15.海から来た少女
「えっと、これ……」
つばさは自動販売機で買ったおしるこの熱い缶を、鴫野の顔の横に差し出した。
すぐには受け取ってもらえないだろうなと覚悟をしていたが、彼女は「ありがと、これが好きなの」とすぐに受け取り、「あちち」と両手の中で缶を転がした。
鴫野はおしるこを一口すするとつばさを見上げ、視線で「座らないの?」と促す。
つばさがゆっくりと隣に腰かけると、「さっきはごめんね」と間髪入れず謝られてしまった。
本当に謝るべきなのはこっちのほうなのに。だが、立ち上ってくる砂糖と小豆の甘い香りで気が安らぎ、「ぼくもごめん」と自然に言えた。
「家族写真、勝手に撮っちゃってごめんなさい」
「いや、いいんだ。イラついた八つ当たりみたいなもので、ぼくもごめん。だけど、写真を撮ってくれたことには、本当は感謝してるんだ」
つばさは祖父のがんのことや、家族写真を撮ろうと決めたこと、それがなかなかできていなかったことを話した。
「鴫野と話をしてて、撮ろうと思ったんだ。だから、ありがとう」
「そっか……」
鴫野はごくごくと音を立てておしるこを飲むと、「だったらおあいこだね」と言った。
「おあいこ?」
「そう、だから、わたしもありがとう」
鴫野は微笑む。薄くなったくちびるに粉っぽいおしるこがついている。
「前のスマホにお母さんの写真は入ってないって言ったでしょ? じつはね、あれ、嘘なんだ」
「そっか、やっぱり大事なものだったんだ」
「うーん、ほかの写真はけっこう貴重だったけど、お母さんとの写真は小さいころの画質の悪いやつで、たぶんお父さんは元のデータをまだ持ってると思う。でも、いつまでもうじうじ見てるのってダメだなって」
「そうかな。家族でしょ?」
「家族だった、かな。小さいころはお母さんとのほうが仲がよかったんだけどね。お母さんとお父さんの仲が悪くなりだしてから、わたしがいちどお父さんの味方をしたら、嫌われるようになったの。顔を合わすと喧嘩ばっかり。学校で要るお金とか、書類のサインとか、そーいうのも全部お父さんにしてもらうようになっちゃって、離婚する前からわたしとお母さんはもう、家族じゃなかったの」
つばさは自分用に適当に買った缶コーヒーを開けて口にする。
鼻にはコクのある芳香が抜けたが、苦みが口の中に広がってこびりついた。
「磯子って名前を付けたのもお母さんなんだよ。お母さんのおばあちゃんの名前だって。海女さんだったんだって。わたし、会ったこともなかったし、もっと今っぽい名前つけてくれたらよかったのにって、けっこう怨んだよ。もう、磯も海も遠くになっちゃったしね」
鴫野は物憂げなまなざしを遠くに向けた。
「でも、じっさいにべつべつに暮らすようになってからは、お母さんのことがすっごく気になるようになって。どうしてるのかなとか、ご飯ちゃんと食べてるのかなとか。よく写真を見返してたの。最後に別れたときも、それじゃ、くらいしか挨拶をしなくて。ほんとはもっと、話したい事があった気がするのに……」
この話のどこが「おあいこ」で「ありがとう」なのだろうか。
鴫野はまぶしそうに家族連れを見ている。
ペットコーナーから出てきたらしく、小さな女の子が「うちもイヌ飼いたい」と身体をくねらせて両親にあざとくおねだりをしている。
「お父さんに頼んで、お母さんに会いに行こうと思うの。話をして、いっしょに写真を撮りたい。行こうかどうか、ずっと悩んでたの。でも、スマホを盗られちゃったときに、向うの写真が全部なくなって、まあいいかって。まあいいかって思ったのに、やっぱり気になってて。だけど、さっきのつばさくんを見てたら、わたしすっごく中途半端だなって。ほんとに本気で家族のこと考えてないなって思ったの」
頬に視線を感じる。
つばさが黙ってそのままでいると、「ねえ、こっち見て」と言われた。
しぶしぶ目を合わすと、「踏ん切りがついたの。だから、ね、ありがとう」。
いつもとは違う、少し悲しそうな笑顔。
先ほどの白山の表情が吹雪だとしたら、鴫野は夜の波打ち際だ。
静かだが、何かことばをかけてもさざなみにさらわれてしまう気がした。
