18.雉の草隠れ
日曜日はあいにくの曇りだった。
予定が立った時点では快晴の予報だったがずれこんでしまい、今にも泣き出しそうな空がつばさと鴫野の頭上に鎮座していた。
ふたりは、必要な会話しかしなかった。
朝の挨拶と折り傘の有無の確認、それから切符の話。
七人掛けの座席の端に並んで座り、電車が走り出す。
駅を越えるたびに窓の外の山は次第に離れてゆき、電車も高架を走りだし、遠く山とふもとに広がる町の景色が始まった。
主要駅が近づくにつれて座席が埋まりだすと、鴫野は席の間隔を詰めた。
彼女はバスで密着したときのようにつばさを茶化したりはしなかったが、身体が触れあったときにため息をついた。
休日を満喫しようとする家族連れや、日曜日もスーツに身を包んだサラリーマンなどの会話で車内は満たされている。
鴫野がスマホを取り出して操作をすると、つばさのスマホが短く震動した。
『不安』
『何が?』
『ぜんぶ』
『大丈夫だよ。ぼくがついてるから』
メッセージのやり取りなら、そういうことも言える。
『一応ね』と注ぎ足すと、鴫野が隣で吹き出し、肘で突っついてきた。
『今日はとにかく、お母さんのとのことだけを考えたらいいよ』
『そだね。お母さんの話ってなんだろ……』
鴫野の母親の話。
近況を聞きたがるのだろうか。これまでの不仲について詫びるのだろうか。
ひょっとしたら、父親のほうではなく自分のほうに来ないかという話かもしれない。
もしそんな話が出たら、鴫野はどうするのだろうか。
まさか、いまさら母親のほうについて行くなんてことはしないだろうが。
つばさは、もし父の洋と会えたら、何を聞きたがるだろうかと考える。
思い出はきっと鴫野の母親よりは少ないだろうが、仲はよかったはずだ。
最近どうしてる? 母さんは元気か?
潔や恵がそうだったのだ、鴫野とはどういう関係かと、からかうに違いない。
父は今抱えている問題や悩みの相談には乗ってくれるだろうか。
公園でぎょろ目のカメラを倒したら、味方をしてくれただろうか。
死なずにいてくれたとしたら、今の自分にはどんな人物に映っただろうか。
『鴫野のお母さんってどんな人?』
『んー。自分勝手な人。ずっと浮気してて、お父さんもわたしも気づいてたんだけど、お父さんが新しいプロジェクトを受けて転勤することになって、それをきっかけに離婚したの。わたしもお母さんには愛想が尽きてたっていうのもあるけど、お母さんのほうはあっちが地元の人で親戚とか多いから、残るのはちょっと気まずくってね』
『なるほど』
『あの人に見つかるとなんか言われると思うから、喫茶店では隠れててね』
『了解』
猛禽から逃れる小鳥のごとくに潜むと誓う。
これは鴫野と家族の問題だ。
『お母さん以外はけっこういい人たちだったんだけどね。従兄のケンお兄ちゃんとか、よく船に乗せてくれたりしたよ』
鴫野はスマホを少し操作すると、「そうだった」と呟いた。
『写真見せようかと思ったけど、無いんだった』
つばさは返信をしないでおく。
スマホの紛失を掘り下げると、真原のことを話題にせざるを得ない。
病室のベッドにいるだろう彼女のことも、放っておくことはしないつもりだが、今日は許して欲しいと思う。
『ケンお兄ちゃんと撮った写真、けっこーたくさんあったんだけどね。いっしょに魚釣ったやつとか、小さいころに抱っこして貰った写真とか』
視線を感じる。つばさが隣を見ると、鴫野は、さっとスマホに視線を落とした。
『時間が余ったら、わたしの暮らした町をちょっと案内したいな』
『その時はぜひ』
車窓にはときおり水滴が流れた。
電車が主要駅に到着すると、乗客は一斉に降り始める。
つばさたちが目指す駅もまだ先だが、ここでいったん乗り換えだ。
古くからあるターミナル駅だけあって、駅は広く増改築で入り組んでいる。
蕎麦屋のだしのにおいやドーナッツやの甘い香りが漂ってきたり、直通のデパートのアナウンスが聞こえてきたりもして、胃袋を刺激する。
つばさたちはそれらを尻目に階段をのぼり、すぐにやってきた電車に乗り、おしくらまんじゅうに巻きこまれた。
つばさはリュックを腹側に抱きながらカメラを守りつつ、連れ合いのそばに不審な男がいないか目を光らせた。
