夜に狩る者
仄かに掛かる黒雲が、夜空に輝く星々を隠している。僅かな雲間から覗くのは、宙天に昇る満円の月。
街灯も疎らで、行き交うものの姿はない閑散とした道路。右側には工場地帯、左側には緑地公園が広がる。アスファルト作りの一本道は遥か先まで続くも、終着点は闇の中に隠れて見る事は出来ない。
その途中、道路を横切る線路と踏み切り。黄と黒の色に巻かれた遮断機が下り、道路を塞いでいる。点滅灯は赤い警告信号を上下へと交互に灯し出し、独特の音色が電車の接近を告げていた。
程無くして電車がやってくる。敷かれたレールの上を駆け抜けていく電車の、均一に並んだ車窓の形に、道路は照らされていた。電車の走行音が、一時的に踏み切りの周囲へ喧噪を与えている。規則的な電車の足音に静寂は掻き消されていた。
遮断機の点滅灯とレールを滑る電車の影が、闇の中に複数の色彩を生み出す。その様子を、100mほど離れた場所から見詰める人影が在った。
淡い月光に映し出されるのは、海原のような蒼い髪と、炎に似た赤い瞳を持つ少年の姿。体の線は細く、若干小柄。その容貌は少女と見紛う美麗なもの。
年の頃は17、8歳程度。黒いジーンズと少々大きめのワイシャツを着込み、左右の手には何も持っていない。
視界に映る風景を遠巻きに、然したる感慨もなく見詰める少年の目。その左側には白い医療用布による眼帯が貼り付けられている。赤い単眼の先にあるのは、踏み切りを席巻している電車の影。
それが突然、水面のように揺れ始めた。次いで影が盛り上がり、水中から立ち上がるように、漆黒の中から不気味な異形が姿を現す。
それは人型をしているが、人間とは似ても似つかない怪物だった。
腕や脚から鋭利な爪を生やし、全身を外殻のような漆黒の装甲体で覆っている。大きく裂けた口には鮫に似た牙が並び、真紅に光る眼を持つ存在。
体長は2m弱、外殻の各所には薄く明滅する赤線が走り、見る者の不快感と嫌悪感を掻きたてるフォルムが、常識的な生物でない事を教えている。
現れた異形は深い呼吸を繰り返していた。体内に取り入れた酸素を吐き出す度に、開けた口から白い靄が溢れ出る。少年は異形を正面から見据え、異形もまた少年の姿を紅眼に捉えていた。
それまで走っていた電車の最終車両が、踏み切りを抜ける。聞き慣れた警告音が止まり、遮断機が上がり始めた。それと共に異形の口が大きく開き、けたたましい咆哮が発せられる。空気が激しく振動し、公園側の木々が揺れた。
遮断機が完全に上がりきった時、異形が路面を蹴って跳び出すのと、少年がシャツの裾を靡かせながら、異形目掛けて駆け出したのは同時。
数秒の後、異形と少年の距離は詰まった。瞬間、異形は五爪の光る右腕を突き出す。その一撃は少年の心臓を正確に狙っていた。
しかし少年は身を捻り、致死の一撃を素早くかわす。異形の腕は狙いを外し、揺れるシャツの裾を切り裂くに終わった。
先制の初撃を避けた少年と異形が宙で交差し、互いに背を向ける形で路面に降り立つ。地に脚をつけた少年は、体勢を立て直そうとした。
だが、異形は着地と同時に再度路面を蹴り、僅かに跳躍。片手を道路について腕力だけで身体を回し、カポエラ風に少年へ蹴撃をみまう。
予期せぬ早追撃に、少年は姿勢制御より防御面に意識を向ける。背後方から来る異形の巨脚に反応して、振り返りながら体面で両腕をクロスさせた。
少年が完全に体の向きを入れ替えるのと同じタイミングで、異形の蹴りが標的へ届く。クロスさせた腕の交点に異形の蹴撃は命中し、その衝撃で少年を後方へと吹き飛ばした。
巨大なハンマーで叩きつけられたような錯覚。それを両腕に感じながら、少年は路面に足をつき衝撃を殺そうとする。しかし上手くいかない。
