23.営巣
望遠いっぱい。スクリーンはほとんど煌めく緑で埋め尽くされている。
クヌギ、カシ、ケヤキなどが茂る雑木林、アカマツの枝葉の中で何かが動く。
「来たっ……!」
飛び出したのは、比較してやや色の薄く身体の大きなほう、つまりはメス。
抱卵の交代だ。つばさは動画撮影を止めると立ち上がり、こっそりと斜面をよじ登って辺りを見回し、誰もいないことを確認すると道に戻った。
つばさは、この時間帯ならばターゲットは小さな菖蒲池のそばの林に張りこむだろうと推測している。
飛び立つ姿にカメラを構えたいのをぐっとこらえ、進路を見極める。
大池をまたいで予想通りの方角へ行くようだ。
ほとんど全力疾走で菖蒲池のある地区まで急ぐ。ジョギングする利用者をうしろへと流し、徐行する競技用自転車をも追い抜き、若い足で駆けていく。
目的のエリアまでは空を行けば直線数百メートルの距離だが、池や進入禁止区域をまたぐため、人間にとっては千メートル以上にもなる。
到着する頃には息も絶え絶えだ。体育の授業でもここまで全力でやったことはないかもしれない。ほかの撮影者は見当たらない。チャンスだ。
冬場は水が抜かれている菖蒲池には、泥とも水溜まりともつかない水場がある。目を凝らせばアオジが水を求めて遊んでいる最中だったが、カメラは構えない。
つばさは小鳥たちを逃がさないように池の手前で迂回し、エリア内を監視しやすい位置にある木の下に立った。
――静かだ。
アオジが「ちっちっ」と、かすかな声で鳴いている以外は、何も聞こえない。
いつもならシジュウカラがさまざまなことばを交わし飛び回っていたり、コゲラが木を叩く音が響いていたり、餌づけ人を見つけてヤマガラが「にーにー」と仲間を集める声が聞こえているはずなのだが。
――警戒して隠れてる?
林の上部を目でなぞるが、何も見つけられない。
もっとも、その程度で発見されてしまうのなら空の狩人は務まらないだろう。
次はカメラの望遠を使って探ってみよう。
……つと、頭上の「ひっ、ひっ」と息を吐くような声に気づいた。
ジョウビタキの縄張りアピールとも違う、苦しげな声だ。
「!」
思わず息を呑む。手を伸ばせば届く枝に、一羽の小鳥がとまっていた。
特徴的な「黒のネクタイ」、シジュウカラだ。
本来なら、この距離まで詰めれることはない。
シジュウカラは心臓の鼓動に合わせるように全身を大きくびくつかせていた。
そのまま心臓まひで死んでも不思議ではない、明らかに異常な緊張状態だ。
こちらにまで緊張が伝播するような、何者かににらまれているような……。
思考ではなく直感だった。
つばさはアオジの群れに向かってカメラを構え、とっさにマニュアルフォーカスに切り替え、勘でつまみの操作をした。
彼女が狙うは小鳥のアオジか? 違う。
濡れて倒れてしまった草のそばに、丸みを帯びたシルエットがあった。
キジバトが水を飲んでいる。
それにピントが合った瞬間、少年はシャッターを押しこんだ。
刻むような連射音に合わせて、世界が切り取られる。
一見ただの湿ったくさはらにしか見えないそこに、ぼやけた鳥影が割りこむ。
刹那、被写体と目があった気がした。
羽毛が飛び散り、電気が駆け抜けるような感覚を全身に浴びる。
シャッター音が途切れ、モニターにメモリ不足を知らせるテロップが表示される。
一秒か、それ以下か、あるいは十秒以上経っていたかもしれない。
その間に捕食者が獲物を喰らっていたのか、あるいは運び去ったのか。
どちらにせよ、少年が顔を上げたときには、捕食者の姿は影も形もなかった。
緊張が解け、おそるおそる撮影記録を振り返る。
「……よし!」
地面にいるキジバトを踏みつけた瞬間だった。
これが少年の憧れた鳥。空の覇者オオタカだ。
コンデジの小ぶりなスクリーンでもはっきりと分かる出来栄え。
普段はわざわざ使うことのない写真の保護設定をして、つばさは大きく息をついた。
ぽたり、スクリーンに水滴が落ちる。まだ涼しいのに全身に汗を掻いていた。
こころも驚くほどの充足感と疲労感に満たされている。