つばさは視線を逸らし、白山から預かっていた逃げ口上を口にした。
「そうだ。白山さんが、落ち着いたらお昼をおごってくれるって言ってたよ」
「ほんとに!? やったー!」
効果てきめんだ。夜の海からいっしゅんにして真夏の海水浴場。
鴫野はおしるこを飲み干すと「おしるこもありがとう」と言って立ち上がり、「ほら、早く行こう」と、つばさの上着の肩のところをつまんで引っぱった。
「ちょっと待って、家にメッセージ入れとく。お昼は要らないって」
「わたしは自分で作ってるから平気。お父さん、今日は仕事だし」
「自分で作ってるんだ。偉いね」
「まあね。でも慣れたよ。小学生のころからだし」
肩をすくめる鴫野。きっと、母親と仲が悪くなってからずっとなのだろう。
「けっこう上手なんだよ。今度、食べにくる?」
にっと、歯を見せる鴫野。つばさが口ごもると、「行こっ、白山さん待たせたら悪いよ」と返事も聞かずに行ってしまった。
白山を探してペットコーナーに戻ると、またも彼はインコの前で屈伸運動をしていて、ふたりを笑わせた。
それからフードコートで食事をおごってもらう流れになり、つばさと白山が先に注文を取りに席を立った。つばさは白山が財布を覗いて渋い顔をしたので、さっきのジュース代のお釣りを返した。
「役に立ったか?」
「はい、ありがとうございます」
礼を言いつつ、テーブル席を振り返る。
鴫野は何やら熱心にスマホを操作している。
土曜のフードコートは賑やかだ。ここで話しても彼女には聞こえないだろう。
「つばさくん、さっきは悪かったな」
「いえ、じつは、人からあんなふうに叩かれたのって生まれて初めてで」
つばさは「ちょっと嬉しかったです」と続けようとしたが、白山は「すまんかった」と繰り返し頭を下げた。
またリズムに乗るインコみたいに見えて、つばさは吹き出してしまう。
「気にしないでください。また何かあったら、お願いします」
「お、おう。もう叩いたりはしないけどな……」
ばつの悪そうな男は、漫画のように頬を掻いて応えた。
「鴫野がごく自然にうちの家族写真を撮っちゃったんです。ぼくは山登りにまで出かけてもできなかったのに。鴫野は鴫野で家族と思うところがあったようで、それでああなってしまいました」
「そうか。いいことだと思うぞ」
「面倒だし、普通のほうがいいですよ」
「家族について真剣に悩めるってのは、社会的動物の特権だ。ヒトがヒトたる所以のひとつだよ」
つばさが先に注文を済ませて席に戻ると、鴫野が「困った!」とこちらに向けて両手を突き出してきた。
「何が困ったの?」
「お母さんに会いたいって話をお父さんにしたら、旅費は出すけど俺は行かんぞって。電車乗るだけだし、日帰りで行ける距離だけど、うーっ!」
鴫野は突き出していた腕を引っこめ、頭を抱えた。
「そういえば、お母さんの連絡先は知ってるの?」
「そりゃもちろん、知ってるよ」
「じゃあ、通話とかメッセージでも話せるんじゃ?」
「それじゃなんか違うし、写真も撮れないでしょ」
「確かにそうだ」
「しかもお父さんに、会うって話だけはつけとこうか? って言われたのに、自分で誘うからいいって返信しちゃったの!」
「自業自得では?」
「だよね! まあ、でもー……やるしかないかあ。いつなら空いてるかなあ。次の土日……は、こころの準備があれだし、春休み……は、ちょっと遠すぎて決心が鈍りそうだし……」
頭を抱えるクラスメイトはテーブルに額をぶつけ始めた。
つばさは動じない。校外でこのノリを見るのは初めてだが、花園あたりとからんでるときの鴫野はこんな感じなのだ。
「なんだ? 鴫野さんは、カモの次はインコに転向するのか?」
白山が戻ってきた。
「インコって呼ばれるのはちょっと。ぜったい変な方向にアレンジされる」
「かえるのほうがマシだな。どうせあだ名をつけるなら、下の名前の磯子のほうがいいかもしれないな。じっさい、おれもたまに口にする名前だ」
「えっ、わたしと同じ名前の知り合いがいるんですか?」
白山は「違うんだなー」と、じらすように言う。
なぜか、つばさのほうを見て。
「つばさくん、知ってるの?」
