■第5話 王都『ヴィルドラッヘ』
――温かい。
ぬくもりが肌を通して伝わってくる。これは人肌――だろうか。柔らかくてすべすべとした感触が頬に当たっているのがわかる。
(姉、さん――か?)
感じたことのあるその感触は女性特有のものだ。俺に対してそんなことをするのは姉さんを置いて他にはいない。
(しょうがない人だな……)
姉さんの悪い癖だ。何にでも抱きつく癖はどうにかして治してもらわないとな。小さい子なら一歩間違えれば窒息してしまうところだ。――起きたらきつく言っておこう。
寝相の悪い姉さんの胸元から顔を出すと、朝の陽光が俺を照らしているのがわかった。
(――あぁ、もう朝なのか)
薄く広げた眼で窓から外を覗く。木々に留まっている小鳥たちが鳴いているのがそこから見えた。
「……ん……」
眩しい光が俺の視界を遮る。俺は思わず手をかざしてそれを避けながら、身体を起こした。
そして、手を挙げた形で静止していると――――
「う……ん、もう朝ぁ……?」
「――ッ!」
そんな声が耳に届いたとき、俺は上半身を素っ裸にされていたことにようやく気付いた。そして、目の前にはどことなく姉さんと同じ雰囲気を持った半裸の女性。
「――ッ!?」
――だが、それは姉さんではなかった。
(――なッ!? 俺はさっきまで自分の部屋で寝ていたはずだぞ――ッ、三人で狭いベッドに無理やり入って、それから――――ッ!?)
――その前後の記憶が全く無い。
思い出せるのは、自分の名前と姉さん――そして、ツバキの三人だけだ。
だが、今は――――
「――ッ――」
俺はなりふり構わず、その声の主から飛び退くように離れた。
「ん……あぁ、駄目よそんなに動いちゃ……色々、ガタが来てるんだから」
「――あぐッ!?」
全身に激痛が駆け巡った。痛みに顔を引きつらせたまま、俺はその場に崩れ落ちる。
「ほら、見なさい」
女がため息混じりにそう言った。どうやら俺のこの状態を知っているらしい。
――だが、それだけだ。信用が出来るわけではない。
「――誰だ、あんたは」
キッと女を睨む。――それが今できる精一杯の抵抗だった。
「そんな警戒しなくても……って言っても、無理な話よね。あれだけのことがあった後だもの」
「――?」
――なにを言っている?
その口ぶりからは俺自身のことも知っているようだ。立ち上がった女はゆっくりと歩み寄り、俺の前で膝を折った。
「私は、クラウディア。クラウディア=ウォーエンハイムよ。クラウでいいわ。ここで《治療士》をやっているの」
優しく微笑むクラウからは、全く敵意は感じられない。それどころか、その仕草ひとつひとつが姉さんを思い出させる。だからなのか、俺の警戒は自然と緩んでしまっていた。
「――――」
身体の緊張を解いて、クラウの瞳を見つめる。
「話を聞いてくれる気になったみたいね。良かった」
「――ッ――」
そう言いながら、クラウは俺の顔を下から覗き込んできた。
その姿が姉さんと――――被、る。
「ぁ――ッ!?」
どくんと、血が滾るように胸の中が熱くなった。姉さんと同じその仕草に、その表情に、胸が締め付けられる。息が出来ないほどの動悸が俺を襲った。
「――……ぁ、かは――……ッ、ぁ――……ッ」
苦しくてうずくまる。なにかが俺の全身を駆け巡っていくようだ。
「――ッ、息を吸ってッ! 大丈夫、大丈夫だから――ッ」
クラウの必死な声が聞こえる。
黒い感情が俺の中から生まれ出ようともがいているのがわかる。それは決して出してはいけないものだと本能が言っていた。
「――ッ、ぁ――ッ、――はッ」
短く息を吸う。痛みのみを逃すように吐き出していく。
「そう、落ち着いてゆっくり息をするの――出来るでしょう?」
「姉――さ、ん――ッ」
意識が混濁する。目の前にいる女性がどちらなのか判断できないほどに。
「そうよ、ここには貴方の敵はいないわ。みんな味方よ、安心して」
「――ッ、ぁ、は――ッ、ぁ――ッ」
必死に俺を繋ぎ止める。別の何かになってしまうような不安に押しつぶされそうになりながらも、その声だけを頼りに虚空へと手を伸ばす。
「姉――さ……ッ」
