1分に1回キスするチャレンジ
「いや~、今年のGWは今までで一番楽しかったね~」
永瀬香緒里は酎ハイをちびちび飲みながら呟いた。すでに顔は赤く声も表情も上機嫌だ。
テーブルの向かいに座って涼しい顔でワインを飲んでいた御園結美が答える。
「泊まりで旅行に行くのも久しぶりだったしね。観光しながら食べ歩きなんて学生以来じゃない?」
「言われてみればそうかも。いやぁ、食べ物おいしかったね~。さすがは北海道」
香緒里と結美はGWの連休を利用して北海道に三泊四日の旅行に行ってきた。札幌市を中心に観光をして、新鮮な海の幸を食べたりウィスキーの工場を見学したり牧場に行ったりと都心ではなかなか楽しむ機会のない事柄を十分満喫してきた。
しかし連休というのはいつかは終わりがくる。出勤日が近づけば近づくほど憂鬱が膨れ上がり働きたくないという心情が湧き上がってくる。
香緒里はテーブルに頬をぺたりと付けて缶を指先で押さえるようにくるくると回した。
「あ~、あんなにあった休みも明日で終わりかぁ。会社行きたくないな~」
「行きたくないけど行かなきゃしょうがないの。お金がないとまた旅行にも行けないでしょ?」
「まぁそうなんだけどさ。次行くならやっぱり沖縄? 北に行ったあとは南行く?」
「いいんじゃない? 海外とかでもいいけど」
「海外かぁ~。行くとしたらどの辺がいい?」
「んー、ヨーロッパとか? ルーブル美術館とか一回行ってみたいかな」
「お~、さすが結美は趣味が高尚だね~」
「別に専門的な知識なんてないよ。ただ作品を見て綺麗だなとかすごいなとか言うだけ」
「いやいや、私はそういうの全然分からないからさ。ドイツでソーセージ食べながらビール飲んでる方が私っぽい」
香緒里の自虐的な言葉に結美が苦笑する。
「美術館とソーセージを比べたら私だってソーセージの方がいいよ。どっちが笑顔になれるかって言われたらそりゃソーセージとビールに決まってるって」
「あはは、だよね~」
香緒里はだらしない姿勢のまま手を伸ばし、結美の手に触れた。その指先に自分の指を絡ませる。
「でも、結美が一緒にいてくれるなら美術館でも博物館でも楽しめそうかな」
結美も香緒里の指に応えるように自らの指を動かし、積極的に絡ませた。酒を飲んでもほとんど変わらない顔色が朱を帯びている。
「……そもそも香緒里と一緒じゃないとどこかに旅行に行こうとも思わないし。その、極論を言えば一緒だったらどこに行っても楽しいし、別にどこにも行かなくてもいいって言うか……」
もじもじと言いよどむ姿が可愛らしくて香緒里は頬を緩めた。どこかに出掛けるのもいいがこうやって家でゆっくりとお酒を飲みながら語り合うのもまた楽しいし、なにより居心地がいい。
その瞬間、連休最終日に何をしたいかが香緒里の中で決まった。
「明日はさ、一日中家でごろごろしながらいちゃいちゃしよっか」
「……うん」
「あ、どうせなら普段とは違うことに挑戦してみる? 何時間キスしていられるか、みたいな」
「なんかギネスにありそう。ちょっと見てみるね……あ、あった」
結美がスマホで調べた結果を口に出す。
「えーと、世界で一番長いキス……58時間35分58秒だって」
「え、ごじゅ、ってことは二日以上!?」
「水分補給はストローで、トイレもキスしたまま行ったらしいよ」
「はー、そりゃまたすごいね。私達もやってみる?」
「連休最後に疲弊してどうするの。ゆっくりするんでしょ?」
「それもそうなんだけど、でもせっかくだから何かしたいんだよね~」
「…………」
結美が思案するように黙ったあと、ワインをあおり空になったグラスをテーブルに置いた。
「じゃあ何分かごとにキスをしなきゃいけないって縛りで一日過ごす?」
香緒里は顔を上げてその提案に食いついた。
「おぉ、いいじゃんそれ! おもしろそう! 何分にする?」
「んー、長すぎたら簡単だし、短すぎたら忙しいし」
「1分でいいんじゃない?」
「人の話聞いてた? 1分は短いって」
「こういうのはちょっと難しいくらいがちょうどいいんだよ。難易度が高いほど達成感あるでしょ?」
「まぁ、言いたいことは分かるけど」
「とりあえずやってみようよ。厳しくやらなくていいからさ。成功したらちょっと美味しいもの買う、みたいな感じで」
「……そうだね。やるだけやってみよっか。でもやるからにはちゃんとクリアするからね」
「望むところよ~」
さっそく翌日のチャレンジに向けての細かいルールの制定を始めた。
開始は朝の7時で終了は日付の変わる0時。アラームを1分ごとにセットしておき、それが鳴ったら10秒以内にキスをしなければいけないことにする。1分以上連続でキスをし続けるのはOK。頬にキスはダメ。トイレの間は免除。ただし帰ってきた後に時間経過分の回数キスする。それ以外は食事中であっても家事途中であっても必ずキスをしなければならない。
