第九話:僕の傍から離れないで
「……まぁいっか。なんかあほらしくなってきた」
結季奈は諦めるようにそう言い、倒れこむように椅子に身を預けた。不思議とトーマやこの場所に感じていた不安感は消え去っていたが、それでも疲労感は残っていた。いや、むしろ増加している。
「大丈夫?」
「誰のせいだと思ってんのほんともう……」
結季奈は両目を片腕で覆い、呻くようにそう言う。
「……私帰る」
いよいよ疲れがピークに達し結季奈は急に自宅が恋しくなった。唐突にそう宣言するとマグカップのコーヒーを一気に飲み干し立ち上がる。
「送ろうか?」
「いいよ、流石にもう大丈夫」
トーマの言葉を何気ないように断るとカップの返却口へ足を運ぶ──
「あれ」
誰もいない。結季奈の脳に突如としてそういう情報が入ってきた。店内はいつの間にかトーマと結季奈だけになっていた。
店が空いたというレベルの話ではない。本来カウンターに立っているはずの店員すらいない。完全に、店内は二人きりになっていた。
「結季奈!」
突然後ろから肩をつかまれ抱き寄せられる。見ると、トーマが昨日見たカウボーイの装束になり、先ほどまでとは打って変わって厳しい表情をしていた。
「えっ、何、これ。トーマ?」
「……僕の傍から離れないで」
トーマはそう言うと腰のホルスターから銃を抜き、店内に注意深く視線を向けた。
「ねぇ、まさか……」
「ごめん。また巻き込んじゃった」
「もうやだ……」
──改変だ。神保町で、この町のどこかで、イコンが改変能力を行使した。現実は切り取られ、生まれでた現実であって現実ではない世界に、二人は引きずりこまれた。
トーマは瞬時に擬態を解き、イコンとしての力を発揮する。傍に結季奈がいる以上、油断はできない。昨日、忠雪が改変を行使した時のように、向こうから襲い掛かってくる可能性も充分にある。
「……!」
トーマの表情が強張る。後ろ手に庇われている結季奈もトーマの緊張を感じ取った。
「トーマ?」
「何か……来るっ!」
そう言うと同時にトーマは結季奈を庇って近くのソファに倒れこんだ。瞬間、結季奈の視界に青白い閃光が煌く。
「うわっ!」
「動かないで!」
閃光に目が眩み、突然倒れこんだ混乱の最中、トーマの鋭い声と銃声が聞こえる。
何かが、何かが店内にいる。人が入って来れないはずの改変世界に青白い閃光を発し、トーマに銃を向けられている何かが。
またしても閃光。同時に二発目の銃声が聞こえ、結季奈は悲鳴を上げながら頭を庇う。
「君は誰だ」
銃声の後の一瞬の沈黙の後、トーマの探るような、同時に鋭い声が聞こえた。結季奈は荒い息を整えながらそっとソファの背もたれ越しに店内の様子をうかがった。
「──っ!」
結季奈の視界に映ったのは一変してしまった店内の様子だった。木製の小洒落た椅子やテーブルは軒並み破壊されるか炭化してしまっている。カウンターのコーヒーマシンは危なっかしく火花を散らし、その下では濁った液体が散乱し水浸しになっている。
そんな中、入り口の前でトーマと向き合う人影──。白い半袖のワイシャツに学生服のズボン、まとまりの無い短髪に首から下げられたネクタイに取り付けられた稲妻形のネクタイピン──
「日向……雷楊」
結季奈の口から無意識に言葉が漏れた。