「――ッ、大丈夫よ。貴方は私が護ってあげるから」
「――ッ!?」
――その言葉に姉さんが重なった。
「――ッ、ぁ、はぁ……ッ、はぁ……ッ」
唐突に意識が戻ってくる。抱きしめるクラウの感触がぬくもりとして感じられると、俺は荒く息をしながら壁に背をつけ座り込んだ。
「――なんとか落ち着いたみたいね。だいぶ焦ったわよ、もう」
ゆっくりと離れたクラウは俺の頭を優しく撫でた。
「――……やめてくれ」
そっとその手を払い除ける。照れ臭さもあったが、なにより姉さん以外に触られるのはあまり好きじゃない。
「そっか、それは残念。いつか懐いてくれると嬉しいわね」
本当に残念そうな表情を浮かべ、クラウは微笑んだ。寂しそうなその表情を俺がさせていると思うと、少しだけ心が痛む。――が。
「それにしても、貴方の身体って不思議ね~」
――そんなのは杞憂だったらしい。
にやっと笑ったクラウは、俺の身体をぺたぺたと触り始めた。
「――ッ!?」
「長年《治療士》をやってるけど、こんな身体見たこと無いわ」
夢中になって俺の身体を触り続けるクラウには、もはや姉さんの面影は感じられなくなっていた。容姿も良く見れば全く違う。薄い紅の髪と瞳。母性を感じる包容力や体付きは姉さんよりもずっと大人びていた。
それに、全体的な雰囲気はある種の気品のようなものを感じる。
「あれだけのことがあって無事なのは姫様くらいだと思ってた」
「ちょ、やめ――ろッ」
思うように身体が動かない俺には、非力そうなクラウですら引き剥がすことは難しかった。
「あら、いいじゃない。減るもんじゃないし~」
にやにやと笑いながら、押し倒される。身体の自由が利けばそんなことにはならないのに。
「特にぃ~、こ・こ・と・か――」
つーっと俺の肌に指を這わせていく。その感触が俺の背筋をぞくぞくと反応させた。
「――――なにをやっておるのだ? のう――クラウディアよ」
「――――ッ」
その声にクラウの身体が反応し、笑顔のままぴたりとその動きが止まった。
「あ~……えと、こ、これはぁ~……」
たらたらと冷や汗を垂らしながら、ぎこちない動きでクラウが振り向く。
「いつになく張り切っているなと思えば……――やはりこういうことだったか」
その視線の先には仁王立ちでこちらを見下ろす小柄な少女の姿があった。少女らしい相応の表情を浮かべながらため息をついている。
「人のものに手を出す癖は昔から変わらないみたいだな」
少女がちらりとクラウを見やる。
だが、放たれるその威圧感はとても少女のものとは思えない。蛇に睨まれたカエルのように縮こまったクラウの姿は、先ほどと打って変わって小さく見える。
「えっとぉ~……あぁ――ッ、おはようございますぅ、姫様ぁ」
「ございますぅ、ではないわ」
わざとらしく笑顔を浮かべるクラウに、少女は目を細めた。
「よくもまぁ、主君に隠れてぬけぬけと」
「あ、いや……これは、そのぉ……未知への探究心というかぁ」
クラウは汗を垂らしながら視線を泳がせる。なかなか少女の瞳を見れずにいるようだ。
「――ほう」
言い訳はそれくらいかと、少女の瞳が訴えかけていた。
「当然――覚悟を決めてからの行動だろうな」
「はひぃッ!?」
少女の紅蓮の瞳が怪しく光る。
一層睨みを利かせて一歩踏み込んだ少女に、クラウはびくぅっと身体を跳ねさせた。飛び退いたクラウは顔を引きつらせながら、後ずさっていく。
「ちょッ、ま、待ってッ、待ってくださいッ! 姫様に本気だされたら死んじゃう――ッ」
クラウが壁伝いに逃げていくのを、少女は獲物を狩る獅子のようにゆっくりと追い詰めていった。
「安心しろ、痛くはしない」
「嘘――ッ、ぜぇーーーったい嘘ですッ! そんな目で言ってもぜんっっっぜん信じられませんからねぇッ!? 子供の頃のこと、忘れたとは言わせませんよッ!!」
――いったいどんな目に遭ったというのだろう。
泣き喚く子供のようなクラウ。その様子を見るに、忘れられないほどの深い傷を負わされたのだということは容易に想像できそうだが。
「――長い付き合いだ。せめて、一瞬で終わらせてやろう」