そして連休最後の日がやってきた。
――ピピッ、ピピッ、ピピッ……。
スマホのアラーム音が寝室に鳴り響く。香緒里は「んん……」と小さく唸り体を捩らせる。
「……9、8、7……」
「う、ん……?」
真横から聞こえてきた声に香緒里は寝ぼけたまま首を捻った。
「……4、3、2……」
「――!」
香緒里は目蓋をバッと開けた。すぐ目の前にはすでに起きていた結美がスマホを持ったまま秒読みを終えようとしていた。
「いーち、ぜーー……」
「ま、まっ!」
寝起きと焦りで口が回らず『待って』と言うことも出来ずに香緒里は結美にキスをした。結美がアラームを止める。
唇を離してから香緒里は息を吐いた。
「もー……起きてたんなら鳴る前に起こしてよ」
「最初の1回を寝過ごしたときに香緒里はどんな反応するのかなぁ、と思って」
「そういうのやめてよ~。ちゃんと二人で協力してこ?」
「ごめんごめん。今からはきちんとやっていくから」
結美が笑いながら香緒里にキスをした。唇から頬、頬から首筋へと移動していく。
くすぐったさに吐息を漏らしつつ香緒里が呟く。
「これすぐ1分経っちゃわない?」
「まぁ1分なんてすぐだしね。とりあえずしばらくはここでごろごろするんでしょ? それが当初の目的なんだし」
「そうだね。最後の休みの朝くらいゆっくりしよう」
アラームが再び鳴り出した。香緒里は結美の頬に手を添えて、顔を自分の方に向けさせてキスをした。
0時まであと17時間。1分に1回と計算して1020回。つまり残りのキスの回数は1018回。
数で見れば多いが一日と考えればたいしたことはないかもしれない。
そのチャレンジとは関係なくキスを交わしながら香緒里は結美を抱き締めた。
結局寝室を出たのは8時を過ぎてからだった。
二人で洗面所に向かい、交互に洗顔を素早く済ませて歯を磨く。洗顔はともかく歯磨き中にキスというのはあまりやるものではなかった。歯ブラシは口から抜けばいいが口内の歯磨き粉はどうしようもない。口に含んだまま唇だけを合わせてキスをするしかなかった。
それが終わると朝食に掛かった。メニューはフルグラに牛乳を掛けただけというシンプル極まりないもの。料理の最中にキスは危ないということで手軽さと食事のしやすさ、おまけに栄養のことを考えてのチョイスだった。
1分という縛りのせいか準備はいつも以上に二人で声を掛け合い協力して迅速に行った。まずはキッチンでアラームが鳴った瞬間にキスをしてから二人がそれぞれ食器類を並べる係、フルグラと牛乳を用意する係に分かれ、テキパキと準備を進めていく。お皿に入れるのはテーブルに座ってからでいい。普段はテーブルに向かい合って座っているが今日はキスのしやすさを考慮して隣に並んで座ることにした。1分も経たずに準備を終えて二人で顔を見合わせて笑った。
「なんかこういうのも面白いね」
「いつもは何時までに作ろうって決めてから料理してるしね。二人で急いでお皿並べて、なんて状況そうそうないから」
「いつも美味しい料理作っていただいて感謝してます」
言いながら香緒里はフルグラをお皿に入れていく。そのまま牛乳に手を伸ばそうとして結美に掴まれた。
「待った」
…………。
アラームが鳴った。キスをしてアラームを止めてから結美は手を離した。
「はいどうぞ」
「なんか結美手慣れてるねぇ。もしかして前にやったことある?」
「あるわけないでしょ。牛乳をこぼすのだけは絶対に嫌なの」
「それはわかる。お茶は全然いいんだけど牛乳はフローリングでもちょっと嫌だよね」
「ほら、早く牛乳入れて。次のアラームくるよ」
「おっと、了解」
香緒里が牛乳をお皿に注ぐと結美はスプーンで全体を丁寧に掻き混ぜはじめた。
自分の分にも注ぎ終わった香緒里はかちゃかちゃとスプーンを動かしながら尋ねる。
「食べないの?」
「ある程度牛乳が染みた方が食べやすいでしょ? なるべく口の中に何もない状態にしたいから」
たんに食事は早く食べればいいやと思っていた香緒里は結美の考えに深く納得した。香緒里が考えなさすぎなのか結美が考えすぎなのかは他の実例がないので分からない。
「これが競技化されたら結美はプロになれるかもね」
「全然嬉しくないんですけど。ていうかひとりじゃ出来ないんだからそうなると必然的に香緒里がパートナーになるよね」
「あ、そっか。まぁでも私は――」
アラームが鳴った。香緒里はスプーンで牛乳をすくうと自らの口に持っていき、飲み込まずにそのまま結美にキスをした。
「んむ――」
身構えた結美の口内に無理矢理舌を入れて牛乳を口移しで飲ませる。完全になくなってから香緒里は唇を離した。
「――っはぁ」
「ふぅ、こうやって飲ませたりするのも好きだけどね」
「……変態」
