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25.鷺を烏

 男のまなこを見て、つばさはあるものを思い出した。

 魚だ。池のほとりに打ち上げられていた死んだ魚。

 その目玉をカラスがつついて、ほじくり出して食べていたのを見たことがある。


「おまえ、オオタカの巣にいたずらをしただろう。国内希少野生動植物種って知ってるか? あんなことをされると、また絶滅危惧種に逆戻りだ」


 ぎょろ目の男がタブレットを掲げた。

 つばさが林の中でトリモチに掛かったオオタカをかかえている写真が映し出されている。


「違う! これは誰かがいたずらして……」

「だからおまえがやったよな? って言ってるんだ。年明けだって、俺のカメラをいたずらで倒したのを見逃してやったじゃないか」


 目玉が飛び出さんばかりに睨む男。

 いつぞやのつばさの不注意で招いた件だろうが、今度は完全な誤解だ。


「カメラってどういうこと?」

 背後で恵が不安げに訊ねる。潔も「説明しなさい」と言う。


「この子が私の撮影中のカメラを倒したんです。私がトイレに行っていた隙に」


 いかにも困りましたという顔で、けれどもそっと毛並みを撫でるような声で。


「違う! 確かにぼくが倒したけど、あれはわざとじゃない!」

「修理費用、いくらかかったか分かってるのか?」

「百万円だなんて馬鹿げたことを言って、脅したじゃないか!」

「また嘘をつくのか。百万はしないが、買ったばかりのレンズだったんだぞ」

「レンズには傷は入ってなかったって言った!」

「目視で分からなくても、現像した画像を拡大したら分かる。ボディの傷はいつついたのか分からなかったが、掃除したばかりなのに砂も入ってたんだ」

「う、嘘だ。だったらどうして今日まで言わなかったんだよ。公園でもなんども見かけたのに」


 ぎょろ目の男は、まぶたを閉じるとため息をついた。

 それからつばさの背後のほうに視線を移し、「お母さんがた」と落ち着き払った口調で言う。


「彼はまだ子供です。私もそれは分かっとります。カメラやレンズを傷つけられたのにもこころが痛みますが、もっと心配なことがあるのです」


 歯が浮くほどに丁寧な口調。つばさの神経がざわざわと騒ぎ始める。


「公園内を平日の朝っぱらからうろつく男性がおりましてね。三十か四十くらいの、挙動不審な男です。私もつけ回されて盗撮されたことがあるんですよ」

「それは」


 撮られるような悪事を……つばさは言いかけるも、ぎょろ目は畳みかけるように続ける。


「男は女子学生が部活動のトレーニングをしているのにもカメラを向けるんです。そんな不審者とこの子はよく親しげにしているようでして」


 つばさは地面が傾いていく気がした。あの人はそんなことをしない。

 恵が「本当なの、つばさ?」と、うわずった声で訊いている。

 男は繰り返す。「私はね、この子を心配しているんですよ」

 まばたきをした大振りな目玉は潤んでいるようにも見えた。



 ――誰が不審者だ。



 ぎょろ目の背後に、見知った男性の姿が現れる。

 つばさはそんな妄想(・・)をした。

 現実にあるのは、見慣れた道路と向かいの家の玄関だけだ。


「きみとたまに来ていた同級生の女の子がいただろう? あの子がトイレに入ったときも、あいつはあとをつけていたんだよ」


 男は顔を近づけ、かげらせた目玉でつばさの顔を舐めまわすように見た。

 つばさはポケットに手をやろうとした。

 だが、すかさず腕をつかまれる。強い力だ。


「きみのためを考えて言ってるんだよ。悪い仲間とつるむのは、やめなさい」


 つばさは強引に、腕を振り払うようにしてスマホを引きずり出す。

 白山からメッセージが来ている。

 オオタカの件を公園の管理委託業者に連絡したらしい。

 長文で、これまでの証拠がどうとか、警察がどうとか書いてあるが、つばさは視点が定まらない。

 なぜか鴫野の名前も文字列に見つけたが、意味が頭に入ってこなかった。

 ただ、事務的な書き方と忙しそうな雰囲気が、腹に靴を沈める蹴りのごとくに少年を強烈に突き放し、孤独にした。


「人と話をしている時にスマホを触っちゃダメだぞ。ねえ、おじいさん?」


 潔は「あ、ああ。そうですね」と呻くように言った。顔面蒼白だ。

 つばさは悟る。祖父は自分ではなく、この卑劣な男の方を信じているんだと。


「おじいちゃん、信じて! ぼくは……」

「だ、黙りなさいつばさ。おまえはさっき、あんな偉そうな理屈を垂れておきながらこんな……。鴫野さんにも、本当は謝る気が……」