さいわい、何も悪いことは起こらなかった。
再度乗り換え、鴫野の暮らしていた町へと向かう電車に乗りこむ。
列車は七両編成から四両編成に変わったが、車内は空席ばかりだ。
初めは都会の町並みや工業地帯を走っていたが、景色は次第に田舎町と冬の田んぼ、そしてときどき遠くに見える海へと変わった。
鴫野もこの辺りまで来ると、いろいろと思い出すのか、地元での出来事や学校での思い出なんかをぽつりぽつりと語り始めた。
乗客がいないから、つばさも気兼ねなく声を出して相づちや質問ができた。
天気は悪化し、またも窓を濡らしていたが、ふたりはそのことに触れない。
見える海も青くはなく、灰色に濁っている。
「ねえ、やっぱり帰っちゃ、ダメかな」
話の途中だったのに、鴫野は唐突に切り出した。
「ダメだと思う」
つばさは悩まずに答えた。
「ここで帰ったらきっと後悔するよ。ちゃんと会って、なんでもはっきり言っておいたほうがいい。お母さんとのことから逃げれても、すぐに真原さんのことでも、きっと話さなきゃいけないことがでてくると思うよ。ぼくも、もっと早くおじいちゃんと話し合いをしてればよかったと思ってる」
「そうだね……。つばさくんの言う通り。あと、白山さんのことも気になるよね」
「彼はただの痛風だっていってたけど」
「そっちじゃなくって、あの女の人の言ってたこと、意味深だったでしょ?」
「あの人って、白山さんと特別な関係にあって、それが終わった相手……とかだよね? だから、そういうことをいっても不思議じゃないんじゃない?」
「元カノっぽかったけど。だからこそって気もするけど」
「まあ、白山さんは平気でしょ。彼と関わって、ぼくらが困ったこともないし」
つばさは白山から送りつけられた「腫れあがった足の甲の写真」を鴫野に見せた。
「うわっ、パンみたいになってる!」
「パンみたいだけにぱんぱんに腫れてるってメッセージ付きだったよ……」
「あはは、その足じゃ歩けないだろーねー。ね、つばさくん。あとで白山さんが羨ましがる写真撮って送ってあげよ」
鴫野は笑っている。
「それと、また鳥になりたいって言ってたよ」
「あの人の口癖だよね。気持ちは分かるけど」
「そういえば、インコなんかも痛風になるんだって」
「へー! じゃあ、白山さん、鳥になってもダメだね!」
ころころと笑う鴫野。
本当に楽しそうだ。これからの不安が一瞬、消えたように思える笑顔。
――大丈夫だ、きっと。
鴫野には自分がついている。自分には白山が。白山にもあの女性がいた。
心配ない。陰ながらついている人が、誰にもきっといるものだ。
真原はどうだろうか。
もしいないのなら、自分たちがついていてやれないだろうか。
正面を見ると、また海の景色が流れていた。遠くに雲の切れ間。
鳥影が見える。何か海鳥の群れだ。
車内にはふたりきりだ。つばさはカメラを取り出して窓の外へレンズを向ける。
少しブレてしまったが、あとで調べれば種類の同定はできそうだ。
「カモメ、撮れた?」
「これはシギチのたぐいかな。小さそうだから、ハマシギとかトウネンとか」
「シギかあ。カモメもたぶんいるよ。あと、港にはトビもいっぱい」
「それは楽しみだね。映えスポットもある?」
「あるある。わたしのことも撮ってね?」
ふたりは目的地に着くまで話し続けた。
お互いに不安を埋めようとするかのように。
埋めるための土を掘りだしては別の不安を掘り当て、また埋め合って。
鴫野の暮らした町の駅は、県の最南端に位置する。
田舎とはいえ、市の中心部にある他県からの接続駅だけあってホームは二面四線で、つばさの家の最寄り駅よりも大型だ。だが、バスやタクシーのターミナルは無いようで、改札を出るとすぐに一車線の道路に出くわした。
近隣には役所や病院、ショッピングセンターなどもあるようだが、道をゆくのはお年寄りが目立つ。駅前のお店も、どこか古めかしい個人店ばかりが並んでいた。
「十分くらい歩いたら海があるよ。でも、ちゃんとしたビーチは隣町のほうにあるから、海水浴に出かけるときは、みんなそっちに行っちゃうんだけど」