ティッシュで汚れた口元を拭きながら結美がジト目で呟いた。香緒里はぺろりと舌なめずりをして微笑み返す。
「そう言いながらしっかり舌を絡ませてきたのはどこの誰かな?」
「次のアラームが鳴ったら教えてあげる」
そしてアラームが鳴ると結美は先程の香緒里と同じようにスプーンですくい口に含んでから香緒里にキスをした。液体と固形物、そして結美の舌に口内を蹂躙されて香緒里が苦悶の呻きをあげる。
「~~~~!!」
ぱんぱんぱん、と香緒里が結美の腕を叩いた。ギブアップということらしい。
結美が唇を離すと香緒里はもぐもぐと口を動かし飲み込んでから結美を睨んだ。
「舌入れられたら噛めないじゃん!」
「あぁ、てっきりそのまま丸呑みするのかと」
「そうなると思ったから私は牛乳だけにしたの! なのに結美はがっつりフルグラまで口移ししてきてさ。私はヒナ鶏か!」
「食べさせあいがしたかったんじゃないの?」
「飲み物のことしか言ってないから!」
「はいはい、分かった分かった」
「まったくもう……本当の変態はどっちなんだって話だよね」
「先に口移ししてきたのは香緒里の方ですー。私は売られたケンカを買っただけですー」
「キスとケンカってほぼ対極にない?」
「でも喧嘩したあと仲直りにエッチしたりとか普通なんじゃないの?」
「うーん、話には聞くけど私は無かったかなぁ。そういや結美とケンカってした記憶ほとんどないよね」
「一緒に住んでからは一回もないね。大学のときは……いや、やっぱりないかも。議論はしてもケンカは――」
ピピッ、ピピッ……。
アラームの音に会話を止めて二人は見つめあった。リミットの10秒経つ前にどちらからともなく顔を近づけて唇を重ねる。
「……だって私、香緒里に嫌われるようなことしたくなかったから」
至近距離で目を逸らす結美の前髪を手で撫でながら香緒里が答える。
「別にケンカしたって嫌いになるわけないんだからさ、思ったこと言ってくれていいんだよ。本音を隠される方が私的にはヤダ」
「ありがと。でも現状直して欲しいところとか全然ないよ。家事だって手伝ってくれてるし、料理はまぁ私の趣味みたいなものだから別に苦じゃないし。逆に香緒里は無いの? 私にもっとこうして欲しいとか」
結美の問いかけに香緒里は首を捻って考えたあと頷いた。
「んー……うん、ないね」
「本当に?」
「ないない。いつも私の為に色々してくれる良く出来た奥さんだと思ってる」
「奥さん……」
照れて目を泳がせる姿に香緒里はくすりと笑い、「あ」と声をあげる。
「奥さんより妻って呼ぶ方が正しいんだっけ?」
「籍入れてるわけじゃないんだし、正しいもなにもないけど――」
ピピッ、ピピッ……。
アラームが鳴り響くなか、香緒里が結美に先を促す。
「けど?」
結美が慈しむように微笑んだ。
「どんな呼び方でもいいよ。今は誓いのキスだけくれれば」
「それ、今日だけで1000回以上誓うことになるけど」
香緒里は苦笑しながら結美にキスをした。
20分ほど掛けて朝食を食べ終えた後、二人は家事に移った。いつもであれば香緒里が洗い物をしている間に結美が洗濯機を回したりと分担して進めるのだが、今日はそういうわけにもいかない。1分に1回キスをするには一緒に行動する必要があるからだ。
香緒里が食器類を洗うときは隣に結美が付き、アラームが鳴る毎に顔を向けてキスをしてもらった。洗濯機を回している時間はリビングで休憩し、洗濯が終わると二人で協力して洗濯物を干した。
「ベランダでタオルに隠れてキスするのってなんか映画っぽくてよくない?」
「私はベッドの方がいい」
「ん? それはお誘いかな?」
「ベッドで一緒にいればキスしやすいでしょって話」
「まぁそういうことにしておいてあげよう」
洗濯を干し終え寝室に戻ると、二人は唇を、肌を重ねた。いつになく結美が積極的なのは朝からずっとキスをし続けていたせいかもしれない、と香緒里は思った。ほかならぬ自分がそうだったから。
午後1時半。キスをしていると香緒里のお腹から、きゅるると音がした。
結美を抱き締めたまま香緒里は力無く呟く。
「そろそろお腹空かない……?」
「あー、確かにちょっと空いてきたかも。朝はフルグラ一皿だけだったしね」
「お昼も朝とおんなじのを食べるんだっけ?」
「うん。昨日決めたよね」
昨日話し合ったときに朝昼晩に何を食べるかをあらかじめ決めておいた。朝と昼はシリアルで簡単に済ませて夜は常備菜や冷凍の作り置きで適当に用意する、というのが元々のプランだったがここにきて香緒里は変更を提案した。
「料理長、しょっぱいものが食べたいです」
「はぁ? 作るのは危ないからダメって言ったよね?」
「そうだけど……ほら、作り置きのでいいからさ~」
「あんまり量ないんだから今食べたら夜の分がなくなるでしょ」
