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架空沖縄鉄道史

本来は架空戦記創作大会用に書いていた作品ですが、県鉄が民鉄でないと気づいて同大会での出品を見合わせ、独立短編として投稿いたします。そのため、便宜的に小説はIF戦記としています。

 昭和62年3月31日深夜。沖縄県那覇市中心部に近い国鉄(日本国有鉄道)旭橋駅では、国鉄として最後に運行される電車が、駅長以下大勢の人々に見送られて、走り去っていった。


 電車は那覇鉄道管理局が管轄する4つの路線それぞれに、国鉄最後を記念する装飾を施した最終便が設定されていたが、特に最後に出発した名護線の嘉手納行電車の装飾は一番煌びやかで、編成も通常2連なのを6連に増結し、超満員の乗客を乗せての発車となり、沖縄の国電としての有終の美を飾った。


 こうして、昭和16年の国策による国鉄(鉄道省)への買収以来、沖縄における国鉄(日本国有鉄道)の歴史に幕が降ろされた。


 那覇鉄道管理局管内の鉄道路線と路線バスは、翌日より国、沖縄県等が出資する沖縄県交通公社にその経営が引き継がれ、同鉄道は経営形態は多少違えど、45年ぶりに県営に戻ることとなった。


 この那覇鉄道管理局管内の路線の始祖は、大正3年に那覇と与那原間で開通した、県鉄と呼ばれることになる沖縄県営鉄道与那原線から始まる。


 この沖縄初の鉄道は、軌間762mmの軽便鉄道と日本では呼ばれる所謂ナローゲージ路線であった。


 軽便鉄道は建設時間や費用を抑えられる反面、国際標準軌間の1435mmや日本本土の標準規格とも言うべき1067mmに比べると、車両も設備も遥かに小ぶりな鉄道で、当然輸送力も雲泥の差がある。


 それでも、それまで徒歩や馬車、人力車が主体であった沖縄の陸上交通機関に、沖縄県営鉄道は新たな風を吹き込むこととなった。


 その後県鉄の路線は北と南へ延長し、大正11年に嘉手納線。その翌年に糸満線が開通した。与那原線も含めて、いずれも起点の那覇から出発した終点の駅名がその路線名となった。


 ナローゲージと言う小ぶりな鉄道ではあったものの、那覇を中心とした本島の住民の足として、そして沖縄名産のサトウキビの輸送手段として、県鉄は着実に基幹交通の地歩を築いていった。


 その沖縄県営鉄道に大きな変化をもたらしたのは、戦争と言う激動の時代であった。


 昭和16年12月、日本は米英蘭をはじめとする連合国に対して宣戦布告、太平洋戦争(大東亜戦争)の火ぶたが切って落とされた。


 ただし、これより4年5カ月程遡る昭和12年7月には、日本は実質的に中国(中華民国)と戦争状態に入っていた。これにともない、人的資源・物的資源の多くを国家の統制下に置く、国家総動員法も定められていた。


 こうした各種の統制法により、鉄道も大きな影響を被った。各地の私鉄は陸上交通の調整のために強制統合がなされ、また戦略上重要な私鉄路線の一部は、国に強制買収されて国鉄(鉄道省傘下の路線)に組み込まれた。


 そして沖縄県営鉄道も、その流れから逃れられなかった。


 連合国との戦争が現実のものとして論じられるようになると、それまで軍事的価値をほとんど顧みられなかった沖縄が、にわかにクローズアップされるようになったからだ。


 戦前の段階で、沖縄に展開する軍事力はほとんどなく、アメリカ領フィリピンと接する台湾の方が、はるかに軍事的に見て戦略の要地であった。


 しかし太平洋、特に南方が戦場となる戦争が起きると話は大きく変わる。沖縄は南方に向かう航路や空路の中継点となりえるし、さらに東シナ海など周辺海域の制空・制海権を保持する上で重要な拠点となるからだ。


 このため、開戦を目前にして陸海軍は沖縄の戦力増強に動き始めた。そして早い段階で決定したのが、那覇港の港湾能力強化と、後に嘉手納飛行場と呼ばれる中飛行場の建設であった。


 これは戦前の段階において、那覇港には大型船が寄港するための埠頭さえ整備されておらず、飛行場も小禄にあるものくらいであり、軍事基地化するにはほど遠いレベルでしかなかったからだ。


 さて、港の拡張にしろ飛行場の建設にしろ、莫大な予算と資材、労力が必要となる。この内予算と労力は軍事費からの支出や、軍の工兵を派遣するとともに現地の県民を徴用すればなんとかなる。


