27.巣立ちの季節
「ただいま」
つばさは誰もいないのを知っていて、普段よりも大きな声であいさつをした。
声がよく響く気がする。
潔が倒れてから一ヶ月、空木家はずいぶんと殺風景になっていた。
潔の発症した膵炎の手術は成功していたが、その原因であるがんの浸食は潔が考えていた以上に進んでいたことが発覚した。
医者から提案された治療方針の中に「緩和ケア」が挙げられるほどに重度だった。
緩和ケアは、潔が意地となって決めていた無治療とは違うが、がんを完治させる方向ではなく、苦痛を和らげることを主眼に置いた治療で、余生のクオリティオブライフ、つまり生活の質を維持するのが目的だ。
潔はつばさと恵と相談したうえで、緩和ケアをおこなうという選択をした。
彼はがんらい頑丈で、七十なかばのがん患者にしては体力のあるほうだとみられている。ひと昔前なら、延命や完治を「勧められた」だろう。
だが、積極的な治療をおこなわないとはいえ、先が長くなる可能性もある。
当初から無治療の理由付けのひとつであった金銭的問題が、いよいよ明瞭な姿となって空木家の前に現れることとなったのだった。
「家をな、手放そうと思うんだ」
切り出したのは病床の上の潔だった。
つばさたちの暮らす家は、潔と洋が費用を折半して建てた家だ。
半分は潔に権利があるし、洋はもう故人となって久しい。
「もともと、俺のわがままで家を残したようなところも大きかったからな。どうかな、恵さん、つばさ」
潔と恵にとっては今は亡き配偶者との思い出の場所、つばさにとっては生家だ。ふたりが事故死したあとも家を手放すという話は一度も上がらなかった。
だが、三人だけとなった空木家では、二階建ての家は空間的に広く、金銭的に重いものだったのも事実だ。土地も箱も所有しているとはいえ、維持費や税金もかかる。そして潔の入院を機に、さらに広くなってしまう。
「もう少しヤバかったら、俺が死んだあとに売ってくれと頼んだんだがな。最期は我が家で~なんて言ってな。だがもう、そんなこだわりも消えたんだ。俺たちも、巣立つときが来たのかもしれない」
いまわのことを口にした潔の表情には、一抹の寂しさも見受けられなかった。
このとき、つばさは気づいた。
祖父はかなり前からこうするつもりだったんじゃないのか、と。
潔の意見に、つばさも恵も反対しなかった。
整理整頓や手続きを済ませたら、つばさの高校進学を待たず、この夏に転居をしてしまう予定だ。
つばさは進路をすでに決めている。もともと通学に負担の少ない範囲から偏差値の高い公立高校を選んで受験するつもりだった。本命はそのあとの国立大学。国立は簡単ではないとはいえ、無理に有名進学校を経由する必要はないと踏んでいる。
それに、彼にはもうやりたいことが薄っすらと見えつつあった。本当に大切なことは大学の知名度や難易度ではなく、希望する未来に繋がる学部があるかどうかだと理解している。
オオタカの一件以降、つばさは一度も県営公園に行かなかった。
遺されたオスのオオタカがどうしたのか気にかからなかったといえば嘘だが、人間の関わるべき範疇ではないと割り切ろうとしたからだ。
野鳥観察も通りがかりに目で追うくらいだった。なんとなく、カメラからも遠ざかっていた。
自宅が手放されるということになったから、家のあちこちや処分される品を撮影したが、あくまで記録という形でシャッターを切った。
忙しかったのもあるが、初夏の自然というのは緑がみずみずしく茂り、探鳥の難易度が跳ね上がってしまっていたせいもある。寄ってくる虫なども多い。
それらを乗り越えてでもオオタカの営巣の張りこみをしていたはずの情熱は、自分でも驚くほどに冷めていた。
冷めてはいたが、鳥や自然に対しての興味を失ったわけではない。趣味の撮影や観察を飛び越えて、いつか関連した職に就きたいという確かな希望は前よりも強く育っていた。
それでも、駅前のツバメがどうしているのかは知っている。
観察を続けていた鴫野とくるみが話題にしたり、思わず口出ししたくなるような不出来な写真を見せてくるからだ。
