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19.渡り

 つばさはなるべくゆっくりしたふうを装ってモーニングを平らげると、鴫野の母親が置いた千円札二枚に重ねて五百円玉を置いて「ごちそうさまでした」と言った。


「あら、代金は遠慮しなくていいのに」

「そういうわけにはいきません。おいしかったです」


 店主が「うちも困るんだけど……」という表情をした。

 つばさは手作りらしいボール紙の募金箱を指差して「どうしてもというのなら、あれに入れてください」と言い、喫茶店をあとにする。

 募金箱には『子ども食堂 あったかごはんの輪』と書かれていた。


 店を出て駅前に戻ると、鴫野の姿はなかった。

 つばさがスマホで『喫茶店を出たよ』と告げると、『ごめん、知り合いが通ったら困るから、場所を変えたの』と返事が来る。

 だが妙なことに、どこへ行ったか訊ねても教えてくれなかった。

 その代わりに、『お店の角を曲がって』だの、『その信号を渡って』だのと、ナビのようにルートを指示し始めた。

 瓦葺の屋根の並ぶ住宅街に入り、車一台がぎりぎり通れる私道を、つばさはひとり進む。

 昔ながらの日本家屋群の中には、ちらほらと真新しいストレート屋根の住宅も混じっている。

 道を歩く人はほとんどいない。一度だけ自転車に乗った女性とすれ違った。

 鴫野の『まっすぐ、まだまっすぐだよ』に従い続けるうちに、生臭いような香り――ああ、違う。これは潮の香りだ――が、つん、と鼻を衝いた。


 住宅地を抜けた向こうは、灰色のコンクリートと白い空の二色になっている。

 防波堤は道からは一メートルくらいの段差になっていて、そこに少女が背中を向けて腰かけていた。


「鴫野」

「ん……」


 少女は短く返事をすると立ち上がり、堤防の上をわざと足を振り上げるようにして、ゆっくりと歩き始めた。

 つばさも堤防によじ登り、彼女のあとに続く。


 ざざーん、ざざーん。


 波がテトラポットに打ちつけられ、すきまを落ちていく音だ。

 鳥を探して踏み入った県営公園の常緑の森。

 あれが強風にあおられるよりももっと重く、寒い音だと、つばさは思う。


 鴫野が立ち止まる。つばさを振り返らない。

 背中を曲げたかと思うと、『砂浜と港はもうちょっと先』とメッセージが来た。


 これが真夏の青空なら、ふたりは清涼飲料水のCMみたいだったろう。

 だが、雲の天井はまばらに光の谷を挟み、濁った海は波頭を立て、風は細雪(ささめゆき)をいだいている。

 ずっと続くテトラポッドの敷き詰められた景色は、どこか墓場めいている。

 コートの少女に追いつくこともなく、離れることもなく少年は進む。

 少しゆくと、砂浜が現れた。

 鴫野はちょうど風が強く吹いたタイミングで「砂浜!」と声をあげる。


 砂浜は人っ子ひとりおらず、寂しさだけが波打ち際で遊んでいる。

 それでも、浜に打ち寄せる波の音は、さっきよりも優しい。

 さっきが重い森なら、こちらは竹林で葉がこすれ合う音に近いと、つばさは感じた。


 海に向かって伸びる防波堤の先には小さな灯台があり、防波堤の向こうには白い小型船たちが並ぶ港が見えた。

 鴫野はそこでまた足を止めると、今度は腰かけた。

 つばさは何も言わずに隣に座る。

 やっと見れた横顔では、せっかく張り切ってしてきた化粧にきらきらと海味の筋ができてしまっていた。


「話し合い、ダメだった」

「みたいだね。店主さんもお母さんの知り合いだったみたいだね」

「そうなの? わたし、やっぱりあの人のこと何も知らないや」


 鴫野は投げ捨てるように言うと、曇り空を眺めて「あーあ」と呟く。

 つばさはなんて声を掛けてやればいいのか、分からない。

 でも、分かろうと分かるまいと、ただ隣で話を聞こうと思う。


「あの人ね。スナック、っていうの? 夜の喫茶店みたいなお店を出してるんだって。そこを手伝ってくれって。わたしの話なんて聞かないで、そんなこと言ったの。あっ、夜のお店っていっても、ヘンなことはしないお店だよ?」