 しかし、資材だけはどうにもならない。沖縄では鉄道の建設、それも軽便ではない普通規格の鉄道建設に必要な重軌条のレールも、幅の広い枕木も自力で調達できない。どうしても本土から運び込む必要があった。


 昭和16年10月。開戦を2カ月前としたこの月、政府並びに大本営は沖縄県営鉄道を基地建設のための重要運搬手段として国鉄への買収と、並びに輸送力強化のための通常規格の鉄道への移行を決定した。


 こうして、沖縄県営鉄道は昭和16年12月10日付をもって、国策によって鉄道省の路線へと買収された。ちなみに、鉄道省はこの時代国有鉄道を管轄する役所のことで、戦時中に運輸通信省を経て運輸省となる。


 そして買収がなされるやいなや、路線の軽便規格から通常鉄道への改軌工事が始まった。


 工事は資材を陸揚げする那覇港と与那原の港側から、港の整備と並行する形で始まった。本土から続々と技術者と資材が送り込まれ、それに引き続いて労働者も集められた。これには、現地での動員や朝鮮半島など外地からの動員、さらに本土からも送り込みが行われた。


 本土からの送り込みが行われたのは、沖縄においては鉄道工事従事経験者が必然的に少なかったため、その監督や技術伝達のためであった。


 また労働者たちに先立つ形で送り込まれた技術者は、主に国鉄や陸軍鉄道連隊関係者であった。


 資材は何もかも不足している戦時下であるため、本土で不要不急として廃止や休止になった路線から引っぺがしたレールや枕木、信号設備などが充当された。


 軍の肝いりと言うこともあり、工事は急ピッチで進められた。そして拡幅が完了した区間では、ただちに本土から持ち込まれた機関車を用いての試運転が行われた。


 なお建設時間や資材を節約するため、線路幅こそ1067mmに拡幅されたものの、線路の規格自体は低いものとなった。


 規格が低いと大型の機関車は入ることが出来ず、つまりは輸送力は小さくなる。しかし、そこまでの工事をしていると時間と資金を喰ってしまう。加えて、沖縄の場合路線の総延長自体が短いこともあり、大型機関車で大編成による高速向け路線ではなく、小型機関車で柔軟な運用を行う方が理にかなっている。


 このため、機関車に関しては本土の国鉄線では小型の部類に入るC12型やC56型機関車程度に対応できる設備となった。


 もっとも、本土の幹線で主力を務めるC59やD51等に比べれば、確かに小さく頼りない機関車と言えなくもないが、ついこの間まで軽便規格の機関車しか見たことのない沖縄県民からしてみれば、普通鉄道サイズの車両であれば、小型であっても機関車も客車も貨車も相当な大きなに映る。


内地ヤマトで走ってる汽車はこんなにデカいのか!」


 もちろん、車両だけではない。軽便規格に比べて何から何まで大きな鉄道設備もまた、県民たちの感嘆の声を誘った。


 駅構内の敷地は拡張され、ホームは延長と拡幅がなされ、貨物の荷受け設備も今までより立派なものが短時間で整備された。


 こうして突貫工事の末、那覇港~那覇~与那原を結ぶ線の拡張工事が昭和17年6月に完成し、この区間における通常鉄道での運転がはじまった。


 続いて、飛行場建設が行われる嘉手納に結ぶ路線の拡張工事がスタートした。この時点では那覇の港の改良工事は完成には程遠かったものの、こちらも急ピッチで工事が進められた。


 昭和17年4月に本土が初空襲を受け、さらに東シナ海でも米潜水艦が跳梁跋扈しているため、中飛行場の建設は急務であった。


 嘉手納線の工事は、那覇側から順繰りに行われ、完成した区間には即通常規格の車両が進入し、貨物や人員の輸送に対処した。


 そして昭和18年2月、嘉手納線の全線通常規格化が完成した。これに伴い、与那原線と嘉手納線が通常規格での車両運用となった。


 ほぼ同じ頃、那覇港ではようやくのこと、埠頭が1カ所完成したこともあり、両線の輸送力は飛躍的にアップした。

 

 大量に運び込まれた資材が嘉手納に輸送され、中飛行場の建設は突貫で進められ、昭和18年8月には航空隊が展開可能となった。


 こうして通常規格鉄道となった嘉手納線などの運航を管轄したのが、那覇に設けられた那覇鉄道局であった。鉄道局は管轄下の路線の運航などを掌り、鉄道省を補佐する機関であるが、路線長で言えば那覇鉄道局の管轄は短いものであった。


