LDKのマンションの一室に移り住んだ。
これもまた仮住まいで、潔が逝ったのちはさらに小さな住まいに移る予定で、つばさの大学選択次第では、恵もつばさもおのおの独りになる日が来るかもしれない。
だがそれはまだ先のこと、つばさたちは中学三年生、目下、高校受験だ。
示し合わせたわけではないが、鴫野やくるみも同じ高校を目指していて、三人はよく勉強会を開いた。
ときおり秋波を送ってくる女子ふたりに挟まれつつも、少年はしっかりとペンを握り、祖父の寿命をおもんばかりつつ、学生の本分に勤しんだ。
くるみの進学に関しては、もとは県内で有名な私立のお嬢さま学校に通う予定だったのだが、くるみが兄の雪笹を焚きつけて両親を説得したという。
くるみいわく、以前の兄なら協力どころか両親に加担して許さなかっただろうとのことだ。これには山田結愛との一件が効いており、女子ばかりの世界に入れたからといって安心できるとは限らないと考えるようになったからだろう。
ちなみに、つばさは雪笹から「妹のことをいろいろと頼んだぞ」などといわれて責任重大となってしまっている。
試験勉強の息抜きには再びカメラを手に出かけ、風景や鳥にレンズを向けるようになった。つばさの写真は市の広報誌の表紙を飾ったり、地域特集を組むインターネットサイトに掲載されたりもした。
潔の病状はおおむね良好だった。
もちろん、じわりじわりと肉体が蝕まれているのは、深くなる陰影や小さな所作に現れていたが、いつでも機嫌よくしていたし、体調のよい日は散歩に出かけたりもした。
散歩にはつばさや恵が付き添ったが、お互いに不満や負担を見せることはなかった。
医者の見立てでも、このぶんなら、つばさの高校生の姿を見られるのではないかという話だ。
それはよいのだが、何かにつけて公園で会う鴫野とも関わる機会があり、そのたびに彼女が潔の世話を焼き、「恵さんには迷惑を」などと宣っていたはずの潔も満更ではない態度を見せていたのがつばさ的にはいけなかった。
「で、どっちにするんだ?」と、にやつく祖父に対して、不謹慎ながらも「お迎えはまだか」と、口にできぬ悪態を弄ぶこともしばしばだ。
もはや「死」は、空木家を覆う暗雲ではなくなっていた。
嵐は大地を濡らし、稲光をなんども見せながらも、過ぎ去ったのちには新たな芽を育むのだろう。
白山かえるとの付き合いも変化した。彼は夏鳥が発ち始めるあたりから、あまり公園にやってこなくなった。
勤め先の病院を変えて、伴って勤務時間が変わったからだという。彼は「受験勉強も本番だし、ちょうどいいだろ?」などと言っていた。
つばさも彼に頼ることはなくなっていた。
学校では生徒会長を務め、友人たちに勉学を教え、自宅では恵や潔を助けるという負担があったはずなのに、不自由をひとつも感じなかった。
いつしかスマホでのやりとりも減り、新年には挨拶すらも忘れ、遅ればせながらメッセージを飛ばしたのは、ちょうどふたりが出逢ってから一年の日だった。
だが、白山からの返事はなかった。
つばさは忙しいのだろうと考え、そのまま受験勉強が佳境に入ってしまった。
潔も寒くなってからは散歩に出なくなっていたが、白山と連絡がつかないことを聞いて一度、試験勉強の息抜きと銘打って、空木家総出で県営公園に足を運んだが、あの緑色のパーカー姿は見つけられなかった。
鴫野から『白山さん、最近見ないね』と言われたのが二月で、やはりこれもまだ入試直前で、彼を探すのは試験が終わってからだと流すこととなる。
そして三月。つばさたちの桜が咲いてからのことだ。
つばさはまた足繁く県営公園に通うようになっていた。
野鳥を撮影するかたわら、白山が現れないかと思ってのことだ。
あれ以来、なんどかメッセージを送っていたが、既読すらついていなかった。
この日は小春日和で空は抜けるように広く、こころなしか鳥たちも喜んでいるようだった。
ヒヨドリが空中でひねりを加えがら木の実をもぎ取る瞬間を激写し、オシドリがねぐらの枝から滑り落ちて水にはまるシーンを動画に撮り、ミサゴが魚を持って池の対岸の立ち入り禁止区域に降りるのを見つけた。
撮影に満足してベンチでくつろぐ。
そばにある木では、エナガが巣材集めで飛び回っている。
向こうの生垣からは、アオジのさえずりが聞こえる。
たまにはカメラを構えないで、目と耳だけで楽しむのもいいだろう。
そよ風も気持ちがいい。
「空木つばさくん、だよね?」
声を掛けられた。背の高いショートカットの女性。三十前後だろうか。
どこかで会ったことがあるような、ないような。
つばさがぽかんとして女性を見上げていると、彼女は不安そうな顔になった。
「ごめんなさい、違った?」
「あ、いえ。合ってます。どこかで会いましたか?」
「憶えてない? 白山かえるが痛風になって……」
ああ、あの時の女性か。
一度会ったきりの人が髪を切ってしまえば、思い出しようがない。
つばさは少し不貞腐れた気持ちになったが、すぐに姿勢を直して訊ねる。
「白山さんが、どうかしたんですか? 最近、連絡がつかないんですよ」
すでにもう、つばさの中に黒い何かが近づく気配があった。
その黒い何かは、どこかで会ったことのあるような、最近別れたばかりのような、言い得ない感覚だった。
「あの人は、白山かえるは死んだわ」
女性は微笑していた。どこか張り付いたような、硬いほほえみ。
「え、死んだ……? 亡くなったって、どういうこと?」
呑みこめなかった。
急に十年も昔の子どもに戻ったような気持ちになって、少年は狼狽し始める。
どうしてですか? なんでですか? なんでなんですか?