ふと、あのシジュウカラはどうしているだろうと上を見上げると、鳥は呼吸こそはマシになっていたが、まだ銅像のように微動だにしないでいた。
『撮れたーーー!』
帰ってすぐにデータを取り出し、いの一番に白山へと送信する。
今か今かと返事を待つが、冷静になって考えれば公園でも見かけなかったし、今日は仕事に出ているのだろう。
つばさは出鼻をくじかれる思いで、興奮しきったメッセージを見つめた。
ちょっとテンションを上げ過ぎか? いや、それだけのものが撮れたんだ。
鴫野磯子と真原くるみにも送信する。
返事は早かったが、『すごいね』と、じつに凄さの分かってない賞賛を貰った。
普段は写真を送らない友人男子に見せるも、『すげー』だの『かっけえ』だのと似たようなコメントを貰う。
ううむ、不完全燃焼だ。学生連中は鳥の話になると「友達がカラスに襲われた話」をしたがるのはなんなんだ。襲われる可能性はあるだろうが、営巣に関わる内容でなければ、向こうが怖がる側だというのに。
昼頃になってようやく、白山からコメントが来た。
最初は『見事だ』のひと言だったが、充足感がまるで違う。
彼は今朝は寝ていて出勤前に返信したらしく、帰ってから詳しく聞かせてくれとせがまれ、つばさは頬に落ちるような痛みを感じ、ほくそ笑んだ。
これが完全な自力発見でないことだけが心残りだった。
オオタカの営巣場所を知ったのは、ほんの偶然だった。
だが、意固地なつばさでも受け入れられるだけの成り行きがあったのだ。
潔が珍しく「散歩に行く」と宣言して県営公園に足を向けた日があった。
つばさもせっかくだからと同行した。
昼下がりであまり鳥も出ていないだろうと思ったが、カメラはもちろん携帯し、渡りのための栄養を蓄えるツグミやシロハラがミミズをつつく姿を撮った。
潔は年の功か、公園にいた鳥の名前をほとんど言い当てた。
ヤマガラが昔、芸を仕込まれて見世物小屋や祭りのおみくじなんかにいたことや、メジロもつい最近(といっても潔の感覚でだが)までは飼えたことなんかを話してくれた。
最近は動物愛護週間や愛鳥週間の前後なんかに、違法な飼育販売者が逮捕されるニュースがよく見られる。
ふたりで順法精神やマナーについて語り、多少大きな声で釣り糸の批判をしていたとき、釣り人の一人がこちらを振り向いた。
反論か苦情が来るかと身構えたが、彼は潔の姿を見止めると、「空木さん!」と笑顔で声を掛けてきた。
どうやら仕事回りでの知り合いだったらしく、ふたりは親しげに話していた。
潔は知人に生徒会長で成績もよいことを話し、知人もまたつばさを褒めて、すっかりと赤面させた。
釣りをする彼は定年後は週に何日もこの公園にかよう常連で、いつも定点としている位置から見える林に、最近オオタカが出入りしている箇所があるのを教えてくれたのだった。
そのときはあまり興味がないふうに相づちをしていたが、後日、釣り人の話を元にねぐらの位置を確かめてやろうとすると、みごと巣を見つけたのだ。
観察ポイントは絶妙だった。
歩道からは外れているが進入禁止区域ではない。
急な下り斜面になっていて通行人に見られることもない。
もっと幸運なことに、同業者は誰もこの場所を発見していないようだった。
そして、毎日学校に間に合うぎりぎりの時間まで粘り、休日は四、五時間張りこんで今回の成果を得たのだった。
『重ねていうが、本当に見事だ。粘り続けた忍耐力もだが、勘と反射神経がさすが若者だ。おれみたいなおっさんじゃ、どんなに運が向いても撮れないよ』
べた褒めだ。つばさはベッドの上で身体をよじって頭を掻いた。
謙遜して『そんなことないですよ』とスマホをタップするも、にやけてしまう。
『ここまで情熱を注げるのも才能だからな。おじさんはツバメの飛翔シーンすらまともに撮れたことないぞ』
つばさはオオタカの写真を見返して、愛おしい気持ちになる。
それでも、この撮影は百点満点ではない。
SNSで拡散されるような猛禽の狩りのシーンは、真正面から捉えたものが多い。この写真は横寄りの角度からの撮影だ。
状況の把握はしやすいが、迫力では遥かに負けている。
