13.鳥のようにしなやかに
土曜日。まだ一月のすえだ、つばさは日も昇らないうちに始発のバスに乗りこんだ。
途中で鴫野が乗ってきて、当然のように隣の座席に座った。
「おはよう、つばさくん。こんなに朝早いの、向こうにいたときの朝練以来」
鴫野からシャンプーのにおいが漂ってくる。ドライヤーの熱が抜けきっていないのか、温度も伝わってきた。
つばさの頭には、あいさつを返さなきゃとか、向こうでは部活は何をしてたのかとか、なぜ学校では「空木くん」なのに校外では「つばさくん」なのかとか、色々と浮かんでいた。
だが、鴫野が「バスの中、ちょっと暑いね」とマフラーを取ると、いっそう彼女の空気が濃くなって、つばさの思考を白く塗りつぶしてしまった。
つばさが返事をしないでいると、鴫野はわざと眼力を強めるようにして、丸い目で、じっと見つめてきた。
「眠たいの?」
「えっと、そんなことないよ。おはよう。前の学校では部活何やってたの? こっちではどこも入らないの?」
鴫野はひとつまたたきをすると、「ふふっ」と笑い、「なんか、がっちがちだよ? 寝起きだから?」とつばさの肩を叩いた。
「前はバスケ部。といっても、わたし含めて五人しかいなかったし、ちゃんとした試合なんてしたことなかったけどね。山と海に挟まれた県の端っこだから、隣の学校もひとつしかなかったし」
「田舎だね」
「そうそう、田舎だとすることなくて困っちゃう。小学校までなら野山を駆けてればよかったんだけど」
「ここもなんでもあるわけじゃないけど。でも、バスケ部はけっこう人数がいるでしょ?」
「いるいる。そもそもクラスの数がニ、三倍あってびっくりした。でも、放課後に体育館覗かせてもらったけど、試合に出るどころか、一年生にもついてけなさそうだからやめたの。人数多いと背の高い子も多いし」
鴫野の身長は高いように思えない。訊ねてみると「去年から一五七で止まってる」と返ってきた。
つばさは伸び盛りで、さいわいにも一七〇以上は期待できそうな感じだ。母親はあまり背が高くないが、父はどのくらいだったのだろうか。
停車したバス停に白山がいるのが見えた。
白山がこちらを見上げたような気がしたが、彼は最前列の座席に座った。立ち乗りの客がちらほらと出てきている。こっちに来てあいさつをする余裕はないだろう。
鴫野は意外とおしゃべり好きで、ひっきりなしに話しかけてくる。
たまに声が大きくなってしまうので、周囲に迷惑じゃないかと気にかかった。
とはいえ、口うるさく注意するのも気が引ける。
なんだか偉そうだし、花をしおれさせるような行為に思えた。
つばさはそれとなく小声にした。すると、鴫野もささやきで返した。だが、それはそれで聞き取りづらく、お互いに聞き返す回数が増えてしまった。
後方の座席では受験合宿の話をする別の中学生らがいる。声量も普通だ。
通路を隔てて隣にはサラリーマンっぽい人や、若い女性がいる。
イヤホンで耳を塞いでいる人もいれば、そうでない人も。
前方の優先座席には老人が多く、白山はいつの間にか立ち乗りになっている。
ほかの乗客たちは何しに行くのだろうか。
土曜日も仕事の人が多いのだろうか。
あのお年寄りは行楽という感じではない。
病院? いや、病院が開くにはまだ時間がある。
だったら、もっと遠くの病院かもしれない。
なんにしろ、朝から学生のおしゃべりなんて聞かされたくないんじゃないか。
優先座席のそばに立ったリュックサックの高校生っぽいやつは、スマホの操作音を垂れ流している。
――注意してやりたい。どうして気が遣えないのだろう。
そういえば、祖父が「優先座席には近づかない」と言っていたことがある。
七十過ぎとはいえ、潔は髪もそろっていて眉も豊かでわかわかしく見えるし、足腰もしゃんとしている。自分が優先座席付近にいると余計な気をつかわせるからと、あえて遠くの座席を選ぶのだそうだ。
つばさは、祖父のそんなところも尊敬している。
今朝はつばさが出かけるのに合わせて起きてきて、トーストを焼いてくれていた。それと、今日の外出には女子が混じっているのかと問い詰め、つばさのリアクションから見抜くと、じつに面白がっているような顔で「ちゃんとエスコートしろよ」とも言っていた。
つばさは男女平等な世の中にレディファーストはどうなのかとも少し思ったが、自分が誘った手前、鴫野にも楽しんでほしいと願う。
だがやはり、人に迷惑をかけるというのはなるべく避けたい。
鴫野が声を立てて笑ったところで、人差し指を立てて見せた。
鴫野もまた人差し指で口元を隠して目だけで笑ったが、つばさは上手に笑みが返せない。
「やっぱりつばさくん、なんか固くない? ひょっとして……」
デートだと思ってる? ……と口パクで言われた。たぶん。
「大丈夫! 前に白山さんいるよ。あの人だったよね? あの緑の上着の」
――大丈夫ってなんだ?