「う~、フルグラも美味しいんだけど、あんまり食べた気がしないんだよ~」
香緒里の自分勝手な発言に結美が呆れたように息を吐いた。
「まったく、食べ物に関してこんなわがままに育っちゃって」
「結美がいつも美味しい料理作ってくれてるお陰だね」
「…………」
そう言われては結美に返す言葉はない。香緒里に喜んでもらう為に腕を振るっていたのは結美自身の意思だ。
アラームが鳴った。唇を合わせたあとに結美が素っ気なく告げる。
「パスタでいい?」
「十分十分~。ソースもあるやつでいいからさ」
「当たり前。極力料理はしない方向でいくから。……ゆでるだけなら私に言わなくても香緒里が自分でやればいいんじゃないの?」
「どうせ二人でやるんだから一緒だって。ほらほら、キッチンにレッツゴー」
「はいはい、服着てからね」
仕方なくといった態度ではあったが、結局調理はほとんど結美がやってくれた。香緒里の役割はパスタをゆでている横に待機してキスをすることだけ。あまりキスに熱中しすぎると鍋が吹きこぼれるので軽くするに留めておいた。
ゆであがったパスタにそれぞれが好きなソースを掛けて完成。結美がミートスパゲッティ、香緒里がたらこスパゲッティ。
朝食と同じようにテーブルに横に並んでから食べ始める。1分という時間制限で麺類を食べるのには少し工夫が必要だ。一度に多く口に入れ過ぎると時間が来たときに飲み込みきれなくなる。なので必然的に少量ずつ口の中へと運び、噛みやすい量を維持しておかなければならない。
フォークでパスタを数本くるくると巻きながら香緒里が笑った。
「食べるだけなのに変な緊張感あるよね」
「パスタならまだいいよ。これがステーキだったらきついでしょ」
「一番ヤバそうなのはホルモンじゃない? あれたまに全然噛みきれないのあるんだよね」
「あーあるある。もしホルモン食べるなら千切りするくらいがちょうどいいかもね」
「晩ごはんホルモンにする?」
「しません。すぐそうやって難易度上げようとするんだから」
「だってそっちの方が面白くない? 簡単過ぎるとつまらないしさ」
アラームが鳴った。結美がフォークを置く。
「これだけ食事中断させられててよく簡単なんて言えるよね」
「難しいキスなんて今までしたことある?」
唇を合わせると香緒里が眉間に皺を寄せて顔を離した。
「……ミートソースの味がする」
「ミートソース食べてるんだから当たり前でしょ。こっちはたらこの風味がちょっとしたかな」
「ミートソースの味が侵食してきて変な感じなんですけど」
「そんなの知らないって。たらこ選んだ香緒里の自己責任」
「くぅ、私のたらこ好きを知ってて味の強いのを選んだってわけか。なんて狡猾な」
「そこまで言うなら牛乳口移しで飲ませてあげようか? ミートソースの味はしなくなると思うよ?」
「いやそれは……牛乳と海産物を合わせるのはちょっと」
「ほら、クラムチャウダーみたいな例もあるし」
「クラムチャウダーは好きだけどそれとこれとはまた違うというか……魚卵と牛乳を合わせた料理ってあったっけ?」
「さぁ? バターだったらありそうだけど」
「バターかぁ。でも生にバターは厳しいよね。熱を通すとなると、うーん……」
ピピッ、ピピッ。再びのアラーム。会話に集中すると食事が一向に進まないのもこの縛りの特徴かもしれない。
香緒里はじっと結美の唇を見た。その視線の意味するものを悟って、結美は苦笑してからコップのお茶を飲み干しティッシュで口元をぬぐった。
「これでキスしたくなった?」
「もちろん」
その後、昼食を食べ終えるまでにキスを30回近く必要とした。
午後も寝室で二人ごろごろと過ごしていたのだが、香緒里は猛烈な睡魔に襲われていた。
下がってくる目蓋の重さに耐える香緒里に、腕に抱き着いた結美が声を掛ける。
「眠い?」
「うん……お昼食べた後だからかなり……。結美は平気?」
「私も結構きてる。立ってると大丈夫なんだけど横になるとやばいよね……」
「これ寝てる間はキスどうなるの?」
「最悪どっちかが起きてればキスは続けられるんじゃない?」
タイミングよくアラームが鳴った。電子音にせかされて結美がのそのそと顔を寄せて香緒里にキスをする。結美の目もすでに半分閉じ掛けていて眠そうなのが分かる。
その様子を見て香緒里は体を起こした。
「ダメだ! このままじゃ絶対二人とも寝落ちする! なんかやって体動かそう」
「ベッドで体を動かす? 香緒里はやらしいなぁ……」
「眠気で結美の言動がおかしい。ほら体起こして」
香緒里が結美の手を取り引っ張り起こした。結美が眠そうに呟く。
「ん……なにやるの? 体操? ヨガ?」
「アルプス一万尺とかどう?」
「うわ、懐かし。覚えてるかなぁ」
「やってみたら案外出来たりするし、分からなかったら適当に歌って手を合わせとけばいいんだよ」
