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26.祈り

 無念と混乱に囚われた少年のこころを置き去りに、事態は慌ただしく進んでいく。

 つばさは駆けつけた救急車に乗ったものの、処置を受ける潔を呆然と見るばかりだった。

 潔は意識があり、倒れたときよりは幾分か穏やかな表情で、救急隊員の質問に頷いていた。

 その間、彼はずっと孫息子の顔を見ていたが、何を思っているのかは推し量れない。

 もう一名、同乗したのは鴫野磯子だった。

 これは恵が入院準備のために空木家に残ったのと、白山かえるが行くように指示したからだ。

 間一髪のところで駆けつけた少女は、救急車が走っているあいだじゅう、少年の手をずっと握っていてくれた。


 病院に到着して待合の椅子に落ち着くと、つばさの頭にいくつかの疑問が浮かんできた。

 ひとつは鴫野がうちにやってきた理由だ。


「最初はね、この前に叩いちゃったことを謝りたくて公園に行ったの。そしたら、白山さんがいて、あの変なおじさんがつばさくんのことを尾行してるっていうから……」


 白山はオオタカの件で外せず、鴫野にぎょろ目の二重追跡を依頼した。

 彼が何かしでかしたときに証拠を押さえる役目だ。

 もちろん、危険を感じたらすぐに逃げるようにと釘は刺してあった。


「あの人が何かよくないことをするのは想像がついたし、つばさくんの家の前までつけていってうろうろしてたから、しばらく様子を見てたの。それでおじさんが訪ねていって、わたしもドアのところまで行って聞き耳を立ててたってわけ。白山さんが警察の人を連れてくる予定だったから、万が一に危ないことになっても中には入るなって言われてたんだけど……」


 鴫野は「わたしが言うのもヘンだけど……」と前置きをし、隣に座るつばさの顔を見つめた。


「つばさくんには暴力振るって欲しくなかったから、つい」


 つばさは目をそらす。

 あの時のことを思い返すと、羞恥心が沸き上がってくる。

 それから、はたと気づく。


「ごめん。ぼく、きみのことを叩いたと思うんだけど」


 鴫野はいま思い出したふうに「あっ」と言い、背中を触る仕草を見せた。


「おあいこだよ。この前、叩いたし」

「おあいこどころじゃない。ぼくは叩かれて当然だったし、きみに止められなかったら、何をしていたか分からなかった。下手をしたら、警察に捕まっていたかもしれない」


 あんな感覚に取りこまれたのは生まれて初めてだった。

 あれが「我を失う」ということなのだろう。

 ただ押し倒して殴るだけでは終わらなかったに違いない。

 あのまま放っておけばきっと、これまでの人生で感じた不条理のすべてをあいつにぶつけてしまったのではないか。

 そう、父や祖母の死や、潔に迫る死期のことなんかもすべて。

 あの時、頭のどこかで「誰か」が自分をけしかけていたような気がする。

 その「誰か」のせいにするのは言い訳だと思うが、それは自分の一部だとは信じられず、だが、自身に巣くう異物というよりは、もともとの地面にぽっかりと開いた深い深い穴のようなものだと感じた。


「そうならなくて、よかった」

 鴫野は頬をほころばせ、吐息をゆっくりと吐いた。

 まるで、スリラー映画をまるまる一本見終わったあとのような、安心した顔だ。

「でもやっぱり、おあいこ。つばさくんは、わたしのことを何度も助けてくれたからね」


 並びのいい歯を見せて笑う少女。

 祖父の治療を待っているというのに、つばさはそれに吸いこまれそうになる。

 吸いこまれそうになるといっても、自身のうちに感じた黒い穴ではなく、まるで、天高く抜ける青空のような爽やかなものだった。


「あっ、でも……」


 鴫野は再び背面に手をやると、ちょっと顔をゆがめてみせた。


「叩かれたところ、痣になってるかも!」

「えっ!」

「どうしよう、ちょっと見てくれない!?」


 鴫野が背中を向け、つばさはどうしたものかと両手を宙に泳がせる。

 服をめくればいいのか? めくってもらうのを待つのか?

 少年が戸惑っていると、少女は背中を丸めて笑い出した。


「冗談だよ。怪我はしてないよ。あんまり触ったりしないでね」


 なんだからかっていたのか。

 安堵すると同時に、少し腹が立つ。っていうか、あんまりってなんだ?


 取り乱すつばさをよそに、鴫野は座り直して、「おじいさん、ひどくないといいね」と呟いた。

 それは無理な相談だろう。だが、そうであって欲しいとつばさも思う。

 今の潔の状況は分からないが、搬送中も救急隊員に従順で、治療を拒否するようなそぶりは見せなかった。


「空木潔さんのご家族のかたですか?」


 看護師がやってきて、ふたりのあいだに緊張が走った。

 看護師の白衣を死神のまっくろな衣装に錯覚したほどだった。

 だが、看護師が持ってきたのは死の宣告ではなく、緊急手術をおこなうことについてだった。


 つばさの手が握られる。鴫野の手は氷のように冷たくなっている。

 つばさは彼女の手にさらに手を重ね「大丈夫だよ」と返す。

 強がりではない。

 今のつばさのこころを満たしていたのは不安や心配ではなく、安堵感だった。

 看護師に手術の承認を求められたり、そのために保護者の所在を訊ねられたりはしなかったからだ。

 つまりは、潔には意識があり、みずから手術を受け入れたということになる。

 彼は、眼前に迫っているであろう死を遠ざようとしているのだ。


 少年は肩の力を抜き、院内を見回し、こころの中で祈った。

 これほどまでにまっすぐに祈りを捧げられたのも、生まれて初めてだ。

 この祈りは潔の無事を祈るためだけのものではなく、病と闘う者や死から逃れようとするすべての者のためでもあり、これからやってくる死を受け入れようとする者にも向けられていた。


 祈り終えるとようやく、もうひとつの疑問を思い出し、少年はそれを胸の内で弄びはじめた。


 白山かえるは駆けつけたとき、倒れた潔に向かって「潔さん!」と言っていた。

 そして、潔もまた「白山くんか」と口にしている。

 冷静さを欠いていたが聞き間違えるはずはない。

 つばさは公園で知り合った撮影仲間について家族に多少話したことはあったが、ふたりを会わせたことはないし、具体的に名前などを出したこともなかった。


 ――ちぇっ。


 鴫野がいなければ本当に舌打ちをしていただろう。

 大人たちは、自分の知らないところで何やらこそこそとやっていたらしい。

 少年はおいおい問い詰めてやろうと、空木家のために警察の相手をしているであろう男や、手術を受けているがん患者に対して手厳しいことを考えたのであった。


***

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