第七話:あぁもうやだ
翌日。結季奈はいつものように神保町の入り口に立っていた。昨日はひどく長い一日のように感じたが家へ帰ればいつものように家族が居り、夕飯があり、入浴しベッドで眠れば呑気に朝がやってきた。
昨日のできごとを忘れたわけではなかったが、その後に帰ってきた日常があまりにも変哲のないものだったので、学校へ行き一日を過ごし、下校時間を迎える頃にはすっかりいつもの調子を取り戻し、やっぱり昨日の出来事は何かの間違いだったのではないだろうかと思えるようになっていた。
「よし……」
しかしそれを確かめるためにはやはりここを訪れないわけにはいかない。どのみち帰宅するのに通るルートだ。都合がいい。結季奈は覚悟を決め神保町へと繰り出した。
怖くないと言えば嘘にはなる。実際昨日の出来事は夢に見るほど結季奈にとってのトラウマになった。そしてシグが言うことが正しければここにはイコンがうじゃうじゃいる。トーマらは一応自分を助けてくれたわけだができれば関わりたくはない。
「よし……よし……大丈夫……」
飽きるほど歩いた通りをやや挙動不審気味に早足で歩く。何も変わらない、いつもの神保町だ。おかしな所などない。
いつもの十字路、いつもの瓦屋根、いつもの──武家屋敷?
「ッ!」
見ると視界の隅に映り込んだポスターだった。結季奈は大きくため息をついた。
「……来なきゃよかった」
店頭ポスターにまで過敏に反応するとは。思っていたより強いトラウマになってしまっているらしい。今更ながらここを訪れたことを後悔する。
神保町を歩き、イコンやそれに関連するものに出会わなければ少しは安心できるだろうかと思っていたが、これでは安心する前に疲れきってしまう。
結季奈は壁に手をつき、半ばため息と化している深呼吸を一つする。
「帰ろ」
「あれ? 結季奈?」
瞬間、背筋に悪寒が走る。恐る恐る振り返るとそこには──それはそれは見事な金髪が──
「あぁもうやだ……」
「えっ!? 僕何かした!?」
もはや叫ぶ気力もないような結季奈の反応にトーマが狼狽する。昨日見たカウボーイの服装ではなく、爽やかな色合いのポロシャツを着てパンの詰まったビニール袋を抱きかかえていたが、紛れも無くそこに立っているのはトーマ・ザ・キッドだった。
ただでさえトラウマを刺激されているのに結局イコンに出会ってしまい、なんの為に今日ここを訪れたのか──結季奈は乾いた笑いが出た。
「え、えぇと……とりあえずどこかで休憩する?いいお店見つけたんだ。奢るよ」
そんな結季奈の様子を案じてかトーマは結季奈を立たせるとそう申し出た。結季奈は結季奈でもうこの際一人でいるよりはマシ、とトーマに連れられて歩き出した。
「……で、ここ?」
やがて少し歩いた先のカフェに二人は入店した。
「そう。ここ。この間ふらっと入ったんだけどなかなか美味しくてさ」
「すずらん通りに連れてこられた時点でなんとなく察してたけどここチェーン店だから……その誘い文句はどうかと思うな……」
呆れたように言う結季奈に対しトーマはきょとんとしている。トーマにとっては最近見つけた美味しいカフェかもしれないが、結季奈からすればよく使っているカフェであり、もっと言うと神保町以外の場所でも確認できる場所だった。
「チェーン店?」
「ああそっか西部劇の時代にはない言葉か……」
結季奈は額に手を当てやや大げさにため息をついた。対してトーマはまるでおかまいなしにメニューに目をやる。
「何にする? 僕はアメリカンコーヒーかな」
「もういいよおんなじので……」
あくまでマイペースなトーマと一人疲れきっている結季奈。不思議と会話はスムーズだった。
やがて供された二つの大きなマグカップを持って二人は席へつく。結季奈の要望で隅の小さいテーブルを選んだ。