「……まぁやろっか。確かにこのままだとすぐ寝ちゃいそう」
ベッドの上で向かい合わせに正座して、二人でアルプス一万尺を歌いながら手を叩く。
「アーループースーいちまんじゃく、こーやーぎーのうーえで」
「待って待って、子ヤギって何?」
すかさず結美が歌をストップさせて香緒里に尋ねた。歌詞が違っていることなど微塵も疑っていない香緒里は怪訝に見返す。
「え? アルプスで子ヤギに乗ったハイジたちが踊ってるんでしょ?」
「乗らないしハイジ関係ないから。小槍の上ね」
「こやり? 槍の上で踊るとか拷問か何か?」
「なんで拷問の歌で子供たちがはしゃいで手を合わせないといけないのよ」
「日本の闇の風習みたいな?」
「そんな風習あってたまるか」
ピピッ、とアラームが鳴り、いったんキスを挟む。結美が続きを話しだした。
「小槍っていうのは槍ヶ岳の山頂の横にある小さな頂のこと、だったはず」
「へー……え、日本の歌だったの?」
「曲自体はアメリカ民謡が元じゃなかったっけ。歌詞は日本でつけられたはずだけど」
「ほえー」
「まぁ子ヤギ、小槍って結構昔から良くネタにされてるから、曖昧な人も多いかもね。絵的にもハイジがヤギと踊ってる方が楽しそうだし」
「だよねぇ。クララとかヤギ乗りこなせそうじゃない? ヤギの背中に乗って風を浴びる快感を覚えたクララ。やがてヨーロッパで開催されるヤギレースに参加してヤギの乳で作ったチーズを武器に戦い、最終的になんかこうチーズに回転を加える的な必殺技をあみ出して優勝する――お、結構おもしろそう」
「……とりあえず色々と謝った方がいいのは分かった」
その後アルプス一万尺を1分間に何周できるかに挑戦したり、キスしながら手だけでやれるか試したりした。さすがにキスをしながらは無茶だったが。
しかし体を動かしたお陰で眠気もだいぶなくなった。現在時刻は午後4時前。このままならキスを途絶えさせることなく夜まで持ちそうだ。香緒里がトイレを済ませて戻ると、寝室が静まり返っていた。
(ん? 結美……?)
結美は眠っていた。スマホを握り締めたまま、おそらくアラームを切ってそのままなのだろう、穏やかな寝顔ですぅすぅと寝息をたてている。
それを見て香緒里は頬を緩めた。
(なるべく寝かせてあげたいんだけど、とりあえず)
香緒里は結美に顔を近づけ、軽く触れるだけのキスをした。トイレに行っていた時間分のキスをしなければいけない。結美は熟睡してしまっているのかキスを終えても起きることはなかった。
(さて、これからどうしよっか)
時間だけ計って起きたときにまとめてしようかとも考えたが、1分に1回という縛りは可能な限り守りたい。
(そうじゃないとあとで結美に文句言われそうだもんね)
香緒里はベッドを軋ませないようにゆっくりと結美の横に体を寝かせて自分のスマホのストップウォッチを起動させた。アラームだと結美を起こしてしまうかもしれないと考えての配慮だった。
それはつまり、香緒里はずっと起きたまま1分ごとのキスを続けなければいけないということ。眠気だって完全になくなったわけではない。ひとりで睡魔に耐えるのは苦痛でしかないと分かってはいたが、香緒里はこの状況を楽しんでいた。
(眠り姫が何回目のキスで起きるのか、確かめてあげようじゃない)
香緒里に起こすつもりがないので正確に言えば寝ている間に何回キスが出来るか、だ。
まもなくストップウォッチが1分の経過を告げようとしている。起きませんようにと祈りながら香緒里は結美にキスをした。
「ん……は――っ!?」
結美はうっすらと目を開けて香緒里の存在を確認したあと、一気に覚醒して頭を起こした。すぐに手に持っていたスマホを確認する。
「今何時? 5時12分? え、私寝てた?」
「うん、気持ち良さそうに寝てたよ」
「何分寝てた? キスは?」
香緒里は自分のスマホの画面を結美に向けた。
「1時間22分。あ、もうすぐ23分か」
言いながら結美にキスをして言葉を続ける。
「寝てる間もちゃんとキスしてたから安心して。案外キスしても起きないもんだね」
「起こしてくれればいいのに」
「せっかくだし寝かせてあげようと思って。どっちかが起きてれば問題ないんでしょ?」
「そうだけど、どうせなら起きたままで全部のキスをしたかったから」
「じゃあ今すれば? 寝てた分のキス、82回」
香緒里がちょいちょいと手招きすると結美は目をしばたたかせたあとぽつりと言った。
「いいこと言うじゃん」
「でしょ?」
結美が香緒里の顔に覆いかぶさりキスをした。両手で香緒里の頬を挟み、何度も何度も情熱的に唇を合わせる。吐息と水音だけが響く寝室で何分経っただろうか、香緒里が結美の肩を叩いた。
「……アラームかけてなくない?」
「あ」
「いや、キスはしてたから大丈夫なんだけどね。多分とっくに82回超えてるし」
