■第4話 ある日の記憶
「――――うぁぁぁぁぁッッッッ!?」
せきを切ったような悲鳴が部屋に響く。
「はぁ――ッ、はぁ――ッ」
辺りは真っ暗。静寂に包まれた暗がりの部屋で、その悲鳴と共に飛び起きた青年は顔を青ざめさせながら上下に肩を揺らしていた。
「はぁ――……ぁ――ッ――」
汗を拭うことも忘れて、荒げた息と激しい動悸をただただ繰り返す。
真夜中の真っ暗な部屋。静かな夜更けにフクロウの鳴き声が耳に届く。月夜の明かりしか照らすものがないそんな部屋で――俺は額に汗を浮かべていた。視線だけをゆっくりと動かすが、辺りには誰も見当たらない。
「――ッ――」
身震いする右腕を押さえると、汗が俺の頬を流れていった。手で顔を覆いながら、その隙間から見える部屋をもう一度見回す。
見たことは――ある。それも、古くから知っていたかのような、懐かしい感覚。
「こ、こは――……」
――――通路から慌てた様子の足音が聞こえてきたのは、そのときだった。
「――――どうしたの、ジノっ!?」
血相を変えながら、勢い良く扉を開けて姿を現したのは綺麗な女性。白のネグリジェに、美しいさらさらのブラウンヘア。目元を垂らした優しい瞳を潤ませながら、心配そうな眼差しで俺を見ている。
「あ、えと――ッ」
思考が追いつかない。混濁した記憶の中で必死にその人の名前を思い浮かべる。
「その――……ッ」
――だが、思い出せない。この女性は誰だったか――と視線を泳がせていると、いつの間にか目の前にいた女性が俺の顔を覗き込んでいた。
「――ッ!?」
「――ジノ?」
びくっと俺の身体が反応してしまった。急いで顔を背けると、不審なその様子に女性は小首をかしげた。
「どうしたの、ジノ?」
気まずくてその顔を見れないでいると、女性がさらにかがんで膝を折った。心配する瞳が俺を見つめているのがわかる。目線を見上げるようにする仕草は子供を安心させる母親のようだ。
「大丈夫――?」
「あ、あぁ……だいじょ――」
――大丈夫。そう答えようとしたとしたとき――雫が頬を伝う感触がした。先ほどの悪寒から来る汗ではなく、それは俺の瞳から零れ落ちていた。
「――え」
頬を触ると確かに濡れている。――わけもわからず、涙が出ていた。
「なんだ、これ――」
女性の姿を見たとき。その声を聞いたときからずっと流れていたらしいそれは、俺の意思とは関係なく止め処なく溢れている。
今の俺ではない――誰かが泣いているみたいだ。
「えと、これは――ッ」
隠そうと、慌てて手で拭う。小さい子供のように泣いてしまう、そんな姿が恥ずかしくて。
「な、なんでもない、から――ッ」
顔を覆う俺の手に、すっと彼女の手が伸びてきた。
「――大丈夫よ。ジノ」
「――ッ――」
――温かい。安らぎを与えてくれる、そんな手が。
そのまま俺の手に触れて、そっと優しく包み込んだ。彼女のぬくもりが肌を通してしっかりと伝わる。
「お姉ちゃんが護ってあげるから」
その声を聞いた瞬間、身体の中から何かがこみ上げてきた。安心、不安、恐怖――そして、怒り。色々な感情が爆発したように止め処なく溢れてくる中で、俺の頭に浮かんだのは――――
「姉――――さん?」
「えぇ、そうよ」
優しく微笑む、姉さん――アルメイダ=ヴァーナヴィッヒの名前だった。
「きっと怖い夢を見たのね、かわいそうに」
包んでいた手を離し、手を広げた姉さんはゆっくりと俺の頭を抱える。
「姉――さ――」
そのぬくもりに寄り添うように全身から力が抜ける。緊張に強張っていた身体はその腕の中に埋もれていく――その、ネグリジェから覗く白い肌の中に。
「――ッ!?」
意識が覚醒する。カッ、と見開いた目に飛び込んできたのはそんな光景だった。
よしよしをするように頭を撫でる姉さんの胸から、ふにょん、と柔らかい感触が頬から伝わる――ではなくてッ!
