第四話:今は名前だけ覚えていればいい
「……うぅん」
甘ったるい香りが鼻腔をついた。苦味や渋み一切無い、優しく無責任な香りが。
そういえばお腹が減った。ぼんやりと空腹感を感じる。思い返せば学校を出てから何も食べてない──
「え」
覚醒は唐突だった。おぼろげに空腹感を感じた次の瞬間、まるでスイッチでも入ったかのように突然結季奈の意識はクリアになった。
焦ったように飛び起き、自分の体を観察しはじめる。
首。繋がってる。
心臓。ちゃんと脈打ってる。
脚──ある。
「……よかったぁ~ッ……!」
心の底から安堵した声が漏れる。とりあえず自分は死んではないようだ。ちゃんと生きている。結季奈はそれを知って安心したようにベッドに身を預けた。
──ベッド?
またしても飛び起きた。よくよく見てみれば今自分がいるこの場所、見覚えがない。病院にしては特有の無機質さがない。病院というよりはどこかの民家と言った方がしっくりくる。
フローリングに清潔な白一色の壁、木組みの窓や部屋の中央に置かれた大きなテーブルを見るに大人数がこの部屋を訪れるらしいというのはわかる。ふと横を見てみると大きなカーテンの仕切りが置かれ、何かが隠されている。やはりこうしてみるとここは病院なのだろうか──
「ん、起きていたか」
不意に背後から声がした。首だけまわし振り返ると、そこには一人の女性が湯気と、先ほどの香りをゆらゆらと立てるマグカップを片手に立っていた。
「え、あ……はい」
長身のその女性は結季奈を一瞬じっと見据えたように見えたがすぐに結季奈の下へ歩みより、観察するようにじろじろと視線を向け始めた。
濃い赤のパーカーに黒いスキニーパンツ。すらりと長い脚が強調されて同じ女性の結季奈ですら少しどきっとする。しかしその上からすべてを覆い隠してしまうように白衣を無造作に羽織り、やや茶色がかった髪はまるで髪型に興味などないかのように、雑に前分けにされている。きちんと髪型を作ればすごく綺麗な髪だろうに、と結季奈は内心残念がった。
「え、えぇと……あの」
「ふむ。問題はなさそうだな。何か具合が悪いところはないか?」
女性は結季奈の顔を覗きこみ思案するように問いかける。マグカップのものとは違う、何故かどこかで嗅ぎなれた香りがした。
ぶつけられた質問から察するにこの女性は女医であろうか。であればこの白衣にもまぁ説明はつく。
「は、はい……特には……あっ!」
「ん? 何かあるのか?」
「あ、あのっ、私今まで何してました!?」
結季奈が女医に縋りつくように問う。自分は今までベッドに寝ていた。そして目の前に現れた医者と思しき人物。これらをつなげて考えると、ある可能性が浮かぶ。
「何って……寝てたぞ」
「うなされてたりって」
「していたな。一時間ほど前におさまったが」
「や……やっぱり……」
結季奈は胸を撫で下ろした。やっぱり夢だったのだ。神保町に現れたトーマと忠雪。二人の戦闘に巻き込まれ命の危機に晒されるなどあるはずがない。
しかしそうなると別の問題が浮上する。体には何もないが医者に診られる状況で、さらに悪夢を見ているとなると自分には何かしらの精神疾患が──
「他に聞きたいことは?ないなら今度はこっちの話をするぞ」
「えっ、あ、はい」
思案中に話しかけられ、ほぼ反射的に返事をする。返事のあとに顔を上げるという動作がついてきた。
「あ、いやそうじゃなくて」
「私は紫乃崎。紫乃崎月姫という。まぁ、今は名前だけ覚えていればいい」
「えっ、しの……何?」
「しのさき、げっき。覚えろ」
「……はい」
「さて結季奈。お前には色々と知ってもらうことがある。今から私がする話をきちんと聞くように。嘘は言わん。いいな?」
やや威圧的な態度の月姫に流されるように返事をすると、結季奈は無意識にベッドの上に正座した。月姫はそんな結季奈の態度を了解と判断し、持っていたマグカップをテーブルに置くと腕を組み直し小さく息を吐いた。
「まずはこいつを見ろ。はいどーん」
そのまま一気に言い、結季奈のベッドの横にかけられたカーテンをまくった。
カーテンが取り払われ、その先にあるものが露になる。それが視界に映りこみ、何なのか理解した途端、結季奈の時が止まった。目を見開き、聴覚が機能しなくなる。無音の世界で結季奈は自分が何かから逃げるようにベッドから転げ落ちたことだけ理解できた。
「いやああああああああああ!」
聴覚が戻ると同時に自分の叫び声が耳に届く。腰が抜けたようにその場に座り込み、必死に自分が見たものを頭の中で否定した。
月姫はそんな結季奈の様子を見て困ったように、しかしどこか予想していたかのように片手で顔を覆いため息をついた。
しかし結季奈からしてみればこうなって当たり前だ。なぜならそこには、手を伸ばせば届きそうな距離に置かれたベッドには──忠雪が寝かされていたからだ。
目覚めてはいないようで大人しく横たわっている。人の気も知らないでその寝顔は安らかだった。
結季奈はそんな忠雪を肩で息をしながら見つめる。夢じゃなかった。忠雪は本当に時代劇の中から現実に飛び出してきたのだ。さっき自分が経験したことは現実だった。待てよ、ということは──
「先生! 結季奈が起きたって本当!?」
またしても部屋に来訪者。振り返るとさっき月姫が入ってきた入り口にトーマが立っていた。