両足を路面につけ、踏ん張ったまま、少年はかなりの距離を滑って行った。ようやく止まった時には、摩擦熱で靴の底が随分と削れ、脚にも少なからぬ痛みを覚えた。腕には痺れが残り、シャツの袖は肩辺りまで破れ散っている。
露出された腕は、異形とは比較にならない細さだった。
ただ、右手の前腕には奇妙な字形の文字が、腕を一周する形に刻印されていた。焼け墨のような黒い文字が、さながら焼き鏝を押し付けた痕のように。
一方の異形は止まらない。三度路面を蹴り、異形の巨躯が信じられない速度で少年へと肉薄する。
前傾姿勢で突っ込んで来ながら、異形は右腕を貫き手の形に構えていた。もう一度、正確無比な徒手を突き込むつもりだろう。これを見た少年は脚の痛みを押して、同じように異形へ向けて駆け出した。
狭まる両者の距離。射程内に入った瞬間、咆哮と共に異形が腕を繰り出す。今度の狙いは頭部だった。少年はその軌道を瞬時に見切り、首を僅かに傾ける事で直撃をかわす。
異形の腕が少年の右頬を掠め、浅く皮膚を裂いた。その下から鮮血が噴き、風に乗って後方へと送られる。
紙一重で一撃を避けた少年が、異形の側横を抜けに掛かった。風を切り、僅かな合間を縫う瞬間、少年は目を細め、小さく呟き始める。
「聖典第四番『弾劾の悪意』解放。全拘束を破棄し、実行動形態へ移行」
抑揚の乏しい声が闇の中に吸い込まれ、残響一つ残さず融け消えていった。その直後、少年の右手に刻まれた文字が光り、一瞬だけ周囲の闇を切り裂く輝かしい閃光を放つ。
その光は掌へ急速に収斂され、一秒と経たぬ間に消滅した。少年の手に、漆黒の輝き放つ大口径の銃を残して。
銃の型式はS&W、黒曜石を思わせる材質で仕上がり、無骨な印象を受けるフォルムは重量感を醸す。但し、通常の銃より二回り程大きく、奇妙な文字が刻まれた銃身はやや長い。その銃は全体が黒々とした光沢を湛えていた。
黒光りする銃を片手に、少年は異形へと視線を固定したまま言葉を紡ぐ。
「昏く猛き魔力よ、我が呼び声に応え、其の手に集い力を現し給え」
「暗黒もなく、真銀もなく、全て噛み砕く滅びの顎と化し、断罪の剣で咎人の業を悉く跳ね飛ばし給え」
異形の横を行く刹那、少年は目の鋭さを増した。
そのまま右手を伸ばし、そこに握られた銃の射出口を異形の右腕肘窩に押し付ける。それと並行して右の親指はハンマーをフルコックに移動させ、射撃の準備を完了させた。
「飽くなき亡者の導き主よ、破壊の牙を研ぎ澄まし、絢爛なる葬礼に今吼えたてよ!」
少年の一声と同時に引き金が絞られ、黒々たる銃が咆哮を放つ。スライドが一瞬腕側へと衝撃で下がり、漆黒を覗かせる銃口は闇裂く閃火を噴いて銃弾を吐き出した。
硬質な長方体から外界へと躍り出た一発の弾丸。暗黒も同じ黒一色にして、微細な異文字をびっしりと刻まれたそれは、退魔封滅用13mm特殊炸裂鉄鋼弾。
弾丸は空気の層を容易く貫き、あらゆる抵抗を破壊して空を駆ける。その軌道に微々たる変異すら許さず、異形の頑強な外殻を内部筋肉諸共に食い破った。
少年が異形の側方を抜け背面の道に降りた時、突き出されていた異形の右腕は肘から先が中心で抉れ、幾つもの外殻片を撒き散らしながら別れ落ちる。
夜気を震わせた爆裂音の残響が広がる中、異形は千切れた肘部から闇を溶かしたような黒い血を垂れ流していた。体から切り離された部位は重力に従い落下を始め、路面に着くより先に黒い粒子となって霧散してしまう。後には何も、肉片の一欠片さえ残らず消失し、ただ異形の欠損部から溢れる黒の血流が道路を汚していた。
咆哮が上がる。
腕をもぎ取られた痛みによるものか、必殺の一撃を避けられた口惜しさが原因か。判然としない理由の下に上げられる異形の雄叫びは、耳に残る銃撃の一声を掻き消し、少年の鼓膜を震わせた。