 つばさを覗きこむようにして念を押す鴫野。

 つばさは目線を合わせ、「うん」と言い、それからも目を見続ける。

 鴫野は「あんまり見ないで」と言って姿勢を戻した。


「あの人の今付き合ってる人が、お店を出すためのお金を補助してくれたんだって。ケンお兄ちゃんと同じ漁師で、魚を獲って来てくれるから、おいしい料理が出せるんだって。料理なんて、うちではほとんどしなかったくせにね」


 つばさは自分の家族を思い浮かべて、感謝をする。

 小学校時代はずっとうちに居てくれた恵は家事を欠かさなかったし、潔も大黒柱として働き、なんどかヘタクソで凝った料理を振る舞ってもくれた。

 最近の潔はパン食ながら朝食の仕度をやっているし、トーストだけでなく、簡単なサラダや卵料理なんかがつくこともある。


「わたしがケンお兄ちゃんに懐いてたからって、その漁師の人の子供になるべきよっていうの。誘いじゃないの。なるべきって、おかしいでしょう? お父さんだって別に死んだわけじゃないし、ケンお兄ちゃんと仲がよかったのも、小学校の頃までだったし。酷くない?」

「酷いね」

「でしょ? だから、やっぱりお母さんとはもういいんだって思ってすっきりした」

「じゃあ、無駄足じゃなかったね」

「だよね。わたしもそう思う。ほんとはちゃんと話をして、最後に一枚でも写真が撮りたかったんだけど、そーいうのももう、残さないほうがいいと思う」


 鴫野は「あんなの、サイテー」と、白い息とともに吐きだした。


「でも、いい人だったけどさよならってなるより、悩まないで済むからよかったかも。お陰でかえって諦めがついた。これでもう、こっちの町とはお別れ。つばさくんと同じ、そっちのひと(・・・・・・)になったね」


 横顔の目線が下がっていく。水平線を割り、波の打ち寄せる浜辺を見る。


「……諦めがついた。ついたはずなのに、なんでだろう。いろいろと思い出してきちゃうの」


 目線はやがて砂浜からも外れ、膝の上でバッグをにぎりしめた手元へと落ちる。

 空の雲は薄くなりつつあったが、バッグに水滴がぽたり。

 つばさは尻をずって詰め、鴫野の肩に手を置いた。

 少女は肩を突っ張って拒絶するようなそぶりを見せたが、ぶるりと震えると、小さく声をあげながら泣きはじめた。

 寒さに震える小鳥のように、健気に居場所を示す雛鳥のように。


 少年と少女はしばらく寄り添っていた。

 たまに風が運ぶ雪や雨にも構わず、こっちでもそっちでもない、どこか遠くの海の向こうを見つめながら。


 鳥の声が聞こえる。手招きを繰り返すような、カモメの声だ。


 少年が口にする。鳥になりたい。翼があれば、ずっと向こうまで飛んでいけるのに。

 少女は言った。もしも翼があったら、どこに行きたい?