口元を緩めた少女がゆっくりとクラウに近づいていく。とうとう部屋の隅まで追いやられたクラウは逃げ場を失い、その場にへたり込んだ。
「いや、あの……姫様ぁ? ほんの冗談、冗談ですよ……っ、あはは……」
弱々しく少女を見上げる。笑って見せるが、少女は歩みを止めようとしない。
「――――」
やがて、少女の影がクラウに重なった。見下ろす瞳には未だ紅蓮が灯っている。
「え、いや、ちょ――ッ!? ねぇ、聞いてますぅッ!? ちょ、あ、やめ、やめてぇぇぇーーーーッッッ!?」
「――聞かない♪」
少女がにっこりと笑った。
「――――」
全てを悟ったクラウの顔はとても清々しかった。あぁこれもう駄目だ、という諦めの境地が表情から垣間見える。
――それ以上は見るに堪えず、目を瞑って耳を塞ぐことしか出来なかった。
◇
「……ぁ、ちょ――ひ、さ……――そこ、は……――――ッ」
耳の隙間から時折聞こえてくる、なんともいえない甘い声。
「――――ずいぶ――――大き……ったも……な」
容赦なく少女の制裁が行われているようだ。見てはいけないとわかりつつも、うっすらと目を開ける。
「――あふぅ……ッ」
すると、目の前には身悶えたクラウがぴくぴくと身体を痙攣させていた。肩を揺らすほどの荒い吐息がクラウの口から漏れている。
「……」
――本当に一瞬の出来事だった。
きっと、俺の想像を超えた壮絶な光景が繰り広げられていたのだろう。
「うぅ……姫様に穢されたぁ……」
床に転がるクラウが、顔を押さえてしくしくと泣いていた。
「いらんところばかり育ちおって……少しくらい私に分けてくれてもいいだろうに」
少女がむすっとした顔をしながら、自身の胸元を手で押さえた。確かに少女の体躯はその物言いよりもずっと幼く見える。
「……そうですねぇ。姫様――絶壁、ですものねぇ」
寝転んだクラウがぽそりと呟いた。聞こえないようにしたつもりだろうが、結構しっかりと聞こえてしまっている。
「ほう……まだ懲りていないようだな」
「あ、嘘です――ッ、嘘ッ! いやです姫様、私がそんなこと言うわけないじゃないですかぁ」
慌てて飛び起きたクラウは必死に弁明するが、今度は冗談では済まなそうだ。その証拠に、さっきよりも洒落にならないくらいの怒気を放っている少女に視線を向けた。
「――覚えていることだな、クラウディアよ。この胸の怒りは何よりも重いからな」
この分だと、だいぶ気にしているようだ。クラウも苦笑いを浮かべている――と、少女と視線が重なった。
「それはさておき……ようやくお目覚めか――お姫様」
俺を見て、にやりと少女が笑った。――――……お姫様?
「もう、三日だぞ? そろそろ口付けを交わそうかと思っていたところだ」
「――ッ!?」
冗談めかしたことを少女に言われ、慌てて口を押さえる。だが、その行動も見透かされていたようだ。
「安心しろ。まだ何もしていない」
そう言って少女が意味深な瞳を俺に向ける。その含みのある言い方に俺は少しだけ警戒した。
「そう睨むでない。冗談だ、気にするな」
少女が目を瞑る。本当に何もする気は無いようだ。
「あんたは……誰だ?」
「ん? 誰って――あぁ、お前はまだ初対面だったか」
「――?」
――どういう意味だ? まるで、俺を知っているかのような物言いだな。クラウにしてもそうだったが。
「私の名はティファニール。ティファニール=ラ・ヴィル・ドラッヘだ。一応この国の姫をやっている」
腕を組み、威風堂々としている様は本当にその地位にいる人物なのだろうと思わせる。
「――この国?」
「あぁ、ここはお前のいた人の民の領地ではない――」
窓へと視線を向けて、少女が言う。
「この国は、我ら竜の民の都――王都【ヴィルドラッヘ】だ」
少女の視線の先へ顔を向けると、城下に広がる広大な都が俺の視界に飛び込んできた。
「――――」
その綺麗な光景に完全に目を奪われる。そうして呆然と眺めていると、ティファニールがこちらに振り向いた。
「そして、今からお前は――」
向き直ったティファニールは俺の瞳を見つめ――
「――私のものだ」
――そう、言い放つのだった。