第八話 デザイア
朝の日差しが優しく顔を包み込んだのを感じ、僕は目を覚ました。
「──夢、じゃあないよね。やっぱり」
体を起こし、ぐるりと部屋を見渡す。目に映るのは、高価な調度品の数々と、自らが体を預けている大きなベッド。
ここはエリスアート家にある部屋の一つだ。
現状をきちんと把握した僕は両手を重ねて上に伸ばし、緩んだ体に力を入れる。すると肉体が活動を始めたのかお腹の音が鳴った。
「そういえば昨日は結局、ご飯食べなかったんだよなぁ」
何となくそういう雰囲気ではなかった。折角作ってくれた人には申し訳なかったが、部屋へと案内された後は疲れてそのまま眠ってしまったのだ。
一息吐いてベッドから降り、借りていた薄い青色の寝巻きを脱ぐ。そして部屋の隅に畳んで置いていた学生服に身を包み、鏡の前で身だしなみをチェックする。
「ん?」
違和感がある。しかし体を見回すがどこもおかしなところはない。体に不調がある訳でもない。不思議に思いゆっくりと鏡に近寄り、自分の顔を見つめる。
「……あっ」
よく見ると左目の色が薄らと変わっていた。ひと目見ただけでは分からない程度の、黒に近い紫色に。そしてその中心には何か模様の様なものが浮かび上がっている。
「ふふっ、ついに目覚めちゃったか……力に」
なんとなく変なテンションになり、鏡の前で格好つける。
「それにしても何の模様だろうこれ?」
再び鏡に顔を近づけるが、小指の指先程度の大きさしかない模様である。小さくて何が何だか分からない。しかも黒に近い紫色の瞳に黒で描かれているのだから尚の事。更に顔を近づけ、何とか見ようと努力する。そしてその距離がほぼゼロに近付いた時、突如部屋の扉が開かれた。
「ヒイロ、起きてる?」
オペラである。泣き腫らした瞼はまだほんのり赤いが、その表情に悲壮はない。もしかしたら空元気なのかも知れないけど、それでも昨日の状況から少しでも持ち直したのだとしたら、それはとても喜ばしい事である。
そんなオペラだったが、部屋の中にいた僕の姿を目にした瞬間、その体を硬直させた。そして、さっと顔を赤くしなぜか目を逸らす。
「おはようオペラ。どうしたの?」
「べっ、べべべ別にっ!」
「いや、絶対何かあったでしょその顔!?」
そのあまりに動揺した姿についツッコミを入れる。
もしかしてチャックでも開いていたのだろうか? そんなことを考え、身だしなみをもう一度チェックする。しかし、どこもおかしなところはない。だとすれば……昨日の事を思い出して顔を赤くしてしまった、とか? いや、確かに出会って初日にするような距離感ではなかったかもしれないが……
ふう、なんか僕も顔が赤くなってきた気がする。
静寂が二人の間を支配する。その空気に耐えられなくなったのか、オペラはこちらをちらちら見ながらボソボソと口を動かした。
「ヒ、ヒイロはさ……鏡に映った自分とキスをする習慣とか、あるの?」
「へっ?」
その予想だにしない言葉につい間の抜けた言葉が口から出てしまう。何を言っているのか理解ができなかったからだ。無論言葉の意味は理解していた。しかし、何故? という言葉が頭の中を埋め尽くす。
改めて自分の状況を思い出し、そして、一つの答えに辿り着く。
「……ちっ、ちがっ! 違うから! 全然そういうんじゃないからっ!」
「べ、別に隠す必要なんてないよ。ほ、ほら、私一応ヒイロのご主人様だし。使い魔の事とか、ちゃんと知っていなきゃいけないし……。そ、それに! 私たち、さ、友達にもなったわけだし、そういう秘密の共有とかも、アリかなって、思ったり、ね?」
「ね? じゃないから! 僕そんな友達は嫌だよっ! そうじゃなくって! ほら、僕の左目!」
なんとか誤解を解くために左目を見せようと近づくが、オペラは何故か勢いよく後ずさる。
「い、いくら友達でも、いきなりキスは、早いんじゃないかなぁって、思うんだ」
「違うよっ!? どういう勘違い!? それに友達同士はキスとかしないから! 目の色! 目の色が変わったの! 模様まで描かれてるし、何かなぁて確認してたんだよ!」
「……模様? あっ、本当だ」
──近い。
もう少し近づけば、それこそキスが出来てしまいそうな距離まで寄ってくる。なんだろうこの子、距離感がバグっているんじゃないだろうか?
