17.絡んだテグス
少年の頭がフル回転し始める。
眼前には散乱した自分宛てのチョコレートの前で立ち尽くす、ナイフを持ったよそのクラスの女子。
真原はなぜここに? 何をしていたのか? いや、状況的にどう見ても……。
鴫野はどう思う? なんて言い訳を? やはりスマホの件も真原や山田が?
「違うの。私じゃない。信じて空木くん」
信じられるはずがない。現行犯じゃないか。
だが、つばさの脳裡には、カメラを倒した自分を助けた白山の顔が浮かぶ。
「大丈夫」
――責めちゃダメだ。
「大丈夫だから、とにかく片付けよう。誰かに見られたらマズいよ」
つばさは鴫野の机の上に放置してあった包装の破られた箱を手に取り、砕けて散らばったチョコレートを回収し始める。
真原は頭上で「違う、違うの、信じて」と繰り返している。
つばさはまんじりともしない上履きとソックスを視界に収めつつ、「大丈夫だから」と彼女の顔を見ずに唱え続け、ほこりまみれになった贈り物を集め続けた。
あらかた片づけ終わった。夏場ではないから溶ける心配はない。小さなカスは掃除の時間に勝手に片づけられるのを待っていればいいだろう。
「よし」
つばさが立ち上がると、いつの間にか教室も薄暗くなっていた。
真原はまだパレットナイフを握りしめたまま立ち尽くしている。
つばさはどう声を掛けたものかと思案するも、完全下校の十分前を知らせるチャイムが学校中に鳴り響いた。
「空木くん、聞いて」
「用務員さんが来るよ。早く出よう。忘れ物はない?」
生徒会で時間ぎりぎりまで残ることの多いつばさは知っている。
用務員はせっかちで、十分前のチャイムが鳴るのと同時に教室棟三階の端にある三年五組のカギを閉める。そして最終下校時間のチャイムが鳴るころには、一階の一年一組まですべてがロックされるのだ。
それだけならまだしも、教室に誰かが残っていたさいに、生徒の氏名や教室にいた目的を聞きだし、教職員に告げ口をするという噂もあった。
「お、お願い、聞いて! 私じゃない! 私じゃないの!」
「いいから、落ち着いて」
「で、でも、つばさくん……」
「いいから!」
真原くるみの眼鏡の向こうは見えないことにする。
真正面から受け止めると、余計な感情に流されてしまいそうだ。
今はただ何も疑わず場を収めて、証拠を消すことに努めよう。
「大丈夫だから。俺は怒らないし、事情があるなら、あとでちゃんと聞くから」
つばさはちょっとカッコつけだなと思いつつ、「ほらっ」と真原の背を叩く。
彼女はまだ何か言いたげだったが、廊下で扉の開閉音が響くのを察知すると、パレットナイフをカバンに放りこんで「ごめんなさい!」と言って教室を出て行った。
鴫野の机の上をもう一度確認する。チョコは落ちていない。
落鳥した小鳥たちを見つめ、そっとふたをする。
まだ終わりじゃない。
真原へのフォローは明日以降にするとして、鴫野への誤魔化しも考えないと。
上手くやれただろうか、残りも上手くやれるだろうか。
つばさは白山に報告したい気持ちを抑え、小走りに教室をあとにした。
階段前で振り返ると、用務員が二年四組の教室から出てきて施錠する姿があった。
翌日、始業前の教室。
つばさは隣の席の橋本大地の恨みごとを聞きながしていた。
橋本は、小学校から何度か同じクラスになったことのある仲のいい友人で、去年は学校でもチョコレートをひとつ貰えたのに、今年は姉と母親からだけだったと嘆いている。ちなみに去年のひとつも女子がばらまいた義理チョコだ。
「チョコ欲しかったなあ~~」
橋本のもとへ「チョコなら買えばいいじゃん」と、女子の笑い混じりのコメントが飛んでくる。
「ぶっちゃけチョコよりも、好意が欲しいんだよ~~」
本格的な爆笑が上がった。
「笑顔は欲しいけど笑われたくはねえよ~~」
橋本は机に突っ伏すほどに両腕を前に伸ばし、前の席のデカい男子の背中にタッチした。
ちょっかいを出された田中は慣れたもので、「俺は本命が一個だ。部活の一年の子からな」なんて反撃をして、橋本は机に額をぶつけた。
