ネット小説のタイトルが長文化するのは読者が人間だから
タイトルの通りである。
このタイトルを見て「お?」と思った読者諸兄に説明する必要は無いと思うが、世間での長文タイトルの叩かれ具合は酷いものである。タイトル叩きから始まり小説投稿サイト叩き、そして挙句の果てには作家の人間性や読者の人間性まで批判される始末。最近は以前ほどの苛烈な長文タイトル叩きは無くなったものの、依然としてその気配は残っている。
だからこそ、私はここで声を大にして言いたい。
『ネット小説のタイトルが長文化するのは読者が人間だからである』と。
何を言っているのか分からないと思うので、詳しく解説していこう。
【人間の選択】
タイトルの長文化が叩かれる中で私はこれに近いものを感じたことがある。それはYouTuberのサムネイル叩きだ。今でこそ完全に鳴りを潜めているものの、某匿名掲示板や某SNSでのYouTubeのサムネイル叩きはひどかった。
端的にまとめてしまうと『文字がデカい』だの、『商品を前面に出しすぎ』だの、『変顔し過ぎ』というような内容である。そして、挙句の果てにはYouTuberの人間性を批判するようなものまで見受けられた。ここで起きていることは全くもって長文タイトルと同じである。
人は自分の常識に当てはまらないものを批判し、自己の正当性を保つ習性がある。これは今までの自分を正当化するためであり、自己同一性を保護するためだ。
しかし、安心して欲しい。人の想像と現実は時に簡単に乖離し、予想と違う結果をもたらすものである。
では、どうしてYouTubeの『騒がしい』サムネ及びネット小説のタイトル『長文』化が起きるのだろうか? その理由はたった一言で説明できる。
「競合が多すぎるため」だ。
現在、小説家になろうに投稿されている作品数は80万作品近く。YouTubeでは毎分500時間分の動画が投稿され続けている。消費者はこのような中から、自分の好みの作品を選択しなければならない。するとどうなるか。
消費者は選択しないという選択を取る。
これを裏付ける根拠はちゃんと用意してある。
【ジャム理論】
風が吹けばとんで消えてしまうような木端ななろう作家がそんなことを言っても誰も納得しないだろう。そこで登場していただくのは天下のコロンビア大学様である。セクションタイトルを見た瞬間に納得言った方もいるだろう。ジャム理論とはマーケティングや行動心理学の分野で用いられる人間の選択に関する実験結果を指す言葉だ。
これはコロンビア大学が選択肢の多さが「選択」についてどのような影響を及ぼすかを確かめるために実験したものである。
内容はこうだ。
ジャムの試食コーナーに、
1. 6種類のジャムを用意
2.24種類のジャムを用意
この2つを用意して実験を行い、どちらの売れ行きが好調なのかを確かめたわけである。
試食コーナーへの集まり自体は24種類のジャムの方が多かった。しかし、試食コーナーを訪れた人が出した売り上げの割合は条件1で30%。条件2で3%と、選択肢の少ないときの方が10倍も良いのである。
つまり、人が何かを選択するときにはなるべく選択肢が少ない方が、より選択を行う。これを端的に言ってしまうと、「選択にかかるストレスが少ない方」が選択されやすいということになる。
そもそも人の脳はサバンナにいた時から大きく変化していない。サバンナでは常に危険がつきまとう。余計な選択をし続けることにエネルギーを割き、ライオンに食べられてしまっては元も子も無いのだ。だから、人は選択しないで良いものは選択しないという脳の性質が今でも残っている。
故に、人は選択にかかるコストを極限まで下げようとする。
ここで現代の日本に立ち返ろう。ネット小説にYouTube、さらにはSNSと時間を消費するための娯楽は溢れんばかりにある。日本人の平均寿命は84.43歳であり、これを時間に直すと739606時間となるが、この時間を100%使っても消費しきれないだけのコンテンツ量がインターネットにはあるのだ。しかも刻一刻とコンテンツは増え続けている。
そのような『膨大な選択肢』の中において選択に関わるコストを下げようとすると、『分かりやすい』ものが選択されるようになる。中身が同じであっても、ぱっと見て分かりにくいより、『分かりやすい』方が選択にかかるコストは低い。
これが全ての原因である。
ネット小説タイトルの長文化は中身をより『分かりやすく』説明するために長くなる。YouTubeのサムネは動画内容が端的に分かるように派手な文字や顔芸を使う。全ては人間の脳がサバンナ時代から変わっておらず、選択にかかるコストを抑えようとするからなのだ。
逆説的に言えば中身が分からないような長文タイトルは長くても選択されないということが起きる。これは読者諸兄も作家諸兄も経験のあることではないだろうか。
【最後に】
常識とは18歳までに築き上げた先入観の堆積物に過ぎないと言ったのはアインシュタインである。我々の『常識』とはかくもはかないものであり、それを基準にして批判を行うというのは、酷く感情的に見えてしまい批判の得策とは言えない。また、批判を前提にした思考というのも自ら思考のフレームワークを狭めてしまう。我々は『ホモ・サピエンス』。ラテン語で『賢い人』である。自らの持ちうる知識を活かして、事実を事実としてありのままに理解することこそが大切なのではないのだろうか。