まぁ、僕も人のこと言えないかもしれないけど……
「うぅん、昨日は普通だったと思うんだけどなぁ。召喚した時黒い瞳が印象的だったから覚えているもん」
「そっ、そっか……」
僕は顔を背け、オペラに顔を見られない様にする。なんとなく、なんとなくそうしたい気分だった。
「どうしたの? あっ、そうだ。お父さんに聞いてみようよ。ここに来たのもね、ご飯を誘いに来たからなんだ」
「ご飯? 丁度良かった、僕もお腹が空いていたんだよね。昨日は何やかんやあって食べなかったからさ」
「私もだよぉ。……ううぅ、話してたらもっとお腹が空いてきちゃった。ほらヒイロ、早く行こう?」
「う、うん」
オペラは僕の手を握り、引っ張る様にして食堂へと向かった。
「──それは多分、デザイアだね」
先に食堂に着いていたカーマインさんと朝の挨拶を済ませた僕は、異世界に来て初めての食事に舌鼓を打ちながら、今朝自分の身に起こった出来事を相談していた。
「デザイア?」
「そっか。ヒイロは人間だけど、使い魔だもんね」
──確か、欲望・欲求・願望などを表す単語だったはず。
「デザイアは、使い魔だけが使うことの出来る特別な力だよ。本来なら主と契約した時に体の一部に浮かび上がるものなんだけどね」
「特別な力……ですか?」
「そうだよ。内容は様々だから、ヒイロ君がどんな能力を手に入れたのかまでは分からないけど、使い魔の願望に近いものが能力になるって話だよ」
「願望に近い能力……」
──エロい能力だったらどうしよう……。
僕は人知れず戦慄していた。いや、別にエロい能力だったら嫌だとかそういう訳では無いのだ。僕も男の子、そういう能力への憧れは少なからずある。しかし、しかしである。そうだった場合のリスクが大きすぎた。もし仮に、そんな能力を公衆の面前で披露する事になってしまったら……社会的な死は免れないだろう。
──まずは誰も見ていないところで使おう。
そう心に強く誓う。
「ねぇヒイロ、試しに使って見たら?」
──さようなら。僕の異世界生活。
「いや、使うには自分の魔力をその部位に込める必要があるんだよね」
カーマインさんナイスアシスト。
「そ、そうですよね! 僕はまだ魔力が使えない。だからデザイアも今は使えない! いやぁ、残念だったなぁ……」
「あっ、でも昨日みたいにお父さんに手伝って貰えば良いんじゃない?」
万事休すである。
「それもそうだね。じゃあヒイロ君、いいかな?」
「……はい」
席を立ち近づいてくるカーマインさんに背中を見せる。カーマインさんは昨日と同じ様に背中に手を当てて、魔力を流し込んだ。
「どうだい?」
体の中を巡る魔力が自分の左目に行く様に集中する。しかしどれほど魔力を移動させてもほんのり温かくなるだけで、力が発動した形跡はない。
「えっと、魔力を左目に込めてはいるんですけど、特に変化はないみたいです」
「ふむ。私の魔力が混ざってしまうと発動しないのかな? あるいは発動条件が存在するとか。とりあえず今使うことはできないみたいだね」
──神様、ありがとうございます。
「残念だったね」
──いや、これで良かったんですよオペラさん。
「そうだね」
僕は喜びを顔に出さない様にして頷いた。
「さて、そろそろ私も仕事に取り掛かるかな。オペラは今日学園は休みだろう? ヒイロ君に色々と教えてあげると良い」
そう言い残して、カーマインさんは食堂から出て行った。
「早速だけどお願いしても良いかな?」
「任せて」
オペラは胸に手を当て自信に満ちた表情を作る。
「ええと……この国の言葉や魔術について勉強したいんだけど、何か資料とかないかな?」
「分かった。じゃあ私が昔読んでいた絵本を貸してあげるね」
「え、絵本……」