もっと上手くやりたいな、と思いつつも、早くバスから降りてしまいたくなる。
スマホの操作音が気にかかる。
うしろで聞こえた咳払いが、こちらへの「黙れ」の合図なんじゃないかと勘繰ってしまう。
白山に『終点のひとつ前で降りませんか?』とメッセージを送った。
事前に地図で確認していたが、終点から川の本流に行くよりも、ひとつ手前の駅のそばを流れる支流から歩いたほうが効率はよさそうだった。
この状況から抜け出すにもいい口実だろう。早く外の空気が吸いたい。
ところが、
『考えてることは分かるが、たぶん降りれないな。それに、市街地側から本流に向うと、鳥は少ないが映えスポットは多い。鴫野さん的にはそっちのが楽しいと思うぞ』
と返される。やはり彼は大人だ。正直なところ、冒頭の『考えてることは分かる』で少しイラついたが、読み終わるときにはもう感心してしまっていた。
「せっかく撮るんだし、誰かに見せれるようにしたいな。わたしも、なんかSNSやってみようかな。中学生でやってもいいやつってあるんだっけ?」
「だいたいは小学生までがダメになってるんじゃないかな」
「じゃあ、やってみようかな。アップロードしとけばバックアップにもなるし、また写真失くしたりしないですむよね」
「前のスマホ」に入っていたのは、友達や景色だったらしい。
彼女は故郷の写真を取り戻したいのだろう。
それが叶わないから、ほかで穴埋めをしようとしているのだろうか。
この前に公園で自分たちの写真を撮ったのも、そういうことだろうか。
――スマホに彼氏の写真。
つばさはあくびをする振りをして、痛いほど後頭部をヘッドレストにこすりつける。
そういえば、また家族写真を撮り逃している。
今の祖父になら切り出せる気がする。自分も祖父が元気なうちに記録して、しっかりとバックアップもしておかないと。
思い出すと、焦りのようなものが沸いてきた。
黒いものがバスの後方から追いかけて手招きをしている気がする。
前の治療の時点で五年生存率が三割で、今はもっと悪いといっていた。
早起きをした祖父はどうしているだろうか。母は今日もパートだ。流れで彼女の朝食の世話でもしていそうだ。
祖父も苦痛を隠しているように思える。
――ぼくはこんなことをしている場合じゃ、ないんじゃないか。
窓の外では背の高いビルが目立ち始めている。
気持ちは後方へと引っぱられるが、バスは市街をどんどんと進む。
『鳥のようにしなやかに、だ』
白山からメッセージが来た。
『野鳥はさ、置かれた環境に適応する能力が高い生き物なんだ』
本で読んで知っている。木の実がなれば木に群がり、実が落ちれば地面をつつく。実が無くなれば次の木へ移ったり、虫やミミズにシフトする。
季節に応じて暮らす場所を変える渡り鳥や漂鳥だっているし、人間のそばの生活に適応して市街地に進出する種だっている。
イソヒヨドリは磯より住宅地で見るし、断崖絶壁に暮らすはずのハヤブサが高層ビルから小鳥を狙ったり、森の賢者のフクロウが都会の公園に営巣する。
『でもそれは、生きるためにしかたなくでしょう?』
『きみも生きてる。おれも生きてる。鴫野さんだって生きてる。まさかゾンビか?』
『違いますけど!』
『それに、インコやカラスだって遊ぶんだ。だから余計なことは忘れて、今日という日に適応してエンジョイすることをおすすめするぞ、少年』
やっぱりこの人にはかなわない。
バスは終点手前のバス停をスルーして広いロータリーへと入った。
終点は私鉄の駅だ。
荷物を持ち直す音や、小銭や財布をいじる気配で車内が満たされる。
停車前に立ち上がる人や、大きな荷物を座席にぶつけながら前へ行く人、支払いの前になってから財布を広げるお年寄り。
白山がお年寄りの小銭を数えてやっている。うしろで待つサラリーマンは腕時計を見て苛立たしげで、あっちのおばちゃんはICカードを手にあくびをしている。
――ひとそれぞれだ。