「……イソヒヨドリって鳥がいるんだけど、雌雄で見た目が大きく違うんだ。そういう鳥種は、オスをなになに雄、メスのほうをなになに子って呼ぶことがあるんだ。ジョウビタキならジョビオとジョビコで呼び分けたり、ルリビタキならルリオとルリコ、みたいに。だからイソヒヨドリのメスだと、イソコになる」
鴫野は「ふうん」と含み笑いで頷くと、「写真ある?」と訊いた。
つばさはスマホに保存しておいたイソヒヨドリの写真をタップする。
近所の畑の支柱の上でさえずるベストショット。
自宅の近所に出没する顔見知りのイソヒヨドリで、自室のベランダでさえずっているのを見たこともある身近な個体だ。
「青い鳥だ。オレンジのエプロンしてて、ちょっとホラーだね」
「ホラー?」
意外な返答に、つばさと白山はそろって首をかしげた。
「だってこのエプロンって、怖いゲームや映画の肉屋がしてそうじゃない?」
「確かに……って、なかなかの偏見だな。ところで少年、それはイソコじゃなくてイソオじゃないか?」
白山の指摘通り、今見せたのはイソヒヨドリのオスのほうだ。
つばさはしぶしぶ画面をスワイプしてメスのイソヒヨドリを表示した。
「オスとあんまり似てないっていうか、地味だね。しかも、つばさくんの撮った写真にしては微妙なような?」
鴫野が首を傾げ、白山も画面を覗きこむ。
「メスのほうは目立たないからな。おれも生活圏内でオスの三個体を把握してるが、メスは一羽だけだ。つばさがスマホに保管してる写真は、お気に入りプラス、鳥一種類につき一枚ってとこだろ?」
正解だ。つばさは白山の勘のよさを恨めしく思う。
「じゃあ、撮れたのはそれだけってこと? 見つけたとき、嬉しかった? あっ、イソコだ! って」
得意げな顔をされる。
つばさは「駅前のマンションの植えこみで見つけたから、レンズを向けにくかったんだよ。だから手早く証拠写真だけ撮ったんだ」と、早口で言い訳をする。
事実だが、そのあともまともに撮れないかと出かけたことは口に出すまい。
「さて、長話をしてると飯ができちまう。次はインコさんの番だ。なんでも好きなものを注文していいぞ。デザートにチョコソフトはいかがかな?」
「磯子です! 十個頼みますよ?」
「わはは、勘弁してくれ」
今度は鴫野が白山と席を立った。
会話の内容は聞こえないが、鴫野が店の看板を見上げて何か言ったあと、白山がすかさず端の唐揚げ専門店を指差した。
ペットショップでインコを見て鳥の話をしたあとに唐揚げもどうかと思うが、つばさも唐揚げにすればよかったと後悔する。
唐揚げ屋のメニューは女子中学生のお眼鏡にかなったらしく、鴫野はにこにこ顔で貧乏中年から千円札を二枚受け取ると、唐揚げ店のカウンターに声を掛けた。
白山は注文していたラーメンが出来上がったらしく、呼び出しベルを持ってラーメン屋へと向かった。
つばさは思う。白山さんは頼りになる人だ。
なんでもはっきりと言ってくれて、甘やかしてくれて、ときには厳しくしてくれて。
もっと前から、彼のような知り合いがいたらよかったのに。
たぶん、今回の鴫野との喧嘩も自分だけでは解決できなかっただろう。
などと思われているとは知らない白山は、またも財布を覗いて、ちょっとだけ渋い顔をしている。
彼なら鴫野の悩みにも力になってくれないだろうか。
海の見える町から来た少女、鴫野磯子。
彼女はカモかもしれないし、イソシギかもしれなかったが、じつはイソヒヨドリなのかもしれない。
イソヒヨドリは日本の学術上、ちょっと因縁のある名前を背負わされた鳥だ。
海のそばで暮らしていて、ヒヨドリに似ているという理由から学名がつけられたが、遺伝子的にはヒヨドリ科ではなくヒタキ科だと後から発覚し、世界的に見た場合は、海のそばよりも比較的標高の高い地域に住むことのほうが多い。
日本でも近年、海辺から進出して市街地で見かけることも珍しくなくなった。
だが、学名は変更できないため、イソヒヨドリの名は残ったままとなる。
つばさはスマホで再びイソコの写真を表示すると、次は人目を気にしないでカメラを構えてみようと思ったのだった。
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