「アラーム設定しなおしたよ」
結美はスマホを枕元に置いてから再び香緒里に顔を寄せた。近づいてくる唇に香緒里が苦笑する。
「回数いっててもまだキスはするんだ」
「今キス欲が高まってるの。これを静める為にはキスをするしかないから」
「それ、キスすればするほど抑えきれなくなるやつじゃ」
結美は何も答えずに口元を歪めて笑うと香緒里に唇を重ねた。先程までの回数を重視したキスではなく、長く深く相手を味わうような濃厚なキス。
口内に侵入してきた舌に自身の舌を絡ませながら香緒里は結美の背中に腕を回した。キス欲が高まっているのは結美だけではないことを思い知らせなければ。
時刻は午後7時を過ぎようとしていた。
二人はあれからほとんどずっとキスを続けてきた。キスしなかったのは洗濯物を取り込んだときくらいだろう。唇は空気に触れるよりも相手の唇に触れていた時間の方が長かった。
ベッドの上で睦み合っていた香緒里が互いの唇が触れ合う距離で結美に尋ねた。
「晩ごはんいつにする?」
「いつでもいいよ。あっためるだけだからすぐ出来るし」
「まだお腹は空いてない?」
「ちょっと空いたかな。半になったら準備しよっか」
「そうだね」
答えてから香緒里は考えた。今日が終わるまであと5時間。このままだと問題なくクリアできそうだ。しかし本当にそれでいいのだろうか。
「……晩ごはんさ」
香緒里は思いついたことをそのまま口にした。
「外に買いに行かない?」
「なんで急に」
「簡単すぎるとつまらないって言ったよね。ずっと家にいたらそりゃあクリアなんて簡単だと思うんだ」
「言うほど簡単かはともかく、ようはクリアが見えてきたからちょっと難しくしようってこと?」
「そうそう。ゲームで頑張ってレベル上げしたけど強くなり過ぎてラストダンジョンが物足りない、みたいな」
「それで、外出?」
「うん。人の目があったらどうなるかなって」
「……はぁ」
結美は溜息を吐いてからスマホを操作し始めた。
「買うのはお弁当でいい?」
「お、ってことは外出オッケー?」
「やるからにはきっちりこなすからね」
「とか言いながら外でキスするの楽しみにしてるんじゃないの?」
香緒里がいじわるく聞いてみると結美は表情ひとつ変えずにこう返した。
「香緒里と一緒ならどこに行っても楽しいって言わなかったっけ?」
その言葉に思わず香緒里は笑みをこぼし、可愛い恋人を抱き締めた。
作戦、というほどのことではないが結美が決めた流れは以下の通りだ。
まずはネットで弁当を予約する。案内された来店時間の10分後を目安に店に向かい、外から中の客入り状況をチェック。物陰に隠れてキスした直後に店に突入し、速やかに料金を支払い弁当を受け取る。スムーズに行けば1分も掛からないはずだ。
道中はまったく問題はなかった。マンションは階段を使ったし、なるべく街灯の少ない路地を選び影の中を歩いた。幸い住宅街は人通りがそこまでなく、キスが見られるようなこともなく無事に店に到着した。
ガラス張りの外から店内の様子を窺う。待っている客は二人だけのようだ。店の横の物陰で待機したまま店内から客がいなくなるのを待つ。しかし客が店を出ていってもすぐに新しい客がやってきてなかなか人が途切れない。香緒里たちが店に到着してからそろそろ15分が経とうとしている。
不安そうに結美が呟く。
「……どうしよっか」
「このままだと埒があかないよね。もう中入る?」
「あんな場所でキスしたら店の客どころか通行人にまで見られるでしょ」
「最悪無理にキスしなくても」
「ここにきて逃げたらこれまでの苦労が水の泡じゃない。だいたい香緒里が言い出したんだから責任とりなさい」
「だよねぇ。私が言い出しっぺだからなんとかしたいんだけど。商品だけさっと受け取れないかなぁ……ん? そうだよ。別に待たなくていいんじゃん」
「どういうこと?」
「今店で待ってる人達は今注文してこれから作るんでしょ? 私らのはもう出来てるはずだからレジに行けばすぐ商品もらえるんじゃない?」
「あ、そっか」
レジさえ空いているなら支払いと受け取りだけで済むから店の中で待つ必要はない。こんな簡単なことに気付かなかったのは、結美がお弁当屋を利用したことがほとんどなかったからだ。香緒里も最近は結美が作ってくれているので外で買ったり食べたりすることはなくなった。
さっそく頃合いを見計らって店に入り、店員に予約しておいた旨を伝えるとあっさりと弁当を購入できた。
袋を分けて持ち、手を繋いで帰路を進みながら香緒里は気楽に感想を述べた。
「いやぁ、すんなりだったねぇ」
「待ってた時間本当に無駄だったわ」
「まぁまぁ、無事に買えて良かったってことで。お弁当は帰ってあっためればいいし」
