01.翼のない少年
これで何度目だろうか。少年は今日も家を飛び出した。
原因となった口論は、いつも平行線のまま終わる。
いや、口論とすら呼べない代物だろう。
一方的に白熱するのは少年のほうばかりで、祖父はしなやかにかわすか、「おまえがそう思っても、俺はそうじゃないんだ」と苦笑するだけだから。
走る少年の脳裡には、豊かな眉を寄せながらも頬はどこかほころんでいる顔がしっかりと浮かんだままだ。
そのくせ、少年がしっかりと守るようにかかえているカメラは、このいさかいの相手に買い与えてもらったものときている。
そもそも議論の内容も少年の主張も相手を想ってのことであり、お互いの笑顔のためなのだ。
だから、この行動に矛盾はない。しかし、まだ中学生二年生の彼は、自分の腕の中のコンデジに気づくと、息の上がる前に頬を赤くした。
羞恥心を打ち消すために、悪態をつく。
――誕生日プレゼントだったら、機種くらい選ばせてくれればよかったのに。
少年の、空木つばさの憧れていたカメラは、一眼レフの本格的なものだ。
長い筒のようなレンズを装着し、ファインダーを覗きこみ、シャッターを切る。
ところが祖父の買い与えてくれたものときたら、レンズはカメラボディに格納されていて、ファインダーで覗くのではなく小さな液晶モニターに世界が窮屈そうに映し出される代物だった。
そのくせ、「コンパクトデジタルカメラ」だなんて謳っておきながら、けっこうごつくてボディバッグには納まらないときた。
とはいえ、今日までの空木家の暮らしを考えてみれば、この十数万円のカメラがどれだけ大きな買い物なのかは、つばさにも痛いほど分かる。
「カメラを欲しがっていただろう?」と、貰った当人よりも嬉しそうにしている祖父の笑顔が思い浮かんだ。
つばさは、自宅に戻ろうかとも思った。
カメラを持って祖父と散歩をしたかった。
彼ならば受け入れてくれるだろう。
しかし、つばさは戻らない言い訳に母、恵のお小言を引っぱり出した。
普段はつばさの祖父――彼女からすると義父――のすることに口を挟まない母が、カメラの値段を問いただして祝いに水を差したのは、今でもはっきりと思い出せた。
――余計なことばっかりに口出しをして。
相対的に見れば、このカメラはずいぶんと安く収まっているのだ。
この機種と同じようなことを一眼レフでやろうとしたら、ボディと望遠レンズなどをひとそろえするだけで中古車が買えてしまう。
プロ仕様のものとなれば、並みの新車以上の費用が掛かる。中学生のつばさにとっては、雲の上の話だ。
今戻れば母と鉢合わせるかもしれない。
まだ三が日だというのに、フルタイムのパートに出るという。
つばさだって、自分の家が裕福でないことは自覚している。
母のパートが休みだからといって中学生男子の行動は何も変わらないのだが、これ見よがしに忙しそうに仕度をして、息子が飛び出す姿に一瞥もくれなかったし、そもそものところ母だって議論に参加するべきなのに、彼女は居間を覗きもしなかったのが腹立たしい。
つばさは足を止めた。
正月のゆったりとした空気の流れる午前の住宅街。
どこかの家から、バラエティー特番を見て笑う団欒がこぼれている。
思い出す。そういえば、うちもこんな感じだった。
普段はみんな思い思いに過ごしているが、昨日は居間にそろっていた。
ああやって三人で同じテレビ画面を見ることもできなくなるのかと考えると、やるせなくなり、堂々巡りの口論の発端に立ち返ってしまいそうになる。
しかし、いまさら戻ったって合わせる顔がない。
そこへ首元へ刺すような風が流れこみ、マフラーを持ってくればよかったと後悔をさせた。
少年は見上げる。雲の浮かんだ、冬の薄い晴れ空。
何か、サギのたぐいが横切るのが見える。
大きな翼を大儀そうに羽ばたかせて、どこへ行くのだろう。
自分はどこへも行けない。
免許の取れる年齢ではないし、自転車も子供用の派手な色合いのものから買い換えていない。
せめて通う中学が遠くの私立なら定期券の範囲でいろいろと出歩けたのだろうが、そもそも貧しいのだから、このたらればも虚しい。
地元の中学まで歩いて片道十五分。あと一週間もしないうちに三学期が始まる。そうなると時間的な余裕もなくなり、特に午前中が使えなくて歯がゆい思いをするだろう。
少年は不自由だった。早く大人になりたかった。
子供的な行動範囲や金銭に縛られず、どこか遠くへ。
限られた自由を大切にしなくては。
そう思い直した矢先だ。
……ちゅん、ちゅん。
スズメの声が聞こえる。
つばさは反射的にコンデジの電源ボタンを押しこんだ。
声のしたほうを向き、カメラを構えようとする……も、やめておく。
スズメたちはひと様の家の植えこみに、まるで実がなるように集まっている。
さまざまな表情を見せる、スズメ目スズメ科スズメ属の小鳥。
日本人にとって、もっとも身近な隣人。
可愛らしい声と容姿につい目や耳を吸い寄せられてしまう。
群れるから個体同士の絡みも豊かで面白い。
だが、彼らの向こうには縁側のガラス戸があった。
カーテンが引かれてるとはいえ、レンズを向けるのははばかれる。
つばさはカメラの電源を切るとため息をつき、自宅から少し離れたところにある自然公園につま先を向けることにした。
少年は走る。少年には翼がない。だから、走る。
祖父に貰った大切なカメラを、卵を抱くようにかかえながら。
***