「ちくしょ~。田中とは一個差か~っ。だが、つばさは俺の何倍も貰ってやがる」
「そんなことないって」
つばさは肩をすくめる。
「いや、あるだろ。無意味な慰めはやめてくれよ~っ」
「慰めてもないって。ゼロは何倍してもゼロ!」
そう言ってつばさが橋本の肩を叩くと、橋本は机の上でくたばった。
こんな友人だが、「好意が欲しい」と素直に声に出せるところは羨ましいとつばさは思う。
クラスメイトと戯れていると、少し頬を赤くした鴫野がポニーテールを揺らしながら教室に入ってきた。
エナガを模したチョコレートは、かろうじて無事そうな部分を味見して、ちゃんと感想を送っておいてある。
真原と散乱したチョコの件については教えていない。これはいざこざを複雑にしないことと、今の鴫野に負担を掛けたくないという、つばさなりに考えた結果だ。
鴫野は昨晩、母親と会う話を父親と詰めるために、父親の帰宅を待ってかなりの夜更かしをしたという。つばさが登校しようとリュックを背負ったタイミングで『今起きた。お父さんも起こしてくれなかった!』とメッセージが来ていた。
あまりじろじろと鴫野を眺めたりなんかすると、隣の席のやつに何か言われそうだ。
つばさはポニーテールと赤マフラーから視線を外すと、さりげなく山田結愛の席を見た。
山田は仲のいいクラスメイトと、持ち込み禁止の少年漫画雑誌を囲んでおしゃべりの最中だ。彼女の仲間である真原は昨日、やはり鴫野のチョコレートにいたずらを働いたのだろうか。
……こつん、と何か硬いものが床に落ちる音がした。
反射的に音のしたほうを見ると、鴫野が屈んで何かを拾い上げている。
彼女はそれを見つめると眉をひそめ、手のひらの中に隠すように握り、つばさの前まで早足でやってきた。
「ちょっとつばさくん。これ、どういうこと!?」
突き出されたのは欠けたチョコレートのエナガだ。
――しまった!
机の上と席の周囲は見たが、机の中までは確認をしていなかった。
持って帰ったあとも、味見を済ませたら外から見えないようにゴミ箱に納めることばかり考えていて、破片の数が合うか確かめるのを怠っていたのだ。
「え、えっとそれは……」
二の句が継げないでいると、横で橋本が「おふたりはどういう関係!?」と声を上げた。クラス中が注目している。
つばさも鴫野もエナガを挟んだまま何も言わず、お互いの顔を見あったままだ。
つばさはなんとか事情ありと分かってもらおうと、目をしばたいたり泳がせたり、口を半開きにしたり、手を振ったりしてみた。
「……食べ物を粗末にしちゃダメだよ」
鴫野は表情から怒りを消すと怪訝そうな顔をして、小鳥に近づくようにそろりとした動作でつばさの机にエナガを置いた。
なんとなく伝わったらしい。つばさはほっとする。となりで「手作りチョコじゃねーか!」と聞こえたが、それはいい。
「空木くん、鴫野さん」
ふたりのあいだに声が割って入る。橋本じゃない。女子だ。
「あたし、昨日見ちゃったんだけど……」
山田結愛がいた。深刻そうな目をして、口元は引きつったようになっている。
「見たって何を?」
鴫野が問う。
「鴫野さん、昨日の放課後、つばさくんの机にチョコ入れたでしょ?」
山田は聞き取るのが難しいくらいに声を潜め、身を屈めてつばさに視線を合わせた。鴫野もつられて同じよう屈む。
「怒らないでね。たまたま忘れ物を取りに戻ったら見ちゃっただけだから。それで、鴫野さんが帰ってからにしようと思ってまた来たら、ほかのクラスの子が教室に入ってて、勝手に空木くんの席からチョコを取って、中身を……」
山田の解説が進むと、鴫野の視線はつばさのほうに移った。
矢のように突き刺さる「どういうこと?」に、昨日のうちにすべて話しておくべきだったかと、つばさは後悔した。
と、そこにまた新たな声が飛びこんできた。
「おい、つばさ。おまえに用事があるんだってよ」
つばさは席を立ちつつ、声のした教室前方の出入口を見た。
一緒にいた女子ふたりはつばさよりも早く反応し、すでにそちらのほうを向いている。
入り口には、立ち尽くす真原くるみの姿があった。