音量を絞ったアラームが鳴った。外でうるさくしない為、というより注目を浴びないようにする為だ。
民家の角に隠れてキスをしたとき、香緒里は一本向こうの路地にコンビニを見つけた。そのとき、また思いついてしまった。口元がニヤけるのもそのままに結美を引っ張ってコンビニへ歩いていく。
「え、ちょっと? 帰り道こっちじゃないでしょ」
「結美、デザート欲しくない? 私がおごってあげるよ」
「は? 急にどうし――」
結美が前方のコンビニを見つけて全てを理解した。香緒里がコンビニに入ってデザートを買おうとしていること。しかも中で商品を見て決めようとしていることを。
「……どうなっても知らないから」
結美は抵抗しなかった。どうせ止めても聞かないことを分かっていたのと、自身の胸の高鳴りに気が付いたからだ。
コンビニに着くと店内の状況など確認せずにそのまま中に入った。レジで作業している店員が一人。立ち読みをしている客が一人。弁当のところに客が二人。
香緒里たちは一直線にデザートの棚へ向かった。
ピピッ、ピピッ……。
「――――」
二人に緊張が走る。アラームを止めると小声で「10、9……」とカウントダウンしながらレジから死角になっている棚の陰へと身を隠す。
店員や客に見られていなくても防犯カメラには映ってしまっているのだろうが、そこまでは気にしていられない。香緒里と結美はさっとキスを済ましてデザートの棚に戻った。
「結美、顔あっか」
「香緒里だって」
互いに笑ってからデザートを選び、そのままレジへと向かった。幸いなことに誰も並んでいない。店員が商品のバーコードを読み、合計金額を告げた。香緒里が千円札を出す。あとはお釣りと商品の袋を受け取って出るだけ。コンビニを出るくらいで1分がくるだろう。二人ともがそう思い安堵の息を漏らしたときだった。
「あ、少々お待ちください」
釣銭の百円玉がきれたようで、店員が棒金を割って百円を出そうとしている。
大丈夫かな、と思いつつもまぁそれくらいなら間に合うだろうと高をくくっていた。そのとき硬貨が数枚床に落ちる音がした。
「あっ」
店員がしゃがんで拾い始めたのを見て、香緒里と結美は視線を合わせた。先に会計済ませてから拾ってよ、と思いはしたが、今は早く拾い終わってくれることを祈るしかない。
ピピッ、ピピッ……。
無情のホイッスルが鳴った。
香緒里が無言で指を折り10カウントを数え始める。9、8――やっと店員が立ち上がり拾った百円玉を確認する――7、6――「大変お待たせしました」とお釣りを用意する――5、4――お釣りを香緒里に渡したあとデザートを袋に入れる――3、2――その袋を渡す、と思いきや「スプーンはおつけしますか?」――1――スプーンを入れた瞬間、香緒里は「ありがとう」とお礼を口にして袋を受け取り、振り向き様に結美にキスをした。
二人は後ろを振り向かずにコンビニを後にした。
「あ~~~っ、あそこのコンビニもう絶対行けない!」
「あっはっは、やっちゃった」
「やっちゃったじゃないよ。あんな目の前でしなくて良かったでしょ」
「時間がギリギリだったんだからしょうがないじゃん。まぁ見られたのが一人で良かったってことで」
「これでSNSに『レジの前で女性同士がキスしてた』とか書かれたらどうすんの?」
「それなりにいいねもらえるんじゃない?」
「そこじゃない!」
「はいはい、そろそろまた1分経つよー」
アラームが鳴り、キスをしてから再び手を繋いで歩きだした。香緒里は手の感触を確かめながら呟いた。
「でもドキドキしなかった?」
「……まぁ、うん」
「私も」
香緒里の胸もまだドキドキしていた。そのドキドキは恥ずかしさによるものだけではないだろう。羞恥が快感に繋がることもあるという。果たしてキスを人に見られたことが快感だったかと聞かれれば答えにつまるが、それでも見られて嬉しい気持ちがまったくなかったかと聞かれると、そうではない。照れるということはどこかでそれを自慢に思っている自分がいるということだ。恋人を自慢に思うことは全然おかしなことではない。
(結美との仲の良さを人に見せつけたかったのかもね)
香緒里は胸中で呟いたあと、声を殺して笑った。
晩ごはんが終わると二人一緒にお風呂に入った。
さすがにスマホは持ち込めないのでお風呂の間はセルフで1分を数え、その都度キスをすることにした。
髪と体を互いに洗いあってから湯船に一緒につかる。ざばん、とお湯が湯船からあふれ落ちた。
「「ふぅ~」」
二人の声が重なった。香緒里が結美を引き寄せて後ろから抱き締め、ヘアクリップで髪を上げて剥き出しになったうなじに唇を当てて呟く。
「今日一日やってみてどうだった?」
「やっぱり1分はちょっとハード過ぎた」
「でもなんとかなったじゃん」
「頑張ったからね。あと見られたのは香緒里のせい」
「まぁあれはあれでいいハプニングだったし」