 少年は答える。ずっと未来。早く大人になりたい。

 少女は笑った。それは場所じゃないよ。そしてうなずく。だけど、わたしもそう。

 少年は思う。時を超えるという回答がありなのなら、未来ではなく過去を選ぶ選択もあったのかもしれない。

 あっちに行くことができるのから、こっちに戻ることだって許されるのかもしれない。

 行きっぱなしではなく、季節を告げる渡り鳥のように、時を旅することができれば、どんなにいいだろうか。


 父に会いたい。つばさは気づく。もうお父さんの顔が思い出せない。

 だが気に病むことはない。

 うちに帰れば写真もあるし、思い出をかかえたひとたちもいるのだから。


「カモメの写真、撮らなくていいの?」

「焦らなくてもいいよ。渡りにはまだ時間があるから」


 小さな声で、「うん」と聞こえる。


「ねえ、つばさくん。渡り鳥って、海の上を休まずに飛ぶの?」

「種類によるかな。海の上でぷかぷか浮いて休むのもいるけど、休まずに飛ぶのもいる。南極と北極を移動する鳥もいれば、ヒマラヤを越えるツルもいるんだって」

「すごいね。鳥の身体ってどうなってるんだろ」

「人間とはかなり仕組みが違うらしいよ。でも、そこまでしなきゃダメなのかなって、ちょっと思うな」

「だよね。あ、そうだ。船で休む鳥もいるよね?」

「小休憩をすることはあるみたいだけど。餌もろくにないし、確実じゃないから当てにはしないと思うよ」

「漁師のおじいちゃん、お母さんのお父さんに聞いた話なんだけど、昔、津軽海峡にキビタキ船長って呼ばれた漁師さんがいたんだって」

「キビタキ船長?」


 昭和の中頃に、大きな被害をもたらした台風があった。

 その台風は沖縄側から九州に上陸して西日本を攻撃するお約束のルートを辿ったあと、日本海側に抜け、北海道に再上陸しようとしていた。

 のちに洞爺丸台風と呼ばれた台風で、名の由来となった連絡船、洞爺丸が遭難し、一一三九名が死亡する大惨事が起きている。


 津軽海峡では、イカ釣りに出ていた船たちが海が荒れ始めたのをきっかけに港へ引き返そうとしていた。

 このときにちょうど、北海道で繁殖していたキビタキたちも海を南下していた。

 海は時化(しけ)っていて、海の男たちにとっても危険な状態だった。

 そんな中、ある船長が、まっくらで荒れた海の音とエンジン音のあいまに、聞き覚えのある小鳥の声を聞いた。


 キビタキだ。数千羽ものキビタキの大群が、めちゃめちゃに船の周囲を飛んでいる。船にとまったものは波が来るたびにさらわれ、数を減らしていた。

 一刻も早く港に戻る必要があったが、船長は迷わなかった。

 集魚灯をともしたのだ。集魚灯をともせば、船の出力が落ちてしまう。

 だが、灯りを見つけたキビタキたちは、波を避けて船にとまることができた。

 船はキビタキを乗せたまま、下北半島へと帰る。

 キビタキたちは陸地を発見すると、物凄い羽音を立てて、次々と飛び立っていく。船長は最後の一羽が見えなくなるまで見送り、以来、彼はキビタキ船長と呼ばれるようになったという。


「今でも函館の漁船は灯りをつけたままにして、渡り鳥たちを手伝ってるっておはなし」

「初めて聞いた。そんな話があるんだ」

「実話なんだって。北海道のほうだからずっと遠いところだけど、漁師さんたちのあいだでは有名らしいよ」


 鳥のほうは、利用できるものを利用しただけに過ぎないかもしれない。

 それでも、なんだかいいなと、つばさは思う。


「ねえ、つばさくん」


 鴫野が立ち上がった。


「わたしたちも、船長になれるかな」

「キビタキ船長に?」

「うん。今度、ふたりで真原さんのお見舞いに行かない? あの子は今……ううん、きっと、ずっと大変だったんだと思う」


 つばさは、ぽかんとしてしまう。


「えっと、それは構わないけど。お母さんのことは、もういいの?」

「え、いいよ。言ったでしょ? 諦めがついたって。それより、写真撮りに行こうよ。案内もしたいし。わたし、なんにも食べてないから、お昼はちょっといいもの食べたい」


 まくし立てるように言って、つばさの前に手を差し出す鴫野。


「ほら、行こう、船長!」


 つばさは彼女の手を握るも、あまり体重をかけないように立ちあがる。

 それから、「行こう」と返事をした。


「お昼ご飯、何にしようかなー。この町は海産物が美味しいの」

「うちの近所だとスーパーのやつしかないもんなあ」

「あ、知ってる? 海産物って痛風によくないらしいよ」

「じゃあ、ご飯は海鮮丼とかにして、写真を白山さんに送ろう。彼が何をしたんだって話だけど」

「ふふふ。身体に悪いことして心配させた罰だよ」


 笑いあい、さっきよりもずっとずっと速いペースで、堤防の上を渡りはじめる。

 近づく漁港。ぷかぷかと浮かぶ船。港の堤防にはびっしりと並ぶカモメ。

 あの港の建物の屋根の上にいる大きいのは、トビだろうか。


 少年と少女は、どちらからともなく、彼方(かなた)を見上げた。

 雲は途切れ、太陽が青く海を照らしはじめていた。


***

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