迷子になりました。
取り急ぎ、城から脱出することで合意した勇者と下級魔族だが、すぐに障壁にぶち当たった。
あれから、二人は延々と城の地下を彷徨い続けている。既に、体感時間で二時間近くも歩きっぱなしだ。
「あの……」
後ろを歩くウィルが不安そうに声をかける。佐和子は内心、ギクリとした。
「疑うわけじゃないんですけど、本当にこちらの道で合っているんでしょうか?」
――ううう、耳が痛い。
ウィルの不安通り、今現在、二人は絶賛迷子中である。
佐和子は引きつった笑みを浮かべながら、何とか、誤魔化そうとした。
「ま、まっさかー。ここは、仮にも私の職場よ? 職場で迷うなんて、そんなことあるはずないじゃない」
「でも、さっきから同じ場所を歩いているような……」
「気のせいよ。同じような景色が続くから、そんな気がするだけよ」
「いえ、気のせいじゃないです。さっき、壁に印を付けましたから。ここは、さっきも通った場所です」
ウィルの指さす壁に、白墨で小さな×が付けられていた。佐和子は観念する。
「……ごめんなさい。迷ってしまいました」
がっくりと項垂れる佐和子に対し、ウィルは慌ててフォローする。
「気にしないでください! こんなに広いんだもの。迷うのも無理ないですよ」
一生懸命気を遣い、励まそうとするウィルに対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
――情けない。あんなに偉そうなことを言ったくせに。
年下のウィルの方が、よほどしっかりしている。
ウィルの言った通り、城の地下は広い。アリの巣のように広がり続け、今では、誰も正確には把握できていないと聞く。一説によれば、小さな国の敷地面接に匹敵するほどの広さがあると言われている。だから、城で働いている魔族達も、自分達が関わる場所しか知らない場合がほとんどだ。
――でも、それだけじゃあ、ないのよね。
佐和子は溜息を吐いた。
自分の言葉で佐和子を傷付けてしまったと思ったのか、ウィルは心配そうに佐和子の顔を覗き込んだ。
「本当に気にしないでください。すぐに気付かなかった、私も悪いんです」
「ううん。元はと言えば、私がむちゃくちゃに走って来ちゃったから」
今、自分達がどこを歩いているのか、さっぱり分からない。
ウィルは元気づけるように明るい声で言った。
「大丈夫です。私、これでも、迷路は得意なんですよ! さすがに、こんなに広いのは初めてだけど」
「ありがとう、ウィル……でも、広いだけじゃないのよね」
佐和子は溜息を吐いた。ウィルは小首をかしげる。
「だけじゃない?」
「この城はね、ただの城じゃないの。まあ、魔王の城なんだから、それは当たり前なんだけど。簡単に言えば、この城は、城自体が生きているのよ」
「生きている?」
ウィルは怪訝そうに眉をひそめた。
「どういう意味ですか?」
「この城は、城自体が巨大な一体の魔物なのよ」
ウィルはキョトンとした。
「魔物? この城が?」
「そう。意思があるのかどうかは、誰にも分からないみたいだけど。この城はれっきとした生き物なの」
「まさか」
ウィルは、にわかには信じられないようだった。無理もない。
「そのまさかなのよね。ちょっと、そこら辺の壁に触ってみて」
「壁?」
ウィルは促されるままに、壁に手を当てた。無機質な石の感触。しかし、しばらく触れていると、壁の奥から鼓動のような振動が掌に伝わってきた。
ウィルは驚いて壁から手を離す。
「い、今、壁から」
「ね? 分かったでしょ」
ウィルは怯えた顔で佐和子を見上げた。
「じゃあ私達は、今、魔物の体の中に……?」
「そういうことになるわね。その証拠に、至る所から、液体が滴っているでしょう?」
佐和子は天井から滴る水を指さした。雨が染み込むはずもないのに、至る所が湿っている。
「あれは、この城の体液」
「体液⁉」
ウィルの白い肌に鳥肌が立つ。
「別に触れても害があるわけじゃないけど。でも、中にはこういう部屋もある」
佐和子は近くにある部屋の一つを指さした。ウィルは恐る恐る、部屋の中を覗く。次の瞬間、ウィルは思わずヒッと小さな悲鳴を上げた。
部屋の中からは酸っぱい悪臭が漂ってきた。その中に、混じって肉の腐ったような腐臭も。
部屋の中は、粘着質の糸が壁や天井から張り巡らされ、至る所がベチョベチョに湿っている。それらの糸に絡めとられるようにして、溶けかけた魔族の死体が絡みついていた。
「こ、これは」
ウィルは思わずよろめいた。
「部屋の中には入っちゃダメよ。危ないからね」
「なんなんですか、この部屋」