シャッターを切り始めるのがあとほんの一秒か二秒遅ければ、とどめを刺す瞬間や持ち去る瞬間も捉えられたかもしれない。
ハトをつかんだままの状態のオオタカならもっと追えて、食事のシーンにもレンズを向けられたかもしれない。
しかし、つばさは満足していた。どんなに見事なプロの写真よりも、自分で撮ったという事実が重要なのだ。
つばさは狩りの瞬間を激写してからも、タカの観察を続けた。
カメラは双眼鏡代わりにとどめ、シャッターはあまり切らなかった。
観察を続けるうちに、タカの夫婦に愛着が沸いたのだ。
巣作りが済んだということは、ちかぢか産卵し、雛が孵るだろう。
少年は巣立ちまで静かに見届けようと、決心したのだった。
オオタカの巣から離れたぶん、ツバメの巣のチェックに回ることにした。
白山は駅前が賑やかになるといっていたし、つばさの住まいからもそう遠くないから、試しにそこを当たってみることにした。
すると、ツバメだけでなく「意外な鳥」に出会ったのである。
「つばさくん! 見てよこれ!」
駆け寄って来たのはふたりの女子。
その片割れ、イソヒヨだのイソシギだのの少女がスマホを突き出した。
映っていたのは、カラスがツバメの巣に取りついてかじっている姿だ。
「酷くない!? これ!」
鴫野は柳眉を逆立て、その横でくるみが「うん、うん」と、口をとがらせてうなずいている。
カラスは額の傾斜とくちばしの鋭さから、ハシボソガラスと同定できた。
背中まで泥にまみれての必死の破壊活動だ。
「ここだけじゃないの。あっちの駅の入り口も、向うのバス停の屋根にくっついてたのもやられてる!」
「雛や卵は?」
「たぶんまだだけど……。でも酷いよ!」
「五つ巣を見つけたんだけど、四つも壊されてたの。可哀想……」
くるみのほうは眼鏡の下が潤んでる。
だが、抱卵や育雛のタイミングでなかったのは幸運だ。
カラスは同様の行動を繰り返しやすい。
卵や雛を手軽に食える餌として認識してしまえば、もっと酷いことになる。
巣づくりの段階なら、ツバメ側が学んで場所を変えれば被害も小さいだろう。
それにしても、カラスは見ていて飽きない。
つばさは是非とも自分も襲撃の現場にレンズを向けてみたいと思った。
「つばさくん! 写真撮りたかったとか思ってるんでしょ!」
お見通しである。
「そ、そんなことないけど。ツバメももうちょっと見つかりにくいところに作ったらよかったのにね。それに、カラスはカラスで近所で営巣してるだろうから、縄張り内のツバメの存在にイラついて……」
「カラスの肩を持つの!?」
詰め寄られた。
「また壊されたり、雛が食べられちゃうかもしれないのに!」
「私、雛が巣から落ちちゃってるのを見たことあるよ。助けたかったけど、近くにいた人に人間のにおいがつくから触るなって言われて……」
「ほとんどの鳥はにおいに頼らないし、むしろ人間のにおいがついたら野生の捕食者は逆に避けるかも。落ちた雛を見つけたら、人や車に踏まれにくくて、親鳥の見つけやすい位置に移動してあげれば……」
迂闊である。くるみは当時はそうしなかったのだろう。目に溜めた涙をこぼして拭った。
「ちょっとつばさくん!」
鴫野がケリのごとく喚く。
「だ、大丈夫だよ。雛が全部巣立てるとも限らないし、餌不足で親鳥が育てられないと判断して、自分で捨てることもあるし。それに、自然の摂理なら落ちた雛もほかの生き物の餌に……」
つばさは頬に衝撃を受けた。
そばを歩いていた通行人が首を縮めて逃げるように去る。
道路の反対側では駅前のスーパーを利用していた主婦が注目し、連れていた子供がこちらを指差した。
「サイテー」
少年の頬を張った少女はそう言うと、友人の手を引いて去っていった。
どこかでカラスが鳴いている。
つばさがじんわりと痛む頬を押さえて見上げると、ツバメの群れにスズメまでが加わり、カラスを追いかけていた。
シャッターを切ろうとカメラを向けるもいっしゅん躊躇し、その隙にモビングの一団は線路を越えて建物の影に消えてしまったのだった。
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