「ハプニングってレベルじゃなかったけど。そろそろ1分きたんじゃな――んっ、んん……」
結美の言葉が終わる前に香緒里が唇で塞いだ。お風呂に入りながらのせいか息がすぐあがり唇を離す。
「私は楽しかったよ。結美と一日中いちゃいちゃ出来たし。疲れはしたけど心の栄養は補給出来たかな」
「うん、私も同じ気持ち。旅行とか出掛けるのも楽しいんだけど、こうやって家でずっとくっついてるのもいいんだなぁって思えた」
「これから定期的にキスの日でも作る? その日は何分かに1回必ずキスしなきゃいけないっていう」
「そうね。今度やるならもっと時間に余裕を持ってやりたいかな」
「時間が長くなれば外でキスもしやすくなるんじゃない?」
「人前はもういいって」
「本音は?」
「……公園とかなら」
「よし、次の休みは近くの公園に行こう」
「違う違う! 行きたいってことじゃないから!」
「誰もキスしに行くなんて言ってないよ? ただ散歩がてらに行こうってだけで」
「……本音は?」
「どうせ嫌がってるフリなんだから無理矢理キスしちゃえばこっちのもんよー」
「あっそう、香緒里は私のことそういう風に思ってるんだ」
「あぁウソウソ、結美さんはお淑やかで慎ましやかなので公衆の場でキスなんてしたくないって分かってます」
「よろしい」
頷いてから結美はキスをして微笑んだ。
「でも公園に散歩しに行くってのはいいかも」
「でしょ? それで帰りにコンビニに寄って帰ろう」
「……どこの?」
「さっきの」
「ばーか」
結美は笑いながら香緒里のおでこにでこぴんをした。
のぼせる前にお風呂をあがり、入浴後の肌の手入れをしたあとはいつものようにお酒を飲んだ。深酒はし過ぎないように気を付けて、歯磨きをしてからベッドに入った。
間もなく日付が変わる。枕を並べて布団を被り、仰向けになったまま二人は手を握っていた。
アラームが鳴り口づけを交わす。すでに今日1000回以上行ってきただけに淀みがない。
「あと3分」
どちらからともなく口にした。余計な会話は無く、握った指が1秒毎にとんとんとリズムを刻んでいた。
アラームが鳴る。キスをする。「あと2分」は、あと2回。二人の握った手に力が入った。それは残り2回で終わって欲しくないという寂しさからきていたのだろうか。
そしてアラーム。
「あと1分」
秒数が進むごとに二人は顔を合わせ、徐々に唇を近づけていった。はぁ、はぁ、と吐息が重なる。すでに唇は触れるほど近い。それでもまだキスはしなかった。だってまだ時間が来ていないから。
ピピッ。アラームが聞こえたと同時に二人はキスをした。1分で1回キスをする縛り、最後のキス。ゆっくりと溶けて混ざり合うようなキスを終えて、香緒里は両手を突き上げた。
「しゅううううりょおおおおおお!」
乱れた布団を整えながら結美が言う。
「クリアってことでいいんだよね?」
「そりゃもう文句の付け所のないクリアでしょ。いやぁ、長かったような短かったような」
「終わってみるとあっと言う間だったね」
「それだけ楽しかったってことじゃない? 楽しい時間ほど終わるのは早く感じる」
「それはいいんだけど――」
結美が目を細めて香緒里を見つめる。
「縛りがなくなった途端キスしなくなるの?」
「そんなことないよ」
香緒里は笑いながら結美に唇を寄せる。
「でもキスし過ぎたせいで今までどんな頻度でキスしてたか忘れちゃった」
「忘れたなら良い案があるんだけど」
「どんな?」
「とりあえず私が『もういい』っていうまでキスし続けるっていうのはどう?」
「そりゃ名案だ」
香緒里は結美に覆いかぶさりキスをした。
ふとこの先何回結美とキスをすることになるのだろうかと考えて、数えることは無理だなと悟った。
だって結美を一生愛することは決まっている。だから回数は一生回数ということになる。今数えようとしても莫大になりすぎてとてもじゃないが数えられない。今日の1000回だって全体から見ればほんの少しでしかないだろう。そう考えると自分たちはすごいことをしているような気になってくる。
キスというのは言葉以上に伝えられる愛情表現だ。
飲食物を摂取する為の入り口が、意志疎通を計る為の発声器官が、ただそれを他者と重ね合わせるだけでこんなにも愛に溢れさせることが出来るのは奇跡としか言いようがない。
だからこそ、人はキスに特別なものを込めたがるのかもしれない。
香緒里もまたキスに自らの想いを込めた。するとその想いと同じかそれ以上のものが結美から返ってくる。それに負けないようにさらに想いを込めると、また返ってくる。それを何度も何度も繰り返す。
縛りは終わったはずなのに香緒里たちのキスは終わらなかった。
しかし何の問題があるだろうか。
恋人とキスをし過ぎて悪いことなどひとつもないのだから。
終