我輩は猫である。名前はまだ無い。今生もまた猫であるらしい。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
ビールを飲み、甕に落ちてニャーニャー泣いて溺れていた事は記憶している。
あすこで太平を得たと思っていたが、気がつけば何やら奇妙な所にいた。
上も下も、右も左も判然としない、不可思議なところだ。
「あれ……私、非業の死を遂げた人を召喚したつもりなんだけど……」
目の前にいる女は、私を見つめてそう言った。非業の死。酒に溺れて、甕で溺れて死ぬのは果たして非業の死であろうか。
「あの、もしもーし。私、神なんだけど。言葉通じるかなぁ……」
吾輩はここで始めて神というものを見た。太平の果てに出会うのが神とは、また洒落が効いているものだと思う。
神というのだから、吾輩を煮て食うなどということも無いだろう。書生という種族に比べれば幾分もマシに違いない。
「あ、召喚の項目が人、じゃなくて者だ。これかぁ〜」
その神とやらは中空に透明な板を浮かべ、何かを確認したようだ。やらかしてしまったと言わんばかりに額に手を当てているが、吾輩にはなんの関係もないだろう。
「あ、もしもし。先輩、召喚で失敗しちゃったんですけど……。ええ!? やり直し出来ない!? あっちゃ〜」
その後も懐から小さな板を取り出しては何某かと喋っている。
果てさて、神がいるというのならばここは天国であろうか。
それともここから甕に落ちた時のような呵責が待ち受けているのだろうか。
「そもそも、これ何て生き物? 下界にこんな丸っこいのいないし……」
二度言うが、吾輩は猫である。猫であるが故に、猫としか言えぬのである。これを三度聞かれても困るというものだ。
「へー、ネコっていうの。名前? 種族名?」
どうやら目の前の神とやらは人間と違い、意思疎通が出来るらしい。吾輩のニャーニャーという声に何かを聞き取ったのか、しゃがみこんで目を合わせてくる。
「あ〜、でもこれほんっとどうしよう。動物の類みたいだし……私とは話せても人間とは……」
目を合わせたかと思いきや、すっと立ち上がりぶつくさと言いながら歩き回る。
そんな様を眺めて身繕いをしていると、不意に神と名乗る女が立ち止まった。
「そっか! 蕃神として捩じ込んじゃえばいっか! そうすれば、神託のスキルで人間とも話せるし。私ってあったまいーい!」
どうやら何らかの決断ができたらしい。しかし、ここは本当に不可思議だ。目の前にいる神とやらとも、正対しているようでそのようでもなし。遠くのようで近くのような、訳の分からぬ感覚である。
ふわふわと辺りを漂う光の塊も、えいやとばかりに捕まえてみるが、手には何も残らない。
「イタズラしないの。えーと、ネコ君? あ、でもさっき名前ないって言ってたからこれ種族名か。ちょ〜っといいかな〜?」
再び視線が合う。正に猫撫で声を掛けられ、吾輩は光の塊で遊ぶのをやめた。
「何ていうか下界、えーと人間の住んでる所なんだけど。マジヤバで、助けてくれないかな〜って」
トンチキな事を言う。猫に助けを乞うた所で、出来るのは精々ネズミ捕りが精一杯だ。身の丈が同じ程のいたちとも苦戦するというのに、何をしろというのか。
「それについては何とかするから。ね? きっと美味しいものも食べられるし、損はないと思うんだー」
美味い物、と聞くと何故か何時ぞやに食べた餅が頭に浮かぶ。大して美味くもないくせに歯にくっつき、大層踊らされた事を。
車屋の黒君みたく、魚の一切れでも食べられればそれでよいのだが……
「それぐらいあるある。大丈夫だから。ね?」
そこまでぐいぐいとこられると、こちらはうんと頷くしかなかった。なぁに、猫生やってみればなんとやら。
あの甕での呵責に比べれば、大体のことはどうということはないだろう。
「はい、それじゃあ頑張ってね!」
いうが早いか、我輩の足元に何やら光が集まってくる。奇妙な光景に毛が逆立つが、この光からはどうやら逃げられぬらしい。
せめて神のいう美味いものに出会えるように、そう思いながら我輩はぐるぐると回る世界へ、飲み込まれていった。
「……召喚できました……けど」
「獣ではないか! 何をしている!」
光の塊を抜け、何処ぞやへと放り出されたと思えば、か細い女の声と、酷く喧しい男の声が聞こえてきた。
目を向けてみれば、これは何かしらんと言わんばかりの顔をした少女がいた。
その背後にはまるで絵でみた王様のような格好をした男が怒りを著していた。
「召喚の術式は完璧です。獣であったとしても、その獣こそが神が遣わされた救いの導き手です」
導き手かどうかは知らぬが、神からここに放り込まれたのは間違いない。あの神は私を蕃神にするなどと言っていたが、結局どうなったのやら。
