魔族社会は弱肉強食でした。
二人と一匹は、無言で暗い地下通路を進んだ。時に、坂や階段を上がったり下りたりしながら、ひたすら蛇の後を付いて行く。中には、長いこと、誰も通った形跡のない通路を通ることもあった。
長いこと歩き続けるうちに、ウィルは次第に不安に駆られるようになり、小声で佐和子に尋ねた。
「あの、ずいぶん歩いたようですけど」
「そうね」
佐和子も少し息が切れている。そんな佐和子の様子に、ウィルの不安はますます強まる。
「本当に、彼の後を付いていって大丈夫なんでしょうか?」
「……」
「……ごめんなさい」
と、ウィルは申し訳なさそうに言った。
「いいのよ」
佐和子は苦笑した。
ウィルは、佐和子に尋ねた。
「サワコさんと蛇さん……ジークさんは、どうやって知り合ったんですか?」
ウィルの質問に、佐和子は少し黙り込んだ。その沈黙の意味を察し、ウィルはすぐに付け加えた。
「言いたくないことであれば、無理に言わなくてもいいんですけど」
佐和子は考え込むようにして、また少し間を置く。やがて、ぽつりと口を開いた。
「私とジークが出会ったのは、もう何年も前の話。一度、彼を助けたことがあったの」
「助けた?」
「ええ。他の魔族から」
「どういうことですか?」
「食われそうになっていたのよ。ジークが他の魔族から」
ウィルが眉を顰める。
「ええと、魔族同士ですよね?」
「ええ」
「同じ魔族を、食べるんですか?」
「人間のウィルには、ちょっと想像し辛いかもしれないけど、魔族同士の間では、たまにそういうことが起こることもあるのよ。いわゆる、共食いってやつ」
ウィルの顔色がみるみるうちに青ざめる。
「そんな……同じ種族同士で、食べるなんて」
「そう珍しいことじゃないのよ。魔族は、文字通り、完全な弱肉強食社会。人間でも、そうかもしれないけど、魔族社会では、それがもっと露骨なの。人間社会であれば、いくら相手が自分より弱くても、何をしても良いとはされていないでしょ? 建前的には。何かしら理由を付けなくては、相手を攻撃したりできない。戦争が、その最たる例じゃない?」
「それは……そうかもしれません」
「でも、魔族の場合は違う。完全に、力関係がものを言う社会で、それが肯定されているの。相手が自分よりも弱いという理由だけで、相手を虐げることが是とされてしまうのよ」
「そんな!」
ウィルは憤慨する。
「理不尽に思えるかもしれないけど、それが現実なの」
「弱い魔族は――虐げられている側は、それで納得しているんですか?」
佐和子は納得のいかない様子のウィルを、まじまじと見つめた。
――自分は、弱い立場を理由に、理不尽な役目を押し付けられたのに。
自分のことは、よく見えないものなのかもしれない。
「それが一番の問題なの。不思議な心理ではあるけれど、虐げられているはずの、弱い魔族達が、それを受け入れてしまっている。それを仕方がないと思っている」
佐和子は床にできた水溜りに映った自分の顔を見る。顔色の悪い、目の座った、下級魔族の男の顔が、そこにはあった。
――そう。彼も、その価値観を受け入れていた。
今生での佐和子。ザインという名の下級魔族。ザインの属する種は、魔族の中でも亜人と呼ばれる種族で、魔族の中では、もっとも位の低い位置にいた。
魔族は、人間を下等な種族だと認識している。自分達の方が圧倒的に高等で、人間を軽蔑している。よって、人間の姿から遠ければ遠いほど、魔力が強ければ強いほど、魔族社会における地位は上になる。
ザインの属する亜人は、極めて魔力が弱い。見た目も、耳が尖っていることを除けば、ほとんど人間と変わらない。
よって、ザイン達、亜人は、他の魔族達から差別的な扱いを受けていた。他の魔族の奴隷にされたり、いたずらに殺されたり。
ザインは、一応、この城の地下の見張りという仕事に就いていたが、それは、まだ運の良い方だった。
――それだって、どんなに頑張っても、上に行けるわけじゃない。
最低な報酬で働かされ、どんなに頑張っても、立場が上がることはない。一生、城の地下で這いずるように、他者から顧みられない仕事に従事させられる。ザインと一緒にいた他の魔族達は、全員、亜人である。
――そんな立場だから、あんな最低なことをするしか、楽しみがないのよね。同情は全くできないし、肯定もできないけれど。
城の地下で働く亜人達は、時折、城に迷い込んでくる人間を捕え、彼らをいたぶることで、日頃の憂さを晴らしている。それ以外に、楽しみがないのだ。
――ああ、嫌になっちゃう。
めまいがする。佐和子は頭を抱えた。
そう。佐和子――ザインも、そんな亜人の一人なのだ。
これまでの記憶の限りでは、ザインが、積極的に、それらの悪事に加担することはなかった。ほとんどの場合、仲間の悪事を見て見ぬふりをし、外で見張りなどをしていた。
――それだって最低よ。
実際に手は出さなくても、見て見ぬふりをしていたら、それは同罪だ。
そう思った瞬間、佐和子の胸がチクッと痛んだ。
見て見ぬふりは同罪。その言葉が、脳に焼き付いて離れない。
「サワコさん、大丈夫ですか? 顔色が悪いみたいですが」
隣にいたウィルが、佐和子の顔を心配そうに覗き込んだ。いつの間にか、額に冷たい汗が浮いている。
「ありがとう。大丈夫よ」
佐和子は、ウィルを安心させるために、無器用な笑顔を浮かべて見せた。
「でも、すごい汗が。少し休みましょうか?」
心配してくれるウィルを見て、佐和子の心は余計に痛んだ。
――ウィル。本当に良い子だわ。
もし、ウィルが襲われていた時、ザインが前世の記憶を思い出していなかったら。
それを思うと、身体が震える。
きっと、ザインは、ウィルを助けることはなかっただろう。これまでも、そうだったように。
「ねえ、ウィル。唐突で申し訳ないんだけど、抱きしめてもいい?」
突然の申し出に、ウィルは一瞬、ポカンとし、すぐに顔を真っ赤にして、狼狽した。
「え、あの、その、どうして?」
「なんだか、すごくそうしたい気分なの。ダメ?」
「えっと、その、あの」
あわあわしているウィルが返事をする前に、佐和子はウィルの華奢な体を抱きしめていた。
「サ、サ、サワコさん? どうしたんですか? 一体」
佐和子の腕の中でジタバタするウィル。その温かな体に宿る生命力に、佐和子は心底ホッとする。
――ああ、ちゃんと生きてる。
前世の、清水佐和子の記憶を思い出して、本当に良かった。この子を死なせずに済んで、本当に良かった。
「……ウィル。ごめんね」
ウィルの耳元で囁くように、そう呟き、佐和子はそっとウィルの体を放した。気を取り直したように、ニコッと笑い、佐和子は再び歩き始めた。
「さ、急ぎましょ。ジークに置いて行かれちゃうわ」
「は、はい……」
ウィルは、まだ熱が冷めやらない様子で、ぼうっとしていた。