 それでも、九州からも台湾からも距離のある島を走る特性上、独立した局が設置されたのであった。


 もっとも、戦時中の那覇鉄道局管内の路線は、国鉄への買収目的からして軍事利用であり、民政への貢献度は小さなものであった。何せ乗客も貨物も軍事利用が優先され、そこから余った分を民生用に回すと言った状態であった。

 

 ただそれでも、通常規格となり1本あたりの輸送力が増加したため、民生需要を何とか回すことができた。


 嘉手納線と与那原線の工事は昭和18年2月に完成したが、残された南部へ向かう糸満線の工事は、両線に比べて、当初はるかにゆっくりしたものだった。


 これはこの時点では南部への軍事施設の建設計画がなく、糸満線を慌てて拡張する必要もなかったからだ。もちろん、沿線住民からは糸満線だけが事実上分断され、軽便規格のまま残されるのは不満で、幾度となく陳情も出されたが、物資不足と労働力不足も相俟って、規格統一目的から工事の続行こそなされたものの、糸満線の工事は昭和19年半ば時点でも終わらなかった。


 風向きが変わったのは昭和19年7月のマリアナ諸島陥落により、沖縄への敵軍進攻の可能性が急浮上したことであった。


 大本営は沖縄本島の軍備をこれまで以上に、特に敵の上陸に備えたものへと強化する必要に迫られた。


 そうなると、沖縄の鉄道の役割は再び大きなものとなる。しかも、今度は全島の軍備を強化する必要上、糸満線の拡張も必要であるし、さらに嘉手納止まりの嘉手納線を名護まで延長することも決定した。


 さらに、一部の無蓋貨車(屋根なし貨車)には機銃が取り付けられ、陸軍の兵隊がその操作員として配置された。また機関車や有蓋貨車(屋根付き貨車)、客車には迷彩塗装が施され、予想される空襲に備えた。


 そして昭和19年10月10日、ついに恐れていた米軍による初空襲が沖縄本島に襲い掛かった。それも、世界最強の米海軍第38機動部隊による大規模な艦載機による空襲であった。


 この大編隊は中飛行場近くに設置された電探により探知され、ただちに同基地に配備されていた陸軍戦闘機約40機余りが出撃した。また遅れて小禄の飛行場からも海軍の零戦が20機余り飛び上がった。


 しかしこの迎撃機が地上からの管制を受けられず、さらに充分な高度を稼げぬままに、米軍機に被られてしまった。そのため、果敢に迎撃した一部の機を除いて、ほとんどが撃墜されるか遁走を余儀なくされた。


 こうなると、沖縄上空の制空権は完全に米軍のものとなり、日本側の反撃手段は対空火器のみとなった。


 結局のところ、那覇の市街地の半分以上が焼失し、那覇港に停泊中の艦船にも大打撃を受け、各地に集積されていた軍需物資も被害を被ることとなった。


 鉄道も例外でなく、複数の駅施設や車両が被災した。ただし、幸運だったのは軌道の被害はそれほどでもなく、点検が完了した翌日には全線で運転を再開し、復旧のための資材や人員輸送に貢献することとなった。


 なお、この空襲で走行中停車中含めて数両の機関車と客車などが機銃で損傷したが、一方で貨車の1両に搭載された機銃が撃墜1機を報告しており、一矢報いている。


 このいわゆる10・10空襲後、糸満線の工事が急ピッチで進められ、11月に完成。これで県鉄以来の軽便規格路線は消滅した。


 なお、県鉄以来の軽便規格の車両は一部が本土や台湾の鉄道に譲渡(ただしほとんどが輸送船と共に海没した)されたが、それでもなお多くの車両は糸満線に残存していた。


 これらも他路線への譲渡も考えられたが、既に輸送手段がなくなっていたため、幸運な一握りの車両を除く多くの車両は、空襲時の囮目標や、その後の地上戦のバリケードとして使用され、消滅していくこととなる。

 

 一方本土から持ち込まれた通常規格の車両たちは、10・10空襲後も陣地や飛行場の建設に伴う物資の輸送や、沖縄外或いは沖縄内での疎開する人々の輸送を、運行停止となるその日まで継続した。


 車両の不足や軍事優先、度重なる空襲なども加わって、もはやダイヤはメチャクチャであったが、それでも県鉄出身者も鉄道省出身者も一致団結し、列車の運行に尽力した。


 しかし米軍の上陸が迫った3月下旬から各路線の運行は次々と休止となり、最後まで運行が行われた嘉手納線の嘉手納~名護間の運行が、正式に終わったのは3月31日のことであった。