破壊面から覗く異形の外殻内部では、黒と赤の入り混じった奇怪な筋組織が、外気に触れるのを拒むように蠢いている。人やそれ以外の生命、地球に生きるどれと比較しても異なる組織は、喘ぐように不気味な蠢動は繰り返していた。
並の獣など比較にならない咆哮を共に、異形が振り返る。それと同時に左腕を高速で突き出した。
少年は異形に背を向けたまま、僅かに身を屈める。その半瞬後、異形の腕が少年の左肩上方数cm先を裂いた。まるで後に眼があるような、的確且つ素早い回避。
これを最低限の動きでやってのけた少年は、路面に置いた右足を軸に反転。異形へ向き合うと同時に、右手を一閃させる。その手に握られているのは漆黒の銃。薙いだ腕に合わせ、未だ熱を失わぬ銃口が異形の腹部を殴打した。
瞬間、トリガーが引かれ第二射が放たれる。あらゆる魔を調伏滅し、その存在を悉く現世から消し去る為の弾丸が、異形の腹に文字通りの風穴を穿った。
轟くのは悲鳴にも似た咆哮。
銃口接面の真後ろ、異形の腰部が弾け、外殻片が宙空に飛ぶ。後を追うように黒い鮮血が飛沫を上げ、飛び散った肉片が粒子化の果てに消えていった。
反射的に異形は左腕を振り上げ、些か音程を逸した咆哮と共に、勢い良く少年へと叩きつける。だが寸での差で少年は跳躍し、異形の一撃から逃れていた。異形の豪腕は少年を捉え損ね、目標を失った兇器的腕が路面を叩き壊す。砕けたアスファルト片が四散し、その幾つかが少年の周囲を過ぎった。
異形の頭部より幾らか上方に跳び上がっていた少年は、両手で銃のグリップを握り、叩きつけるように振り下ろす。重力に引かれて落ちる体が銃の軌道を押し、異形の頭頂部へと銃口を激突させた。
「悪しき夢よ、此処にお前達の場所はない」
黒い外殻に銃の口部を密着させて少年は囁く。次には眉一つ動かさずに引き金を絞った。千分の一秒後、闇の深淵を思わせる射出口から特殊炸裂鉄鋼弾が撃ち出される。
一定回転を付与された弾丸は頭頂の外殻を砕き、筋組織も血流も容赦なく裂きながら首を抜け、肩位置を過ぎ、胴を、腹を通って、醜悪な巨躯を貫通した。そこで異形の咆哮は止み、全ての動きが止まる。
「塵は塵に、土は土に、虚無の児は虚無に還れ」
少年が呟いた瞬間、異形の体が切り離された腕と同様の黒い粒子と化し、蛍の大群が如き光の集合となって霧散した。後には何も残らず、流れ出た黒の血液も、血痕諸共に消失している。
それまで異形の上に乗っていた少年は、異形の消滅と共に再落下し、羽根のような軽やかさで路面へと着地した。それなりの高さから落ちたにも関わらず一連の動きは極めて自然で、且つ一分の隙もない。それは少年の些細な所作にまで反映されており、動きの一つ一つに精練された鋭さと柔軟さが垣間見える。
その間にも周囲への警戒は怠らない。そうして敵勢体の存在が意識の網に掛からない事を確認してから、少年は呟いた。
「休眠形態へ移行後、全拘束にて施錠。聖典封閉」
少年の声が闇夜に融けると、それまで存在していた漆黒の銃は光に包まれ、一瞬にして弾け飛ぶ。それと同時に光は消失し、手の中の銃も消えていた。
再びの静寂が闇夜に戻った時、少年は小さく息を吐く。張り詰めていた気が緩み、漏れ出た安堵の息だった。
一息を吐いた後、少年は踵を返し闇に居直る。そこからはもう、何事も無かったかのように平静とした面持ちで歩き始めた。
少年が踏み出すのと共に、微かな冷気を含む夜風が闇の世界へ吹きさらす。静かに抜けた涼風は少年の頬を撫で、蒼い髪を僅かばかり揺らしていった。
徐々に強さを増していく風。その流れは空へ掛かる暗雲を運び、虚空に煌く月を覆い隠していく。月光の生み出す淡い可視領域が消えると、少年の姿は既に闇に沈み、視認可能な世界から消失した。
後には小さな足音だけが残り、それも少しづつ離れていく。全ての音が消え、微かな風の音だけが響くのに時間は然して掛からなかった。