つばさは肩の力を抜くと、となりのクラスメイトに向かって「降りるのは最後にしようか」と言い、笑みを交わし合ったのだった。
どうやら早朝スタートという白山の提案は、単に野鳥の活動時間を考えてのことだけではなく、朝焼けの時間帯を逃さないためでもあったようだ。
鳥のほうはちらほらと気配はあるもののまだまばらで、薄暗く撮影に適した光量もまだ得られない。
その代わり、暁光の世界に映える市街地のビルや雄大な水面、河川敷の堤を行き交うひとびとを見ることができた。
鴫野はいちいち感嘆の声を上げながら、明けゆく空をバックに犬の散歩をする人やランニングをする人の影を撮影した。
「来てよかった。川もすごく大きいね。まるで海みたい!」
「鴫野さんが前に住んでたところは海の町だったんだろ?」
「あんなビルなんて無かったし、港じゃなきゃ人もいませんでした。いいなあ」
「引っ越してきたのなら、もうきみの地元だ。いちおう同じ市内だしな」
「やった!」
髪を跳ねさせ鴫野がこちらを向く。
「すごいね、つばさくん。ここには田舎と都会の両方があるんだね!」
笑顔だ。朝陽は背中から受けているのに、瞳はもっとまぶしい笑顔。
彼女は空に向かって腕を伸ばし、おもいっきり伸びをした。
つばさは初めて、素直な気持ちで人間の写真を撮りたいと思った。
義務感や義憤、頼まれてしぶしぶという形ではなく、ただ、撮りたいと。
「ほら、シャッターチャンスだ」
いつもよりゆったりと、しかしどこかどっしりとした男の声に促され、つばさはクラスメイトにレンズを向ける。
彼女が気づいてポーズをとるよりも早く親指を押しこみ、ポーズについて苦情を言われて、もう一度シャッターを切った。
のちに鴫野に送った写真は、あかつきの空を背景におすましな横顔だったが、つばさが父の遺した仕事用のノートパソコンにバックアップを取ったのは、太陽に負けない光を瞳に残したままの最初の一枚だ。
「少年、ちょっと動くなよ」
白山の声に驚き、言われたことを無視して彼のほうを振り向いてしまう。
白山はこちらに向かってカメラを構えている。すぐにシャッター音。
つばさはとっさに「すみません」と謝るも、「結果オーライだ」と、コンデジのスクリーンを見せられた。
「……」
カラスのとまったアンテナが、つばさのあたまに生えている写真。
遠近法を利用した構図である。
「あはは! エモいのにバカっぽい!」
「遠近法で手に乗せる写真はたまに流行るだろ。これも一人じゃ撮れない写真だ」
「ですねー! つばさくん、わたしもあとで何か撮らせて!」
「ぼくをおもちゃにするなよ!」
笑われたのは不服だったが、鴫野の言うとおり、ちぐはぐな印象の面白い写真だと思う。
朝焼けのみごとなライティングに、ほとんど影で写ったカラスとアンテナ。
これだけならかっこいいのに、それが頭から生えて、しかもその人物が振り返りざまで驚いた顔をしている。都合よく顔の半分ちょっとだけ光が当たって、残りは黒塗りなのも味がある。
「写真は世界の一瞬を切り取るからな。同じものは二度と撮れないぞ」
白山が得意げな顔で言う。
……しかしつばさは、そのエモーショナルなはずの格言に沈むクラスメイトの顔に気づいた。
カメラを構えて、もう一度シャッター。
撮られた少女は憂いを上書きして、「ちょっと、なんで撮ったの!?」と怒ったような笑ったような顔で抗議をした。
そしてつばさは、「消せ」とか「見せて」と言われる前に、泣き出しそうな少女を削除する。思いのほかよく撮れていたけど、これでいい。
横で白山が「なるほどな」と何か得心のいった顔をしているが、それでも構わない。
「ほら、日の出が終わっちゃう前にもっと撮ろう!」
少年は少女を煽って逃げ、少女は怒ったふりをして追いかける。
二羽の小鳥が追い合うように。
それからつばさたちは、河川敷での撮影会を心ゆくまで楽しんだのだった。
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