昨日、エナガのはやにえを持っていたときと同じように、まっさおな顔をして。
「あの子だよ。空木くん」
つばさには山田の声が、笑っているように聞こえた。
訪ねてきたはずの女子生徒は何も言わずに立ち去り、鴫野が「待って!」と追いかける。
山田はしばらくそのまま背を向けていて、彼女もまた何も言わずに席に戻り、まるで何事もなかったかのように仲間たちと漫画の世界へと沈んでいった。
戻ってきた鴫野はつばさを顔を合わせると首を振り、のちのちにつばさが全てを白状することで事情を理解した。
鴫野は怒るどころか気を遣わせたことを謝り、「いくらでも手渡しができたのに」と、机に入れた自分を責めてしまった。
……そして、真原くるみは学校から姿を消し、週末金曜日には臨時の全校集会が開かれ、校長が「いじめについて」や「いのちの大切さ」などの話を、じつにふわふわした感じに説いたのだった。
真原さんって、ジサツしたみたいだよ。
正確な話じゃない。正しくは、自殺しようとした、だ。
それすら本当かどうか分からない。
彼女は生きていて入院しているのだと、教員に訊いたという誰かが言った。
『これって、わたしたちのせい?』
無関係ではないのは確かだ。
少なくとも、自分がいなければ起こらなかったことだとつばさは思う。
『山田さん、ちょっとヘンじゃなかった? わたしがチョコレート入れたところ見たって言ってたけど、なんか納得がいかないというか……』
分かっている。つばさも真原が走り去った時点で、頭の中でパズルのピースがはまる音を聞いている。
だが、それ以上考えてはいけないと誰かに言われた気がして、最後のピースはあえてはめずにいた。
白山を頼りたく思った。彼の警告通り、厄介なことになってしまった。
自分一人のことならともかく、鴫野も巻きこんでしまっている。
そして、真原は自殺未遂か登校拒否の状態に陥ってしまった。
真原が本当にあんなことをする人間なら、自殺という逃げ道を選ぶとは、つばさには思えなかった。
真原くるみは鴫野のチョコをぶちまけていない。やったのは、別の誰かだ。
彼女は「違う、聞いて」と何度も言っていたではないか。
証拠はないが、信じたい。
だが、下手に動けば、鳥の足に絡まったテグスのごとく、どんどんと酷いことになる気がしてならない。
つばさは以前、白山に片翼の折れたメスのマガモを教えられて観察をしたことがあった。
マガモの傷は今も癒えることはなく、まだ川に取り残されたままのはずだ。
あのマガモを観察しているうちに、ほかの負傷個体も発見していた。
アオクビと呼ばれる緑の頭の、オスのほうのマガモだった。
川に流されながらくるくると泳いでいて面白かったから動画を撮ったのを白山に送ると、お返しに足にテグスの絡まった同個体の接近写真を見せられた。
ヘタクソな泳ぎをしていたのは、片足が使えなかったかららしい。
白山の流儀では、「自然の負傷個体は放置だが、ヒトの不始末のテグスは切る」ということだったが、このオスのマガモは翼は健常なため、捕獲が出来ず断念していた。
「今はまだ大丈夫だが、何かのはずみでテグスが締まれば、うっ血して足を腐らせるだろうな」
カモたちは渡りの前につがいの相手を決めるものだが、負傷したカモたちには相手はいなかった。
片翼は見るからにいびつでオスを遠ざけ、片足ではメスを追うことは叶わない。傷のある者同士で慰め合ってくれればと話したこともあったが、自然の掟と本能はヒトの描く都合のいい物語に従ってはくれない。
二羽はやがて、淘汰されるだろう。
だが、真原は野鳥ではない。つばさたちは鳥ではなくヒトなのだ。
真原が間違ったからといって、死を選ぶのはおかしい。
真原は誰かにおとしいれられたのだとしても、排除されるのはおかしい。
同時に、潔の治療拒否への反発も再燃し、訳の分からない叫びのようなものが、けたたましく鳴くケリのごとくに少年のこころを揺さぶったのだった。
白山とのメッセージを映したスマホ画面を前に、何も打てずにくちびるを噛む。助けてくれ。
