28.男三人
潔は病院ではなく自宅で過ごし、訪問医療を受けている。
彼の性分だから自分のために病床をひとつ占有するのをよしとしないし、いまさら知らぬ人と同じ屋根の下になる施設も使わない。
かといって、空木家の財政状況からして専門の緩和ケア病棟には手が出ない。槇原くるみの使っていた特別室ほどではないが、そんなことをすれば家を売ったカネも羽が生えて飛んでいってしまうだろう。
もっとも、カネがあったとしても潔は自宅でのんびりと家財道具の整理をするほうを選んだだろうが。
「よく来た白山くん。本当はこちらから挨拶に伺うべきだったんだがな」
今日の潔は体調もよく、コーヒーと茶菓子をみずから仕度していた。
「いえいえ、こちらももっと早くにお伺いすべきだったんですが」
大人の男たちが頭を下げ合うのを、つばさは冷めた目で見ていた。
「で、いつから知り合いだったの?」
大人たちは顔を見合わせ、白山が苦笑いをした。
「四月ごろだ。おまえが公園にかようようになってから、俺もちょくちょく散歩に行くようにしていたんだ。そこで偶然知り合った」
「本当に偶然? 四月って、もうけっこう前だよ」
どうして黙ってたのか。問おうとすると、白山が「おれが座りこんで鳥を待ってたら声を掛けられたんだよ」と遮る。
それは撮影者的にはされたくないことだろう。つばさは潔を睨んだ。
「公園を一周しても彼がうずくまったままに見えたから、調子が悪いんだと勘違いしたんだ。そしたら、茂みの向こうの池のカモを見ているというじゃないか」
「ケガをしたマガモのことを憶えてるか? 翼の折れたメスと、テグスの絡んだオスだ。マガモたちは北へ渡ってしまったけど、渡れなかった個体は人の干渉しづらい池の茂みのほうに隠れてる可能性があると思ってさ。メスは飛べなかったけど、誰かが捕まえて安定した池のほうに移した線も考えられたから、意地汚く見てたんだ。それで、ちょっと立ち話をしたら、お孫さんもよく公園で野鳥観察をしてるっていうじゃないか。名前をうかがったら空木なんて珍しい苗字だし、つばさのおじいちゃんだってすぐに分かったんだよ」
なるほど、それなら納得がいく。
「ということは、もともと知り合いだったわけじゃないんだね?」
「そうだな。だが、俺と白山くんが知り合いだったら、何かマズかったのか?」
つばさは黙りこんだ。何がマズい、というよりは気に入らないだけだ。
問い詰めてやろうとは思っていたが、彼らが具体的に何か罪を犯したわけじゃない。
「それはたぶん、おれが彼にいろいろ相談されていたからだと思います」
代わりに切り出した白山もばつが悪そうだ。
「潔さんの身体のことや、家庭の事情なんかも聞かされてましたから」
「そうか、それはずいぶんと世話になっていたようだな。つばさもそこまでお世話になってるというのなら、ちゃんと紹介すべきだったろうに」
なぜ自分に矛先が向くのか。
つばさは何か言い返してやりたい気分になった。
「いやでも。おれなんか、半分くらい不審者ですからね。平日や午前中にカメラを持って公園をうろうろしてるんで。仕事柄、その時間帯が都合がいいってだけなんですけど。紹介されたら、おれのほうが居心地が悪いというか……」
「それは偏見というものでしょう。じっさい立派で、つばさによくしてくださったんだし。お仕事は何をなさってるんですかね?」
今度は白山が黙りこんだ。
そういえば、つばさは彼がなんの仕事をしているのか訊ねたことがない。
「話したくなければ無理にとは」
「あ、いえ。いちおう看護士をしてます。といっても、まともに勤務していたのは昔の話で、今はフリーターで、病院は準夜勤の非正規雇用で勤めてるんですが……」
白山はつばさと潔を一度づつ軽く見ると、コーヒーカップを傾けた。
つばさは彼の働き方がどうだろうと蔑んだりはしない。
だが、看護士ということは、医療方面の知識と経験があったということになる。
だったら、潔の治療拒否についてもう少し深く突っ込んでアドバイスをくれてもよかったんじゃないか、そう思わずにはいられなかった。
「隠してたわけじゃ……いや、隠してたんだ。おれの意見や知識が、きみの潔さんに対する姿勢に影響を与えたくなかったから」
影響を与えて何が悪いのか。
現実を知っている現職の人間からの意見なら、自分は納得したに違いない。
あるいは、彼が味方をすればもっと早く説得を……。
「おまえの考えていることは分かるぞ、つばさ。だが、白山さんに責任を負わすようなことじゃないし、俺だってそれなりに調べた上で意見を持っていたんだから、専門的な理屈で攻められたらかえって依怙地になっていた可能性もあった。いや、そうだったろうな」
潔もコーヒーをすすり、茶菓子をひとつ口に運ぶ。
いつか公園で会った、彼の仕事関係の知り合いがくれたクッキーだ。
「もしも洋が生きていて意見をしたら、絶対に治療なんて受けなかった」
潔は口元を笑わせながら言った。
つばさは訊ねる。「お父さんとは仲が悪かったの?」
「いいや、仲のいい親子だったと思うぞ。だが、大事な場面になるとどうしても相手の言うことに反対したくなるというかな。よくモメたもんだ」
目を閉じ、思い出を反芻する潔。
「あいつが高校受験をしないなんて言ったときも、近場の大学なのに独り暮らしをすると言ったときも、恵さんと結婚したときも、この家を建てるときも……」
彼はおもむろに話を切り、白山を見た。