さいわい、雨はやんでいた。晴れとは言い難いが、道行く人も傘を持っていない人が大半だ。
「待ち合わせの時間まであと十五分。つばさくんのいった通り、電車一本分の余裕だったね」
駅前のカレー屋のにおいをくぐって角を曲がると、鴫野は足を止めた。
彼女の視線の先には、潔が見ていた昔の特集番組に出てきそうな雰囲気の喫茶店があった。
「お母さん、もう来てるって。どうしよう。奥の席だって」
つばさは鴫野に袖をつかまれる。
「じゃあ、ぼくが先に入って近い席にいとこうか?」
鴫野は頷きだけで返答すると手を離した。
つばさはレトロな看板の下にある丸っこい扉のノブに手をかけて気づいた。
保護者抜きで電車で遠出することも喫茶店に入るのも、生まれて初めてだ。
――何をためらってるんだ。
いまさらそんなことに引っかかっていられない。
意を決して扉を開くと、からんころんとドアベルの音が鳴り、ワンテンポ遅れて女性の声で「いらっしゃいませ」と聞こえた。
店内は暖かで、コーヒーの香ばしいにおいが充満している。内装も外見と同じく年季が入っていて、木目のテーブルやカウンター、観葉植物などがあって、ザ・喫茶店という雰囲気だ。
カウンターの向こうにはエプロン姿の女性が立っている。三十代から四十代あたりだ。店主だろうか。
「待ち合わせ?」と聞かれて首を振ると、「カウンターにどうぞ」とうながされた。
座ってから気づく。先に店内を見回しておくべきだった。
これでは鴫野の母親がどこにいるか分からないじゃないか。
とはいえ、座ってしまったいまさらに席替えなんてできない。
まして、一人客でわざわざカウンターから遠くのテーブル席を要求するのも図々しい。
いやまあ、店内は閑散としているのだが。
メニューを渡されてモーニングセットを注文すると、ドアベルが鳴った。
鴫野はおそるおそるといった感じにノブに手を添えたまま立っていて、店主らしき女性がまた「待ち合わせ?」と訊ねた。
鴫野は黙った。だがほんの一瞬、つばさと視線を合わせると、「はいっ」とはっきりした返事をした。
「待ち合わせのかたは女性? お母さん?」
「そうです」
鴫野が奥へと案内されていく。衝立と観葉植物で遮られた向こう側だ。
カウンターの端のほうからなら様子がうかがえるかもしれないが、重い腰がカウンターチェアから離れてくれない。
店主は戻ってくると、おもむろにテレビをつけて「すぐに作りますね」と言った。
日曜の午前、子供のアニメタイムも終わった時間帯だ、見慣れた俳優が町を訪ねる番組が流れている。
ちょうど、ここではないがこことよく似た町の個人商店でインタビューをしているシーンだった。
耳を澄ませるも、鴫野と母親が何を話しているかは聞こえない。店主がテレビをつけたのも、ひょっとしたら話が聞かれないようにと配慮してのことかもしれない。つばさを疑ってのことではないだろうが、つばさは居心地悪く身体を縮め、呼吸も小さくなった。まるで、狩人から隠れるキジか何かのように。
鴫野と母親の関係は悪かったといっていた。
つばさは自分の母親との関係は「普通」だと思っている。
小さなころは潔が働いて、恵はいつでもつばさと一緒にいられたから、ほかの片親の家庭ほど寂しい思いはしていないだろうとも理解している。
学童保育というシステムは当時から知っていた。家庭環境が「普通ではない」のに学童保育じゃないということに、優越感を感じたことすらあった。
それでも、父がおらず悔しい思いをしたことがなくはない。
社会科の授業では「お父さんの仕事」をテーマに作文を書かされて途方に暮れ、父の代理である祖父のことを書いたら発表のさいに教室の空気の変化を感じ、正体の分からない悔しさに泣かされた。
どうして父は去ってしまったのだろう。交通事故で死んだのだ。分かっている。だが、そういうことじゃない。
つばさが父に会える日が来るのなら、それは死んだあとだろう。
だが鴫野は今、籍を別った母親に会おうとしている。
共に暮らしながらにしてこころの離れていた鴫野にとっての母親は、どういうものなのだろうか。
彼女も最初は、永遠に再会しないと思っていたらしい。
もう会わないなら、死んでいるのと同じということだろうか?