「ちょ、だ、大丈夫だから――ッ!?」
その感触に、思わず身体を離す。
「もう、我慢しないの。ジノはいつもそうなんだから」
「――んむッ!?」
だが、そんな抵抗は無意味だった。頭を抑えられていた俺は簡単に捕まってしまう。
「ちょ、姉さ――ッ」
昔からの癖。子供をあやすときに使うそれは昔からの常套手段だ。その抱きつき癖はいつまで経っても治りそうにない。
「よしよし。ジノはいい子ね」
「……むぅ」
それなりに大人になったつもりだが、いつまで経っても姉さんからすればまだまだ子供らしい。いつまでも護られているだけでは駄目だと思いつつも、こうされるとどうしても拒めないのはきっと俺がまだ姉さんに甘えている証拠だろう。
――――声をかけられたのは、そんなときだった。
「――ジノ、にいちゃん?」
暗がりから、控えめな女の子の声。枕を抱えている少女が、扉の陰からこちらを覗いていた。
「あらあら、起きちゃったのね――ツバキ」
ツバキ――姉さんにそう呼ばれた少女は、俺の声に目を覚ましてしまったようで、目をこすりながら扉の前に立っている。艶やかな黒髪と小柄な体躯。人形のような姿をした少女はうつむいたまま目尻に涙を溜めている。
「………………」
「ツバキ――?」
どうも様子が変だ。単に目を覚ましただけ、というわけではないらしい。その寂しさに染められた瞳を向ける少女へ、俺は優しく微笑んだ。
「おいで、ツバキ」
「……ん……」
広げた腕を見て頷いたツバキは、トコトコと小刻みに歩いてくる。そのままベッドに座る俺の懐へ飛び込んできた。後ろから抱きかかえる形ですっぽりと収まる。
「どうした? ツバキ」
落ち着かせるように、その頭を優しく撫でる。
「貴方も――怖い夢を見たの?」
姉さんも心配そうに顔を覗き込んでいた。
ツバキは溜めた涙を拭いながら話し始める。
「――うん、ジノにいちゃんがいなくなっちゃうゆめ……それと、アルおねえちゃんもいなくなっちゃ……えぐっ」
拭った涙がすぐに溢れた。よほど悲しい夢だったのだろう。
「ご、ごめんッ! ツバキ――もう大丈夫だから、安心しろ。な?」
先ほどの姉さんの真似事。後ろからツバキを抱きしめて、よしよしと頭を撫でる。これをされるとここで姉さんに育てられた子達はみんな安心して泣き止むのだ。
「……ん……」
撫でられる頭が気持ち良いのか、ツバキは目を細めて幸せそうな表情を浮かべた。
「ジノ、にいちゃん……アルおねえ、ちゃん……ずっと――いっ、しょ……んぅ」
「もう寝ような、ツバキ。朝まで隣にいてあげるから」
「……ん……ぅ」
頭をこくんと揺らしながら、ツバキはすやすやと寝息を立てる。
「おやすみ、ツバキ」
最後にツバキの頭を撫でた後、ゆっくりと横に寝かせた。
「――さて、私たちも寝ますかぁ、ふぁ……」
安心した姉さんが背伸びをして、大きくあくびをする。
「ゴメン、姉さん――こんな遅くに起こしちゃって」
「いいのよ。そ・れ・に、ジノの泣き虫は昔から慣れてるしね~」
「……うッ」
にやにやとこちらをからかうようなその視線に、途端に恥ずかしさがこみ上げてきた。かぁっと顔が熱くなる。本当に子供の頃から姉さんには頭が上がらない。
――それはこの先もきっと変わらないのだろう。
「でも――そうね」
うーん、と考える素振りを見せる。
「もし、私が危ない目に遭ってたら……その時は助けてくれる?」
「――ッ」
上目遣いのこちらを覗き込むような視線に一瞬ドキッとして言葉に詰まるが、すぐにその潤んだ瞳を見つめ返す。
「うん――――その時は、俺が姉さんを護るから」