「雪山で凍りついてるのが見つかったの。一月のこと」
一月!? そんな前に?
「彼なりの配慮だったんでしょうね。あなたたち、受験生でしょ? 高校、決まった?」
つばさは答えなかった、答えられるはずがない。
だが、脳が「ひとつの疑問」を目ざとくみつけ、嗚咽をかき分けさせた。
「配慮って、どういうことですか?」
「説明しづらいんだけど、自殺なの。お酒の瓶と、インコの亡骸をかかえてね」
「彼が自殺? そんなはずないですよ! だって……」
「だって?」
「あんなに明るくて、元気そうだったし、ぼくたちにだってよくしてくれたのに」
「あの人、言ってなかった? 鳥になりたいって」
白山の口癖だ。
愕然とする。鳥になりたいとは、そういう意味だったのか。
「これ、あなたに渡して欲しいって。あと、このカメラも貰ってちょうだい」
女性に手渡されたのは、白山の愛用していたコンデジと、一枚の便箋だった。
つばさは手にした紙はたった一枚だが、万札よりも、一緒に受け取ったカメラよりも重い。
つばさは手紙を開かずにコンデジを起動した。
保存されていたのは雪山の写真だ。最期まで彼は撮影していたのか。
風景のほかには、アカゲラやミミズクなどの山に行かないと会えない鳥の写真が収められている。
最後のほうには、雪の積んだ岩山を歩く白いウズラのような鳥の群れが……。
いや、これはウズラじゃない。ライチョウだ。彼は高山にまで行ったのか。
つばさがライチョウを見つめて固まっていると、女性に「手紙を読んであげて」とうながされた。
カメラの電源を切り、便箋をおそるおそる開く。
――すまない、少年。
この手紙を読んでいるということは、おれはもうこの世にいないということだ。
知人に預けていたインコが死んだとき、おれもこの世から発つと、
きみたちと出逢うよりもずっと前、もう何年も前から決めていたんだ。
どうか気に病むことのないようにしてくれ。
とはいえ、おれがこんな終わり方をして、きみたちはさぞ面白くないだろう。
おれのエゴだ。
赦してくれとは言わない。赦す必要もない。
いいことも悪いことも、あるがままに受け入れ、それを持って生きたらいい。
鳥はみんなそうしているだろう?
え? みずからいのちを断ったやつに言われたくないって? もっともだ。
だが、きみたちと関われたことはおれにとって本当に幸福だった。
ありがとう。
それからひとつだけ、おれからの頼みを遺しておく。
身勝手だと思うなら、無視してくれていい。
つばさ、きみは鳥になるんだ。
鳥といっても、おれとは違う、ずっと高くに、ずっと遠くに飛んでいける鳥だ。
鋭いくちばしと、かなた見渡せる瞳と、大きな大きな翼を持った鳥になれ。
海を越え、山を越え、季節を越えて、羽ばたき続ける、
そして、必ず帰る鳥になるんだ。
だが、雪山の寒苦鳥にだけはなるなよ。
昼と夜が背中合わせであるように、生と死も切っても切り離せないものだ。
よき生を生きるには死を忘れるな。
よき死を迎えるには生きた道を思い出せ。
きみは賢い鳥になるんだぞ。
それじゃあ、おれは一足先に逝くよ。雲の向こうでまた会おう。
……。
「なんでなんだよ!」
手の中で便箋がくしゃくしゃになる。
鳥は立てども後を濁さずっていうんじゃないのか。
少年は立ち上がり、走り出した。
展望の丘の階段を無視して、斜面をよじ登るようにして上を目指した。
登りきり、振り返れば大きな池を一望できる。
だが少年はそれを見て、なんて狭いんだと思った。
見上げる空、頼りなさげにひとつだけ浮かぶ白い雲。
反対に空は、広すぎるのだ。
少年は叫ぶ。何を叫んだかは自分でも分からない。
勝手に関わって勝手に逝った大人への怒りを空へとぶつけ、それから急に、何かに向かって激しく謝りたい気持ちになった。
地面に額をこすりつけ、もう一度空を見上げる。
鳥だ。鳥が飛んでいる。あの鳥はなんだろう。
空はまぶしく、濡れた瞳が鳥の姿をめちゃめちゃにかき乱している。
とめどなく流れる涙と怒りが頬をすべり落ちるのを感じながら、少年は識る。
おれはきっと、鳥になるのだろう。
***
おわり
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