「べ、別に子ども扱いしてる訳じゃないよ? ほら、まずは簡単な言葉を絵で理解するのがいいと思ったから」
「う、うん。ありがとう」
意図は理解できたが少し落ち込む。
「後は魔術だよね。こっちは初級魔術について書かれた教科者を渡せば良いかな? 実演に関しては、その……私はあまり力になれないんだよね……」
「でしたら私が教えましょう」
「ほひょっ!?」
横から男性が声が聞こえ、思わず変な声を出してしまう。振り向くとそこにはダンディーな執事、エクリムさんがいた。
「いいのエクリム?」
「勿論で御座います」
「やったねヒイロ。エクリムは魔術の扱いが上手なんだよ」
「ヒイロ様、よろしいでしょうか?」
「は、はい! お願いします!」
「かしこまりました。では僭越ながら、私がヒイロ様の講師を務めさせていただきます」
そう言ってエクリムさんは丁寧にお辞儀をし、ニヤリと口の端を上げる。
「それでは早速──食後の運動などは如何でしょうか?」
食堂を出た僕はエクリムさんと共に屋敷の庭に来ていた。青々とした芝生に優しく照りつける太陽。体を動かすには丁度いい環境だ。
オペラは僕が勉強に使う資料を探しに行っている為、現在ここにはいない。
「それではヒイロ様。まずはこちらをお付けください」
そうやって渡されたのは銀色に輝く一つの指輪。何の変哲も無いただの指輪にしか見えないが、光の当たる角度で細やかな模様が走り、時折美しさが顔を見せる。
「えっと、これは何ですか?」
「魔力の操作を補助するアイテムで御座います。お嬢様クラスの魔力には対応出来ませんが、一般的な方であれば、どなたでも扱う事ができる優れものです。それをどちらの手でも構いません、人差し指にはめて頂けますか?」
その指輪を一通り確認した後、言われた通り左手の人差し指にはめる。すると指輪が一度薄らと輝き、そこから体内へと温かい何かが流れ出した。そしてそれは体の中心へと集まり、ゆっくりと溶けていく。その直後、自分の中にある奇妙な何かを感じ取る。
「これは……」
「それが、ヒイロ様の魔力で御座います。ヒイロ様は今までに何度かその体を通して魔力を扱ったことがあるかと思います。同じように動かすことはできますか?」
「やってみます!」
目を閉じて意識を集中する。左手に魔力を集めるイメージだ。しかし、左手に力を入れても唸っても魔力は一向に集まらない。今までは言われた部分に意識を集中するだけで使うことができたが、それでは駄目なようだ。一度目を開け、深呼吸をする。
考え方を変えてみる。左手に魔力を集中するのではなく、体の中心にある魔力を左手に流し込むイメージ。するとゆっくりではあるが魔力が移動を始める。集まった魔力は左手に集まり、一定の量を超えると僅かに光を帯びる。今までに何度か見た淡い光。
思わず笑みが浮かぶ。
「出来ました!」
「おめでとうございます」
エクリムさんの方へと顔を向けると集中力が切れたのか、魔力は霧散し空気中へと溶けていった。
「あっ……」
「落ち込まなくても平気ですよ。最初は誰もが通る道です。まずは体の中を自在に動かせるようにする事と、維持する事を目指しましょう。目標は……そうですね」
エクリムさんは後ろに下がり距離をとる。そして淡い光を足へと集め、その場で跳ねた。
「あ……」
声が漏れる。何故ならエクリムさんが屋敷の二階に届く高さまで飛んだのだから。そうしてしばらく対空すると音を立てる事なく着地をし、僅かに乱れた衣服を整える。
「すごい! かっこいい!」
「身体強化の魔術には劣りますが、足に集中すればこのような事も可能でございます。取り敢えず今のような事ができるように練習しましょう」
「はい!」
そうして陽色は、オペラが来るまでの時間を魔力操作に費やした。