これは俺が子供の頃から決めていたことだ。姉さんのためなら俺の身を犠牲にしてでも守り抜こうと、拾われた日に誓った。それは今でも変わらない。
大切な人を護るためならば昔見たあの童話のように、この身を天を穿つ槍にも変えてみせよう――と。
「――――――――…………ッ!?」
姉さんが同じ体勢のまま、目を丸くして固まった。程なくして、顔が真っ赤に染まる。
「な、な、な、ななな――ッ」
口をパクパクとさせて、徐々に後ずさっていく。
――珍しい。姉さんがうろたえている姿なんて初めて見た。
「ちょ、ちょっと待って……ッ、ちょ、え、嘘――ッ、なに、なにこれぇッ!?」
両手で赤面した顔を押さえて、後ろを振り向いてしまう。何か悪いことをしてしまったのか。
「姉さん?」
後ろを向く姉さんに呼びかけるが、こちらを向いてくれない。
「あ、ちょ……っと、今は無理――ッ、ごめんッ、顔、見れない――ッ」
「――?」
――どうしたというのだろう。ちょっとうろたえすぎでは?
「どうしたのさ」
「あひゃい――ッ!?」
こちらを振り向かせようと姉さんの肩を掴むと、びくっと姉さんの身体が反応した。
「ど、どうしたのッ!?」
普段は見せないそんな反応に俺は慌てて手を離す。ぷるぷると震える身体を押さえながら、ようやく姉さんはゆっくりと振り向いた。――だが、その瞳は鋭く俺を睨んでいた。
「~~~~~~…………ジノの……ばか」
姉さんは口をつぐみ、涙目でそう訴える。
「えッ!? いや、俺なにかしたッ!?」
「――――…………知らないッ!」
ふいっとそっぽを向いた後、姉さんはツバキの眠るベッドへ潜り込んでしまった。――いったい、なんだと言うのだろう。さっぱり見当も付かない。
「姉さん?」
「…………」
「おーい」
「…………」
姉さんからの返事は無い。
ふてくされた子供のように布団を被る姉さんを引き剥がすわけにもいかないし、どうするかと考えていると――――
「――――」
――ひょこっと顔を出してくれた。
「よかった、このままだと追い出される羽目に――」
「――さっきの……本当?」
布団から目元まで出した格好で、姉さんが聞いてくる。
「さっきの?」
「だから、私を護ってくれるって言ったこと――ッ」
――あぁ、そのことか。
「もちろん、本気だよ。俺が必ず姉さんを護る」
ひょっこりと出たその額にそっと手を添える。
「~~~~~~………………ッ」
すると、ぼんっと音がするくらいに蒸発した姉さんの顔は、今までに無いくらい真っ赤に茹で上がっていた。
「――熱ッ!? 本当にどうしたってのさ、姉さん」
「うぅ~~~~……まさか、ジノになんて……ッ」
――俺がどうしたというのだろう。
再び、姉さんが布団を頭まで被ってしまった姉さんが出てくることはもう無いだろう。
「――いや、ここ俺の部屋だからね」
「…………」
「しょうがないなぁ……」
俺が出て行こうと立ち上がったとき、その両腕を姉さんとツバキの手が掴んでいた。
「……動けないんだけど」
「一緒に寝なさい」
ベッドの反対側。姉さんがツバキを挟んだ左側を指差す。どうやらそこに寝ろということらしい。言うことを聞かないと俺の安眠は約束されないようだ。ここは了承する以外に道はない、か。
「――わかったよ」
「……素直でよろしい」
姉さんが満足そうな声色を浮かべる。まったく、訳がわからない。知らないとそっぽを向いたり、一緒に寝ろと言ったり。結局振り回されるのは俺のほうか。
そう思いつつ、俺はベッドに横になった。
「――――――…………せまい」
久しぶりに眠る三人のベッドは心地よくも――――ちょっとだけ窮屈だった。