第十七話:上手く作動したようで何よりだ
「……」
茫然自失。結季奈は魂が抜けたようにその場に立ち尽くした。やはりこいつから逃げ切ることなどできないのか。改変が起こってしまった以上、自分にはもうどうしようもないのか──
「多摩川先輩!」
相澤の叫び声に結季奈は我を取り戻す。すると目の前で両手に帯電し構えを取る日向が見えた。
「ッ! 伏せて!」
叫び、やや乱暴にメアリと相澤を転ばせる。瞬間、三人の頭上を光線が通過していく。メアリと相澤はわけもわからない状況に悲鳴を上げ、頭を両手でかばった。
「ホゥリィクラァァップ! 何なのこれぇ!」
「ッ……!」
結季奈が顔を上げると日向は追撃の姿勢に入っている。まっすぐにこちらを見据え、次は外さないと言わんばかりに両手を帯電させている。これまでより派手にスパークが散っており、次の一撃は相当なものが来るというのが容易にわかる。
「うぅ……!」
「行くぜ、覚悟しな!」
日向が笑い、振りかぶる。最早万事休す。結季奈は意味も無いのに体に力を入れふんばった。もう駄目だ。今度こそ駄目だ。結季奈は半ば無理矢理覚悟を決めさせられ、目を瞑る。
こんなことなら、この町への未練をさっさと断っておくんだった──結季奈の最後とも言える後悔が、彼女の頭の中に浮かんだ。
爆音。普段の生活ではおおよそ聞くことの無い、金属の塊が何かに勢いよく激突するような、そんな激しく、攻撃的な音が無人の神保町に響き渡った。
──ん?
結季奈はその音を耳で拾ってから即座にその違和感に気づいた。この音は、今まで聞いたことの無い初めて聞く音だ。それに──体に痛みが無い。どういうことだ。
ゆっくり、目を開ける。ちょうど視界に映りこんできたのは──宙を舞う日向と、さっきまでそこに居なかった未来的なデザインの大きな車だった。
「……は?」
撥ねた。日向はこの車に撥ねられたのだ。相当強くぶつかったようで、日向は数メートル程吹き飛ばされ、着地に失敗して強かに頭を打った。
「何、これ……」
呆然とする結季奈の前で車の扉が開く。運転席から黒い髪が覗く。相変わらず不機嫌そうな表情に無愛想な視線──車を運転していたのはシグだった。
「ワオ! シデハラ!」
「せ……先輩!?」
「乗れ!」
シグがそう叫ぶと後部座席の扉が開く。
「シ……幣原……」
結季奈が無意識にシグの名を呼ぶ。シグは学校にいる時と同じ制服のままであり、イコンとしての近未来的なスーツを着用してはいなかった。
結季奈に名を呼ばれたシグはちらと結季奈に目をやり、〝何も言うな〟と言わんばかりに彼女を睨みつけた。あくまで幣原として動くつもりのようだ。イコンについて何も知らないメアリと相澤がいる以上、正体を明かしたくはないのだろう。結季奈は彼の意図を察して小さく頷くと背後の二人を立たせ、半ば押し込むようにシグの車に乗車させた。
助手席に相澤、後部座席に結季奈とメアリが乗り込むと、シートベルトの確認もせずに車は急発進した。
「シ……シデハラ、あなた免許持ってたの?」
「去年までカナダにいた。あそこなら十六で免許が取れる」
「で、でも十八歳にならないと日本の免許にはならないんじゃ……」
「うるせぇ知るかそんなの」
相澤の言葉を一蹴するとシグはギアを変える。同時にバックミラー越しに立ち上がりこちらを見据える日向の姿を確認すると、悪態をつきながらハンドルを切った。車体が危なっかしく揺れ、三人が抗議するように悲鳴を上げる。
それでも日向は車を追ってついてきた。シグは大通りを走るのを避け、建物の間を縫うように走っていく。元より神保町は直線的な区画がなされ、真っ直ぐ走り続けることができる。角を曲がることは多くとも、一定の速度で走ることができた。
「ッ……」
その時、ふとシグが息を呑んだような気がした。あまりに唐突な異音に結季奈は顔を上げる。気のせいでなければシグの首筋を冷や汗が伝ったように見えた。
「来てるヨ!」
が、その意味を考察する為の思考はメアリの叫びにかき消された。反射的にバックミラーに目をやるとすぐ後ろにまで迫る日向の姿が見えた。
「なんでついてこれるの!? あいつ人間じゃないでショ!?」
「さぁな、まともな人間じゃねぇってのは確かだ! 掴まれ!」
そう言ってシグが急ブレーキをかける。シートベルトをしていた三人は投げ出されることはなかったが、同時に車体後方から大きな衝撃が来た。
「ぶっ!?」
後部座席のエアバッグが作動し、結季奈とメアリが突っ込む。シグは猛スピードで走る車を止め、日向を追突させたのだった。エアバッグが作動する程の衝撃が来たということは相当な勢いで激突したに違いない。
「おう、上手く作動したようでなによりだ」
「おいおい安全運転で頼むぜ」
シグの言葉に別の言葉が被せられる。気取ったような、どこまでも余裕そうな一言に時が止まる。
結季奈も、メアリも相澤も、シグでさえも感覚が急速に鋭敏になり、いやに時間がゆっくりと流れる。どこから。どこから今の声は聞こえた。間違いない。日向は行動不能に陥っていない。
その時、唐突にシグの五感が同時に警鐘を乱打した。シグは半ば無意識に、見えない力に引きずられるように助手席の相澤の方へ目をやった。するとそこには助手席で俯き震える相澤と──その向こうで、窓の外で逆さまにぶら下がる日向の姿があった。
「──ッ!」
シグの目が見開かれる。彼の網膜に映り込む光景が急に歪んだ。これは──
日向の腕が振り上げられる。素早い動きだが、感覚が限界まで鋭くなっている車内の四人にはじれったい程緩慢な動きに見えた。
次の瞬間、世界に速さが一気に戻ってきた。引き絞られた日向の拳が一気に解き放たれ、真っ直ぐに車の窓を突き破り、相澤に迫り──
奥から伸びてきた手に阻まれた。
「!」
勢いよく組み合わされた二つの手の間にはガラスが挟まれ、どちらのものかわからない血がこぼれ落ちた。頭上からこぼれた一滴の血が自分の脚に落ちてきた相澤は恐る恐る顔を上げる──
日向の拳は運転席から手を伸ばしたシグの手に阻まれていた。ハンドルから手を放し、片方の手でシートベルトの止め具を外している。
「先ぱ……」
「伏せてろ」
静かに、しかし底冷えするような冷たい一言が聞こえたかと思うとシグが突然飛び出した。運転席側の扉を蹴り、相澤を飛び越える形で日向ごと突き飛ばす。そのまま二人は車外に転がり出た。