 翌日には米軍部隊による上陸がはじまり、運行は不可能となった。そして事前に用意されていた退避壕への入線や、分散して側線へ退避して擬装を行ったところで、汽車の火は完全に落とされた。


 その後軍の命令で夜間に物資や部隊の移動のために、散発的な運転が行われたものの、戦闘の激化により公文書が残らず、また関係者にも多くの犠牲を出したため、詳細に関しては不明である。


 県民を巻き込んだ悲惨な地上戦となった沖縄戦は6月27日に終了したが、沖縄の鉄道の再開はなんと4月下旬に、米軍占領地域となった嘉手納線で既に始められていた。


 これは当時の沖縄の道路事情が極端に悪く、米軍としても大量の物資を運べる鉄道の復旧は歓迎すべきことであったからだ。


 加えて空襲や艦砲射撃によって、施設や車両に甚大な損害を被っていたものの、線路に関しては比較的損傷の度合が小さく、簡単な補修さえ施せば早期に復旧可能であったことも大きい。


 そこで米軍は早速軍内部にいた元鉄道関係者を招集するとともに、捕虜とした日本人の中にいた同じく鉄道関係者を見つけ出し、その復旧作業に当たらせた。


 車両は空襲などで損傷していたが、それでも比較的損傷軽微な機関車や客車、貨車が選別されて修理された。


 また米軍は不足分を補うために自国製の機関車を、現地規格に改軌したものを手配した。


 こうして4月30日には米軍の臨時鉄道管理隊の指揮下のもとで、名護~嘉手納間で運行が始まった。


 この運行は前線が南部へ移動するとともに南方へと徐々に伸び、第32軍司令部が玉砕した6月25日には那覇を経由して那覇港までの運行が再開された。さらに終戦を迎えた8月10日には、与那原線が運行を再開した。


 これらの運行再開は、当初は米軍の物資並びに人員の輸送に限られていたが、8月15日には一般にも開放された。


 さて、戦争は終わったものの沖縄は米軍の占領下におかれ、その下に沖縄人による琉球政府がおかれたものの、実質的に日本から切り離された。


 ここで、鉄道の運行母体が問題となった。沖縄の鉄道は国に買収され運輸通信省の省線となっていた。そのため、県鉄からの引継ぎ者も多かったが、本土からやってきた国鉄職員がいないと運営が成り立たなくなっていた。しかも沖縄戦で職員の多くが死傷したのだから尚更である。この状況で本土に戸籍を持つ者を帰してしまうと、運行が成り立たなくなる。


 米国側から鉄道職員を連れて来るという方法もあったが、運行方式などは日本式であるため、日本人にやらせる方が得策であった。


 そのため、沖縄の鉄道は現地米統治機関の直轄機関とされ、運行を日本の国鉄(昭和24年に公社化して国有鉄道)に委託するという、変則的なものとなった。


 これにともない、昭和22年に沖縄の鉄道の運行を米統治機関から委託され、執り行う機関が那覇に新たに置かれた。この那覇鉄道管理局が、全線の運行を所管することとなった。


 この年には最後まで残されていた糸満線の未復旧区間も復旧し、沖縄の国鉄線は全線復旧した。加えて米統治機関からの命令で復旧とともに、線路規格の増強工事も行われ、本土で言うところの特別甲線に準じた路線となった。


 このため、GHQの命令で戦後早い段階でD51,C59と言ったこれまでなかった大型の機関車が本土から移送され、沖縄の線路上を走り始めた。


 米統治機関が沖縄の鉄道を増強したのは、もちろん自軍の基地建設や人員の輸送に好都合であったからだ。このため、何カ所で基地建設のために線路の移設が実施された。


 こうした状況を沖縄の人々は苦々しく見るしかなく、大型車の導入が行われたとはいえ、軍事優先のためにすし詰めの客車に乗り込み、ボロボロの貨車で荷物を運ぶしかなかった。


 米国による統治は昭和45年に終了することとなるが、沖縄の鉄道の改良は本土と同じく1950年代後半から本格的に進んでいく。特に早かったのが、電化と旅客への高比重化への転換であった。


 電化は蒸気機関車の煤煙や火の粉の被害が、狭い島だけに本土よりも深刻なものとして受け取られたことによる動力近代化の一環であった。ディーゼルを通りこして一足飛びに電化となったのは、米統治機関がより高効率なエネルギー手段を求めたためであった。

 