「現に……素晴らしいステータスとスキルを持っていらっしゃいます。この者こそが救いを──」
がつんという音とともに、少女の顔に盃がぶつけられる。投げつけたのは怒り狂っていた男だ。
「獣が救うだと!? バカな事を言う! おい! 獣共々、牢へ放り込んでおけ! 明日処刑する!」
頭を押さえ、膝を折った彼女が控えていた兵隊に抱えられる。同時に我輩も首根っこを掴まれてぶらりんと宙を動かされる。
暴れようとも思ったが、どうにも額から血を流す少女が気になって仕方ない。その為、しばらく大人しくぶら下げられることにした。
「ここで大人しくしていろ!」
放り投げられた先はまさに牢屋。その中に敷かれた藁山の上にぽいと投げ捨てられた。
そしてそのすぐ後には、悲鳴とともに例の少女も投げ置かれた。全く扱いには気をつけてほしいものである。
はてさて、彼女の容態はどうであろうか。猫である身、人間の治療などできるわけもなし。
痛みを堪えるように顔を歪めている彼女の手を舐めるしかできない。
しばしそうしていると、痛みが治まってきたのか、彼女が目を開けてこちらを見つめてきた。
「話、最後まで聞いてくれなかったなぁ……」
全くだ。話を聞いておれば、幾分かものの分別がつくというものを。これでは美味いものを食い逃したようなものではないか。
「王様なのにすぐ怒るだなんて短気だよねぇ。美味しいものかぁ……ごめんね、何ももってないや」
短気は損気というのだがな。王にしてはそのような考えを持っておらぬらしい。まったく王とは書生より悪辣な種族やもしれぬ。
「あはは、悪辣な種族っていえばそうかもね。……って言葉が通じてる!?」
ふむ、どうやらこちらの考えていることが、ある程度彼女に伝わっているようだ。これはありがたい。某教師とは意思疎通も何もできぬままだったからな。
「あーすごい……! 蕃神扱いだから、私の神託スキルと呼応するんだ!」
なるほどな。あの神が言ったように私が蕃神としての扱いになっているから、そういう事ができたのか。
しかして、これからどうするか、だ。このままでは先に言われたように明日には処刑だ。
「それなんだよねぇ……ああ、物心ついてから12年、ずっとメルテロス様を信じて仕えてきたのに、最期がこんなだなんて……」
メルテロス、とやらがあの神の名だろうか。何年仕えたかは知ったことではないが、確かに散々な最期だな。
「ねえ、なんとかできないの? えーっと……」
三度目だが、我輩は猫である。名前はまだ無い。呼びたければ好きなように呼べば良い。
しかしなんとか、といわれても困るものである。猫にできるのは精々鼠取り。鉄格子も石レンガも、引っ掻いたところでがりりという音がするだけだろう。
「そっかぁ……ネコ? ねこっていうんだ。柔らかくて毛並みいいね」
いつの間にやら膝に乗せられ、撫でられる。久々に感じたその心地よさにごろごろと喉を鳴らすと、びくっと彼女の体が震える。
「えっ何の音!? もしかして怒ってる?」
逆だ逆。猫を知らぬ人間はこれだから困る。こちらの気持ちを正反対に捉えてくるのだから。
「そ、そうなんだ。びっくりしたぁ」
しかし、神よ。このような事態になるのであれば、我輩に鉄格子を切り裂き、石レンガを砕くような力をくれてもよいものを。
体には何の変化も感じられない。教師の家にいた時そのままだ。
私にも往年の黒君の如き体躯があればまた違ったのかもしれぬが、残念なものだな。
「でもまあ、試しにやってみてよ。だめなら……一緒に死のっか」
ダメで元々という言葉もあるしな。やってだめなら我輩も諦めがつくというもの。彼女の膝から飛び降り、鉄格子へ向かう。
所々錆びながらも黒々としたそれは、一本の太さが我輩の腕以上もある。
隙間は……実のところ我輩ならば抜けられそうな程度だ。とはいえ、彼女を置いて一人旅立つというのはどうにも具合が悪い。
何はともあれ試してみるか。
そう、半ば諦めがちに爪を振るう。結果はがりりという音。ほうら、どうにもならぬと思っていると、からんと乾いた音が響く。
訝しげに鉄格子を見れば、なんと引っ掻いたところが丸々切れているではないか。思わず背後の彼女を振り向くも、彼女も驚き顔だ。
「わー……こうやって希望が見えちゃうと、死にたくなくなってくるなぁ」
誰も望んで死にたいなどと思う者はおらんだろう。一応これで彼女が逃げる道も見えた。ならば、どうせ神に放り込まれて通りがかった道だ。
共に世界の『マジヤバ』とやらをどうにかしようではないか。
「そっか、そうだ、ね!」
決心した彼女が私を抱え、切れた格子の隙間から外へでる。
篝火に照らされた石造りの牢屋は、今の所見張はいないようだ。
「逃げられたら僥倖、途中で捕まっても、あのままいても死ぬのは一緒だもんね」