『すまん。さっき鴫野さんから聞いた。明日、公園で会おう。さすがに放っておける次元の話じゃない。前もって言っておくが、おれは部外者だ。力になれる範囲はごくわずかだ』
ああ、助かった。つばさは思う。やっぱり白山さんは頼りになる。
しかし、そう言ってくれた白山が公園に現れることは、なかった。
その日、土曜の日の出前からつばさは公園をうろつき、手慰みに鳥を観察したが、ろくな写真は撮れなかった。
今日もまた、「トラツグミが出た」と無遠慮なレンズたちが珍客を追い回していたが、それすらもつばさのこころを素通りした。
疲れた顔の鴫野と合流し、待ち合わせ予定の休憩所で大人しくしていても、一向に白山は現れなかった。
ふたりはたまに「遅いね」と言い合い、震えぬスマホを見つめるばかりだ。
もしや、白山にまで何かあったのか。
隣に座る少女もそう言いたげのように思えた。
空は曇天、風は強い。ハトの群れはあおられ、ヒヨドリが騒ぐ。
立春も過ぎて二週間が経つというのに、冬に逆戻りしていっている気がした。
「空木くんに、鴫野さん?」
約束の時間を二時間も過ぎた昼前のことだ。
数日前に教室で同じように名を呼ばれたときのことが蘇り、声の主が死神か何かのように感じ、つばさは背筋を凍えさせた。
三十歳前後だろうか? 見知らぬ女性が立っていた。
公園の中を歩き回るには不都合そうなロングコート姿で、着飾ったふうではないが美人で、化粧をした額には少し汗を浮かべていた。
「白山さんからのお使い。彼は来れなくなりました。今は病院で検査中」
「病院!? 大丈夫なんですか?」
鴫野が訊ねると、女性はうすら笑いをうかべた。
「心配することないからね。あの人、私を救急車代わりに使って、しかもスマホを車の中に忘れてったのよ」
女性が言うには、白山は今朝、「発作」によって動くことができなくなり、彼女を呼びつけて病院に行ったのだという。
「発作って、酷いんですか?」
「死ぬほど痛いらしいよ。ふたりとも聞いたことくらいはあるでしょ? 風が吹くだけで痛いってやつ。痛風。つまりはただの生活習慣病」
痛風ならつばさも聞いたことがあった。
プリン体がどうとか、尿酸がどうとかいう病気だ。
お酒や油もの、海産物なんかを摂り過ぎると発症するらしい。
「ほっとこうと思ったんだけど、前にインコの様子を教えてあげたときに、あなたたちのことを話してたのを思い出してね。運んであげてるときにも約束があったのにって呻いてたから。まだ待ち合わせ場所にいたらマズいと思って、忠告しに来たの」
忠告? つばさは女性の顔をまじまじと見つめる。
彼女はつばさを見て「けっこういい顔ね」と笑う。
「白山かえるとどういう関係か知らないけど、あの人には深入りしないほうがいいよ。私みたいに、深みに引きずりこまれるから。いや、引きこんだのは私か」
「白山さんにはお世話になってるんです。ぼくは以前、助けて貰いました」
「そう。最近はマシみたいだけど、危なっかしいところがあるから……」
女性は「とにかく、忠告はしたからね」と念を押すと背を向け、去っていった。
つばさと鴫野が「どういうこと」と訊いても、風が全部さらってしまいましたといわんばかりに、かたくなに振り返ることもなく。
真原のこと、白山のこと、祖父のこと。
そして隣で青い顔をして震えている、一羽のイソヒヨドリのこと。
いくつもの糸が絡むようだ。もがけばもがくほど、頭を、こころを締めつける。
テグスのように断ち切るハサミは、ありはしない。
できることはひとつひとつ、ほどいていくこと。
つばさは前を向いたまま「とにかく、まずは明日のことを考えよう」と口にする。
うなずく気配と共に、つばさの手の上に、そっと鴫野の手が重ねられる。
お互いに手袋越しで、体温は伝わらない。
それでもふたりは、しばらくそのままでいた。
帰りぎわ、くだんのマガモを見かけた。
白山に見せられた写真では、黒い糸の絡んだ足はまだ鮮やかなピンクだったが、今はもう、曇天と変わらない色になっていた。
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