駅前のツバメたちは、なんどかハシボソガラスと抗争を繰り広げたものの、幾つかの巣から雛が巣立ち、一組に至っては二回目の育雛、つまりは二番仔の育成も始めている。
途中、カラスが手出しをしてこなくなったのは最初につばさがにらんだ通り、カラスも付近で育雛していたからだったようだ。そちらも三羽の口の中の赤いいたずら坊主たちが巣立ち、近隣のゴミ捨て場が一斉にガードを固めたと聞かされた。
ツバメの一番仔の巣立ち雛が飛行練習をしていた時期には、女子ふたりに引っぱられてその様子を見に行かされた。
まだまだくちばしの黄色い巣立ち雛たちはよろよろとぶれながら、たくさんの羽ばたきを継ぎ足しながら空を舞っていた。
つばさはその姿を見て、羨ましいと思った。
生まれてひと月かそこらで空を飛ぶ力を得て、もうしばらく経てばツバメ本来の、指揮者の振る指揮棒のような見事な飛翔をこなせるようになるのだ。
少年は思う。早く大人になりたい。
そうして思い出した。潔と白山のあいだに見えた、雨のような薄い糸のことを。
ふたりともつばさを主役のように置きながら、けっきょくは子供扱いをしていたのだろう。
潔の容態の安定を待つうちに我が家の売却の話が上がってしまったし、白山も警察や公園管理関係者とのことで忙しそうにしていたから、つばさは彼らを問い詰める機会を見失っていた。
遅い梅雨入りが慌ただしく雨を降らせたかと思うと、もう六月もすえだった。
今度はこちらが期末試験で忙しくなってしまうだろう。
なんとか白山を潔の見舞いに引きずり出し、機会を作り出そう。
それに、潔の口にしていた「優生思想」に関しての反論もある。
『まったく、あの嘘つきオヤジのせいで、すっかり警察と顔見知りだよ』
つばさとトラブルになったぎょろ目の男は、警察の聴取を受けることになったが、けっきょく空木家とのことは不問になった。
じっさい「具体的な要求」は彼の口から発せられる前だったし、住人が扉を開けて三和土に招かれていたというだけで、証拠も何も無かった。空木家にはこれ以上のごたごたをかかえる余裕はなかったのも大きい。
つばさも暴力行為については警察から絞られはしたが、白山が何か口添えをしていたのか、警察関係者からも家庭環境や潔の心配をしてもらい、経歴に傷のつくような流れにはならなかった。
男に自宅を知られてしまった不安はあるが、それも近いうちに転居によって解消されるだろう。
白山がおもに煩わされていたのは、公園での男の犯罪行為についてだ。
フェンスの損壊は証拠付きで器物損壊で立件され、それからオオタカの巣への危害を加えたのもやはり彼らしく、ほのめかす供述をしているという。
最初こそは全面否定で、「あのガキがやった、カメラも故意に壊されたのだ」との一点張りだったが、白山の提出した証拠と、新たに出た公園利用者の供述により主張は脆くも崩れ去っていた。
男が立ち入り禁止であるオオタカの営巣地に出入りをしていたを目撃していた利用者は複数人いた。こちらもどうやら写真まで残っているという。
お手製のトリモチをつけた棒をオオタカの巣へと伸ばし、メスを巣から落とした卑劣な姿が、だ。
恐らくは動物愛護管理法でも裁かれることになるだろう。
県営公園ということで、県の職員と管理委託をされた団体とを絡めたやりとりになり、これが白山の頭を悩ませていた。
さらには公園運営とは関係のない、野鳥やら動物愛護やらの団体も出張ってきて(どうやら証言者のうちの一人が所属していたらしい)、三度も四度も同じ話や連絡をする羽目になっているらしい。
『でも、最終的にはその団体さんのほうに全部任せられそうだから、それでケリが着くかな』
『お疲れ様です。落ち着いたら、おじいちゃんのお見舞いに来てもらっていいですか?』
『潔さんの見舞いか。すっかり遅くなってしまったな。すぐに行くよ』
あっさりとした承諾につばさは少し拍子抜けをした。
そして白山は、こう付け加えた。
『見舞いのときにはきみも同席してくれ。ずっと黙っていたことを、話さないといけないから』
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