震えている手が、我輩を包む。彼女からしたら万が一に賭ける気分なのだろう。
牢から抜ける道であろう階段にゆっくり足をかける。
階段の上には見張りが椅子に座っているのが見えた。さてここをどう突破するか……
先のようにがりりと引っ掻いてやってもよいが、それでは鉄格子よろしくぶった斬られて人間がスプラッタなことになってしまうやもしれぬ。
ではどうするか。肉球で叩いてやればよいのだ。
背後から忍び寄った彼女の手から身を伸ばし、手で軽く頭を小突いてやる。
それだけで、牢番は悲鳴をあげることもなく気を失った。
「すごいねネコ君……」
頭上からは感嘆の声が降ってくる。そうであろう、そうであろう。
我輩は今や神の猫なのだ。このくらい造作もない。
「よし、あとはここを抜けて……」
周囲に他の人間がいないことを確認して、駆け抜ける。
扉を警戒しながらも開ければ……
「外、だぁ」
外である。さて問題はまだまだ山積みだ。王というからには城がある。城があるということは、往々にして警備の兵もいれば壁もある。
これをどう突破していくか。空でも飛べれば一挙に解決できるのだが……
などと考えた瞬間に、彼女と共に体が浮く。
「飛行の魔法!? 神様しか使えない魔法だ!」
どうやら、思っただけでそんなものがあったらしい。教師の家にいた頃はそんな宙を飛び回るだなどということはできなかったのだが、今はそうではないらしい。
頭を向けた方を先頭に、思った方向へとぶことができる。となればやるべきことは簡単。
「だっそー!」
まごう事なく、脱走だ。人が豆粒ほどに見えるほどまで高く駆け上がり、適当な方角へ身を向ける。
そのまましばらく飛べば、追手のつけようもあるまい。
「あははは、夢みたい! 外に出られた! ネコ君すごい!」
我輩を抱く彼女は、見知らぬ土地へ降り立った後でも大層嬉しそうであった。
その後も彼女に抱き抱えられるまま、数多のところで爪を振るった。
何やら色々と名乗ってきた者もおったが、敵であると知り、爪を振るえば常に一刀両断であった。
気がつけば知らぬうちに周りの人間が増え、ネコ様じゃネコ様じゃと我輩を祭り上げる。
美味いものも食えた。
そして遂には、人間と戦争をしていた大元、魔王とやらをこの爪の錆びにすることもできた。
どうやら世界の『マジヤバ』とは魔王のことであり、これでどうにかなったらしい。
魔王を倒せば、平和ということもなかろうにと達観しておったが、とにかくこれで為すべきことは出来たらしい。
傷ひとつない彼女と毛並み豊かな我輩。魔王を倒したとも見えぬ姿のまま人間の街へ戻れば、すぐに歓待の宴が開かれた。
そして美味いものがくえた。うむ、神の言うことに嘘はなかったらしい。美味いものが食えるなら、我輩は満足だ。
そんな事を考えながら、こっそりとコップに入った酒をちびりと舐める。
いや、前回のことで反省はしている。反省はしているのだが、あのふわふわとした感覚は中々癖になる。
そう思いながら二口、三口と舐めていれば次第に体が温かくなり、目がぼうっとしてくる。
今ならば猫じゃ猫じゃも踊れるであろう。ふらふらと立ち上がり、好き勝手に歩き回りたくなる。
あの時と同じだ。陶然として寝ているのか起きているのかわからなくなる。
足の向くまま、気の向くままテーブルを歩き回り、宴の料理も食い回る。
あれも美味い、これも美味いと思いながら歩いていると、途端ぼちゃんと音がした。
──やられた。我輩の学習せんことなんたることか。二度目の甕との出会いであった。
しかも今回中に入っているのは水ではなく、酒らしい。
もがけばもがくほど沈むし、口に酒が入ってくる。
そうすれば余計に頭がぼおっとしてくるし、何のためにもがくのかわからなくなってくる。
折も悪く、甕は大きく深い、その上中みはそこそこ減っていたようで我輩の手が届く様子はない。
前と同じく幾度かがりがりと掻いた挙句、我輩は諦めることにした。
こうして力をぬいてだらりとしておれば、次第に楽になる。
我輩はまた死ぬ。死んでまた太平を得る。その果てにまたあの神とやらがいるのかも知らぬが──
「ダメだよネコ君、こんなところであそんでちゃ。溺れちゃうよ」
天恵とはこのことか。酒をとりにきたのか何なのか、甕の口からひょいと彼女が顔をのぞかせ、我輩を掬い上げる。
びしょびしょの体を身震いしたいが、酒に酔って体が自由に動かぬ。
「もうびしょびしょじゃない」
彼女がその身に纏った布で、身体を拭ってくれる。ぼんやりとした目で見上げれば、その顔はまるで絵画の聖女の如しだ。
斯くして我輩は甕から救われた。どうやらここで死ぬことは許されず、生きるのが神のお望みらしい。
だからこそ、今四度言おう。
我輩は猫である。名前はまだない。どうやら今世も猫であるらしい。