「違う!」



 ……ぐらり。実際にこう音が聞こえてくるようだった。



 潔の瞳孔がすぼまり、宙一点に釘づけになったまま震え、脇腹に手を当てた姿勢のまま身体が傾いた。

 彼自身が掃除をした、手入れの行き届いた廊下のフローリングをすべり、横倒しになる。


 大きな音を立てて倒れた潔は身体を折り、呻いていた。


「おじいちゃん!」「お義父さん!」


 額に脂汗を浮かべ、しわの数を十倍にもして歯を剥きだして苦しんでいる。

 恵の「救急車!」と叫ぶ声がする。


 つばさは、彼は。


 少年は三和土(たたき)に立つ男をきっと睨み、獣のような絶叫を上げてつかみかかった。


「お、おい、何をするんだ! やめろ!」


 男は突き飛ばそうとするが、少年は強くつかんで離さない。

 みずから砕いてしまいそうなくらいに、こぶしは固く固く握られている。


 間違いなのだ。何もかも。

 こいつが、この男が悪い。

 マナーも品性も順法意識もなく、卑劣でずる賢く、執念深く、(さぎ)(からす)(うそぶ)く、この男が悪いのだ。


 ――どうしてぼくがこんな目に。ぼくは間違っちゃいないのに!


「ぎゃっ!」


 汚らしい悲鳴とべたんと叩きつける音が玄関に響く。

 つばさは驚いた。背丈は自分が勝っているとはいえ、太った中年の男を、こんなに容易く押し倒せてしまえるなんて。


 ――そうだ、強いのだ。俺は強い。強いことは、正しいことだ。


 女子たちより道理が分かっているし、白山さんよりいい写真を撮った。

 おじいちゃんは俺の話を聞かず、勘違いをしたのだ。


 おのれの肩甲骨が持ち上がり、二の腕が張り詰めるのを感じた。


 ――そうだ、やってしまえ。あいつが悪い。


 強い若鳥が親鳥を追い払ってしまうように。タカが獲物を狩るように。

 見なくても分かる。考えなくても分かる。

 そうだ、あのトリモチの件だって、この男の仕業に違いない。

 今しがた祖父が倒れたのだって、こいつが与えたストレスが影響しているのだ。



 ――悪は、罰しなければならない。




「つばさくん!」




 振り下ろした鉄槌は、確かに何かを叩いた。

 どん、と太鼓を叩くような音がして、続いて「けほっ」と咳きこむ声が耳元で聞こえた。


「どうしたの!? なんでおじいさんが倒れてるの!? おばさん、救急車!」


 どうしたのはこっちのセリフだ。

 なんで、鴫野の声がする?

 声だけじゃない。彼女の顔が見えたかと思うと、胸の中に重みが飛びこんできていた。


「殴ったらダメだよ。この人って、前に言ってたマナーの悪い人でしょ? わたしたちのことを、よく見てた人」

「そ、そうだ」

 つばさは喘ぐように肯定する。

 少女はつばさから離れ、いまだへたりこんだままの男へと向き直った。


「警察呼びますよ。白山さんも、もうすぐここに来ます」


 男は目玉をあちらこちらに動かし、金魚のように口を動かした。

 だが何もことばは発せられず、這うようにして立ち上がり、なんども転びそうになりながらつばさの縄張りから逃れようとした。


家鴨(あひる)の火事見舞いってことばがぴったりだな」


 小太りの男の前に、立ちふさがる者がひとり。いや、三人。

 白山かえると、制服姿の警官が二名。


「ま、這いつくばる姿はカエルみたいだが。おっと、カエルだからって帰ろうったってか? そうはいかない。警察のかたがあんたに御用だそうだ……」


 得意げな顔をしていた白山の表情が凍りついた。


「潔さん!」

「お、おお、白山くんか。いろいろと格好の悪いところを……」


 顔を上げた潔が咳きこむ。激しく咳きこむ。

 咳きこんだ弾みでさらに痛みに襲われたか、彼は再び床で丸くなる。 

 恵と鴫野が潔の背を抱き、白山と警官の片割れが駆け寄った。


 つばさは混乱する頭を必死に整理しようとする。

 こぶしはいまだに固く閉じられたままで、祖父はうずくまっていて、親しい仲間と怨敵が同時に自宅の玄関にいる。

 救急車のサイレンが遠くから聞こえる。


 ――なんなんだ。なんなんだよ、これ。


 わけが分からなかった。

 少年は天に向かって叫び出したい衝動と、地面へと潜りこんで何かに謝りたい気持ちで、身体がばらばらに引き裂かれそうになっていた。


 力いっぱい目を閉じて、眉間にしわを刻む。


 怒りを感じる。情けなさを感じる。

 ああ、悔しい。そうだ、俺はまた、とても悔しいのだ。


***

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