「こういう部屋が至る所にあるの。部屋の中に消化液を溜めて、迷い込んだ生き物を溶かして、城の養分にするのよ。食虫植物みたいにね。今は酸っぱい匂いしかしないけど、生き物を誘いこむ時は、甘い匂いがするらしいわ。その香りには幻覚性があるから、ふらふらーっと誘いこまれてしまうのよ」
「食虫植物……」
糸に絡まった死体を見て、ウィルはブルッと肩を震わせた。
「どうして、魔族はこんな危険な城の中で暮らしているんですか?」
その疑問はごもっともだ。
「自分達にも危険だけど、その分、外敵からも身を守りやすいとか、色々理由はあるわ。でも、一番の理由は、心地良いから。この城の中は、魔族にとっては、不思議と居心地が良いの。落ち着くのよ。お母さんの胎内にいるような気持ちっていうのかしらね。危険な場所なはずなのに、なぜか落ち着くの」
この理由は、本当だ。
魔族にとって、この城の中は、不気味なほど居心地がいい。
そして、不思議と、と誤魔化したが、本当は、居心地のいい理由も、佐和子はちゃんと知っている。
――でも、人間のウィルには、言うべきじゃないわよね。
だって、それは、魔族にとって決して口外してはならない秘密だから。決して、他の種族に知られてはいけないことだから。
「そういうものなんですか」
疑うことを知らないウィルは、素直に納得した。
「恋愛と同じよ。恋人としてNGな相手のはずなのに、一緒にいるとなぜか居心地が良くて、ダラダラ付き合いを続けてしまうみたいな、そんな感じ」
「へえ……」
ウィルの顔色が少し曇った。
――あれ? 何かまずいこと言ったかな?
ウィルが少しムッとしているような気がする。
佐和子は話を戻した。
「この城は生きている。生き物だから、絶えず体が変化するの。細胞分裂みたいなものかしらね。私達は、城の増殖と言っているわ。毎日、少しずつ広くなっている。だから、しょっちゅう部屋の場所や、道が変わっていたりするの。マップなんて作っても、何の意味もない。特に地下は完全に迷路よ。長年、城で暮らしている古株の魔族でも、油断したら迷うことがあるって言うわ」
別に迷った言い訳をしているわけではない――と自分に言い聞かせてみる。
「サイボウブンレツって、なんですか? 何かの呪文ですか?」
話を聞いていたウィルが首を傾げた。
――そうだった。うっかりしてたわ。
転生したこの世界は、前の世界よりも文明が進んでいない。科学も化学も発達しておらず、その代わりに、魔法やそれに類する力が人々の生活を支えている。
――電気も水道もないのよね。
だから、灯りは松明の火や、貴重な油に細い火をともして使う。上下水道もないため、水は川や泉から汲んでくるか、井戸を使う。
医学も原始的で、薬草などを使った治療が主な方法だ。それでも効かない場合は、諦めるか、まじないに頼るという始末である。当然、人体の仕組みについても、ほとんど研究されていない。細胞レベルの話であれば、なおさらだ。
――でも、化学や科学が全くないわけではないみたいなのよね。
時折、位の高い人間が、何の気まぐれか、国境付近に来ることがある。そういう連中が魔族に捕まり、城に運ばれてきたことがあった。そいつらは、貴族の人間で、かなり知的レベルが高く、化学や科学に近い知識を多少なりとも習得していた。とは言っても、前世を思い出す前のザインには、彼らが何を言っていたのか、当然、分からなかった。
――人によって、知識レベルにムラがある。
位の高い人間はより多くの知識を習得しているようだが、一般人のほとんどは、十分な教育を受けていないように見えた。
佐和子はウィルに尋ねた。
「ねえ、ウィル。あなた、学校は行っていたの?」
学校自体は、この世界にもある。しかし、ウィルは、とんでもないとばかりに首を横に振った。
「まさか。村に学校はありませんし、そもそも、学校は大金持ちか貴族の子女しか通えません」
「じゃあ、あなたは、どうやって勉強したの?」
「一般の子供は、ほとんどの子が、村にある教会や年長者の家で、物書きや礼儀作法を学びます」
「物書きと礼儀作法か。それ以外は?」
ウィルはキョトンとした。
「それ以外とは? 畑仕事とか、布の織り方とかですか?」
「そういうことじゃなくて、例えば政治とか、経済とか」
ウィルは怪訝そうに首をかしげる。
「それは、王族や貴族の仕事です。どうして、私達がそれを学ぶんです?」
今度は佐和子が目を丸くする。
「じゃあ、あなた達は、自分の暮らしている国が、どんな風に運営されているか、全然知らないの?」
それの何がおかしいの? そう言わんばかりに、ウィルは怪訝な顔をした。
どうも、この世界の人間社会は、前世の記憶を持つ佐和子からすれば、どこか歪だ。