いや、望めば会えるということは、今もどこかで生きているだろうと想えることは、死別してしまったことと遥かな隔たりがあると思う。
ほんの少しだけ、鴫野に対して「ズルいな」という気持ちが沸いた。
「モーニングセット、お待たせしました。お砂糖はそこ、ミルクはこの瓶に入れてるからセルフで調整してね」
こんがりと焼き目のついた厚切りのトーストに、白いカップに入ったブラックコーヒー、レタスにハム、専用の容器に乗せられたゆで卵までついている。
自宅でも食べることのあるメニューだが、いつもと違う場所で知らない人に作ってもらうと特別な感じがする。
それに、これで五百円なら安いんじゃないかと、外食の金額については明るくないなりにお得だと分かったのもつばさの気分をよくした。
――ズルいなんて。それこそぼくがズルいやつだよ。
つばさは苦笑をかみ殺すついでにトーストをかじり、あえてコーヒーをブラックのまま啜って、「鴫野磯子、頑張れ」と祈る。
後悔していることに関して塗り替えられるのは、生きている者の特権だ。
さいわい、つばさには父親に関して後悔していることはない。
だが、鴫野は母親に関して後悔しているといった。
そのままじゃダメだ。
つばさも今、家族のことで後悔しないやり方を考える毎日だ。
鴫野も仮に母親と決別するにしても、いい関係のままであってほしい。
ふいに、背後を誰かが通り過ぎた。
起こった空気の流れで、早足だと分かる。
ドアベル。身を乗り出し外を覗く店主。知ったコートの背中と長い髪。
――鴫野!
彼女を呼んで立ち上がりそうになった。
だが、続いて歩いてきた女性に気づき、慌てて身体を椅子に縛りつける。
――これが鴫野の、お母さん。
つばさの持つ、「母親」という像には遠い姿だった。
濃い目の化粧にまっかなくちびる。髪にはパーマを当て、前の開いたコートの下から胸元の開いた服を覗かせ、近づいただけでコーヒーの香りを蹴散らす強さの香水をまとう。
なんだか昔のドラマに出てきそうな派手な女性だ。
差別的なものの見方だとは承知だが、夜はカラオケつきの飲み屋にいそうで、恵よりももっと「旦那はいないが子供がいる」という記号の似合う容姿だ。
「ちょっとどうしたの裕子!? あんたの子、帰っちゃったじゃない!」
店主が声を上げた。知り合いだったのか。
つばさは敵陣に放りこまれたような気分になる。
「やっぱり、あたしなんかイヤだって。可愛くないヤツ。店、手伝わせようと思ったんだけど」
「そんな魂胆で呼んだの?」
「呼んだんじゃない。あっちが声を掛けてきたのよ。翔抜きで会いたいっていうから、てっきりこっちにつくのかと思った。健太には懐いてたから、大輝とも合うと思うんだけど」
母親は「ほんっとに可愛くないガキ」と、にくにくしげに繰り返した。
それからおもむろにつばさのほうを見ると、薄ら笑いを浮かべる。
「ま、あの歳で男を連れてるとこなんかは、ホントあたしの娘ってカンジだけど」
「ちょっと! その子は別のお客さんでしょ?」
「こんな街で男子中学生が喫茶店に来たりなんかしないのは、あんたが一番分かってるでしょ。あたしらの親世代の不良じゃあるまいし」
つばさはこの女に何か言ってやりたかった。
出て行った鴫野の雰囲気からして、よくない結果になったのは分かる。
だが、自分が何を言ってやりたいのか、胸のところまで出かかっているはずなのに分からなかった。
自分の娘を傷つけるなと言いたかったのか、あんたはサイテーだと言いたかったのか、仲良くしてくれと言いたかったのか。
どれも、違うような気がした。
つばさが黙っていると、女は「あら? 違った?」、なんて眉を曲げた。
「もし違ったならごめんね。これは迷惑料、オア、手間賃よ」
女はテーブルに千円札を二枚置くと、「じゃ。お釣りはあげちゃっていいから」と言って店を出て行ってしまった。
どうする、彼女を追いかけるか? 違う。鴫野を追わないと。
でも、それでは母親の言ったことを肯定するようで悔しい。
自分だけじゃなくって、鴫野のことも貶めている気がしてならない。
店主さんも、つばさの答えを聞く前に、「あの人はうちの知り合いなんです。たいへん失礼いたしました。代金は彼女の置いていったぶんから頂きますので」と平謝りだ。
スマホが震動した。
『駅の前で待ってる。町の案内をするから、食べ終わってから来てね』
つばさは『すぐ行くよ』と返信する。
『すぐには来ないで』
つばさは『わかった』と返し、いまだ困ったような顔をしている店主を見た。
「ぼく、カメラが趣味で、海鳥の写真を撮りに来たんです」
「あら、そうなの? 冬の海は寂しいけど、いい画は撮れるでしょうね」
店主はそういうと力無くほほえみ、テレビのほうを向いて腰かけた。
つばさは食事に戻る。
ほんの少し放っておいただけなのに、コーヒーは冷め、トーストも湿ったようになっていた。
店主はつばさが食べ終えるまで、一度も振り向かなかった。
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