「白山さん、あなた、年齢はおいくつで?」
「三十八です」
「そうですか。亡くした息子と同じ歳だ。つばさが懐くわけです」
つばさは「別にそんなんじゃ……」と言いかけてやめる。
そうだろうか。分からない。
なにせ、父親は洋ひとりだけだし、とっくの昔に死んでしまっているのだから。
「おれは子供もいなければ未婚ですし、好き勝手に生きてますから。半端者です。人の親なんてたまじゃないですよ」
「なに、他人だからこそしてやれるということもあるでしょう。なんにしろ、いい出会いだったと思いますな。倒れる前だったら、呑みにでも誘ったんですがな……」
潔はちらりと、玄関のあるほうを見た。
義娘の恵にお小言を言われるようなことをするときにやる、彼の癖だった。
恵は今日もパートタイマーの仕事に出ている。
恵は潔の身体のことについて積極的に意見を言わないで来たが、家を売り払うことが決まってからは、逃げるように通り過ぎることはなくなっていた。
じつのところ、つばさの知らないあいだに一度、潔と恵のあいだで病気や老後、家を手放す相談もあったらしい。
少年はもちろん、これも気に入らない。大人ってやつはつくづく勝手だ。
「お酒はダメだよ、おじいちゃん」
「最近はこいつもうるさくなりましてね。いろいろと生意気になったもんです」
「なんだよ、いろいろって」
「口が達者になったという話だ。おまえ、この前、優生思想なんて持ち出したじゃないか。ちょっと昔に旧優生保護法なんてのが、大問題になったんだぞ」
そうだ。そのことを言ってやろうと思っていた。
人類で優劣をつけ、優れたものを生かし殖やし、劣ったものを淘汰する思想。
ツバメより強いカラスに肩入れしたのが?
落ちた雛は誰かの餌になると言ったのが?
人は人に過ぎない。鳥になれはしないのだ。
「調べたけど、ぼくはそれとは違うよ。ぼくは野生での生き物のありかたの話をしただけだから。どっちかというと、おじいちゃんのことでしょ?」
「バカな。俺がそんな……」
「だってそうだろ。いのちだなんだっていって、ぼくらのために治療受けないなんて言ってたんだから。老い先短い自分はさっさと死んで、ぼくらのくらしが圧迫されないようにって。だいたい、ぼくはそれに反対してたんだろ。それに、そんな考えを持ってたなら、鴫野のこともくるみさんのことも助けようなんて思わなかった」
祖父をにらみ、どうだと胸を張るつばさ。
自分はオオタカに憧れ親身になったが、翼の折れたマガモを探し回りもした。
遊ぶカラスも、カラスの雛どものいたずらも、親鳥の過剰な破壊活動も平等に愛おしいし、レンズを向けたい。
「だ、だが、おまえたちの人生がよくなることと俺が無闇に苦しむことの交換だぞ?」
まだ抵抗するか。つばさはやれやれとため息をつく。
「おじいちゃん、もともと家を手放してお金に余裕を作る気だったでしょ。ずっと前から考えてた。ぼくやお母さんに相談するよりも前から。違う?」
ぴたりと潔が固まった。
白山がコーヒーをすすり、「クッキーいただきますね」と言った。
「……すまん。俺の負けだ。返す言葉もない」
潔はあぐらに両手をつき、いまだ豊かな白髪を下げた。
「切り出せなかったんだ。おまえや恵さんがこの家についてどう考えているか分からなくて」
「聞けばよかったんだ」
「その通りだ。だが、勇気がなかった。……いや、それだけじゃない。聞かないことで、俺も美代子との思い出にしがみつきたかったんだ」
潔は顎を撫でると、勢いよく膝を叩いた。
「くそっ、そうだ。やっぱり負けだ。俺はきっと、あのままくたばりたくなかったんだろう」
「死にたくないって、がん、治すの?」
「あ、いや。あくまで、あのときの心情の話だ。今はもう、準備はできている」
潔は今度は頭を掻き、これ見よがしにため息をついた。
彼の張っていた意地と共に、白髪が落ちるのが見えた。
「負けたついでに、もうひとつ謝っておく。あの男が訪ねてきたとき、おまえを信じきれなくてすまん」
「ううん、いいんだ。大元はぼくの不注意から始まったことだから。おじいちゃんにはちゃんと、話してなかったよね」
つばさはぎょろ目の男との遭遇……もとい、白山かえるとの出逢いを語った。
ぎょろ目に底意地の悪い魂胆があったとはいえ、油断していたのは確かだ。
やはり白山はこのことを潔に話していなかったらしく、潔はまたも平身低頭で、白山へと礼を言った。
「ぐうぜん居合わせただけですよ。あいつに意地悪をしてやりたくてね」
「白山さんはそれだけじゃないって言ってましたよね。若いぼくに肩入れしてるって。ぼくの味方だって。意地悪をしたいだけなら、あとのことも面倒見ることなかったじゃないですか」
こちらはこちらでばつの悪そうな顔になった。
ふたりが知り合っていたのを黙っていたことへの、ちょっとした仕返しだ。
「まったく、かなわないな」
「本当に生意気になって」
言うもふたりは微笑んでいる。
自分に感服しているようだが、つばさは満足できない。
本当は、ふたりにお礼を言いたかったのだ。
けれどもそれは、まだ中学三年生の少年には難しかった。
「なんにせよ、ありがとうございます」
潔は大人だ。白山に頭を下げる。
「これからも、贔屓にしてやってください」
白山は大人だろうか。
自称半端者の彼は、困ったように笑うばかりだった。
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