 そしてこの電化を、国鉄側は交流電化の良い実験と見た。国鉄をはじめとして、日本の鉄道では直流電化が主流であったが、技術的には簡易であるが変電所を多くする必要があり、設備投資費が大きくなるのがネックであった。


 戦争が終わり、日本が復興から高度成長に入った時代、戦争で停滞した鉄道における技術革新は大きく進み、その中には交流電化もあった。


 昭和35年に沖縄の各路線の交流電化計画がスタートし、翌年まず嘉手納線の旭橋~嘉手納間で電化が完成。本土より持ち込まれた421系電車による交流電車運転がスタートした。


 この421系電車は鋼製であったため、海風が強い沖縄での使用に難があり、昭和50年代半ばになると後継のステンレス車である425系へと置き換えられている。


 さらに与那原線、糸満線も昭和40年までに逐次電化され、旅客列車が走る路線の全線電化が完成した。これによって輸送力ならびに列車の車内環境は大幅に改善され、沖縄の人々から大いに歓迎された。


 なお米統治機関の命令で道路整備とそれに伴うモータリゼーション化が早かった沖縄では、鉄道貨物のトラックへの転移も早く、昭和30年代に入ると大幅に衰退した。皮肉なことにそれでも貨物列車が残ったのは、駐留米軍という大口の客がいたからであった。


 この貨物列車は非電化の専用線に入線することから、機関車は蒸気から電気ではなく、ディーゼルのDD51形への切り替えとなった。


 昭和45年に沖縄は日本へと復帰し、それまでの米統治機関からの委託運転という歪な状況は解消され、沖縄の国鉄線は名実ともに日本の鉄道に復帰した。


 昭和50年には那覇港への線路を延伸する形で那覇空港までの路線が開業し、空港アクセスの役割を担う様になった。


 一方この頃、那覇市内は自動車の増加が顕著で連日大渋滞となっていた。対する市内の国鉄線も朝夕のラッシュ時は最大9両編成の列車が走るほどに混雑していた。


 こうなると、市内に多数ある踏切は道路交通の障害と安全性から問題となり、国鉄は段階的に高架化を進めていくことになる。区間は那覇空港~旭橋~城間駅の間で、工事は都市部における仮線の用地買収に苦戦したものの、昭和55年に完成した。


 この工事で那覇市中心部の旭橋駅は3面6線の高架駅となり、沖縄のターミナル駅としての面目を一新した。


 こうして明るい話題に恵まれた沖縄の鉄道であったが、運営母体の国鉄は赤字が膨らんでおり、昭和62年の分割民営化が決定した。


 この分割民営化については、数案が出されたが、沖縄の国鉄線は4路線ともが黒字と言う優良路線であり、また貨物や手荷物の需要も本土に比べると一定のレベルが残されていた。加えて、本土とは離れた独特の風土に沿った特徴も、戦後の長い営業期間の間に育まれていた。


 そのため、沖縄県内からはいずれの案にせよ、民営化によるサービスの低下が懸念された。赤字の国営から民営化してサービスの低下とは不可解な話だが、それほどまでに沖縄県民にとって那覇鉄道管理局管理課の路線は信頼できる交通機関であったのだ。


 これは沖縄の場合他の陸上交通機関はバスしかないという、特異な環境にあったのも大きい。比較される組織もなく、加えて本土の国鉄とは大幅に違う郷土色の強い鉄道であることが、この信頼に繋がっていた。


 こうした事情から、結局の沖縄の4路線は民営化ではなく沖縄県が中心となって出資する第三セクター会社に引き継がれることとなった。


 これと同時に、那覇の鉄道管理局は廃止となり、沖縄県交通公社鉄道部へと改組された。


 しかしながら、車両などのデザインは社章類こそ変更されたが、その他はほとんど変わりない姿で営業が続行された。


 そして現在、同鉄道はかつての愛称である県鉄とも、あるいは未だに国鉄とも沖縄県民に呼ばれながら、盛業中である。





 


 

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[気になる点] 戦後持ち込まれた蒸気機関車は、本土で中途半端化しつつあったC50(68以降)を主力にし、駐留軍命令で製造されたC58戦後形(428以降とか)が少数投入されていたかも知れません。 C50…
[一言] 夢ありますよね。 沖縄に国鉄があったら、北海道から沖縄までの鉄道旅が出来たかもしれないわけですからね。 連絡船が廃止され、鹿児島から沖縄までのトンネルが開通しているかもしれませんね。 工費が…
[一言] JR九州や沖縄とならず 県営鉄道に戻る結末ですか
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