下級魔族と勇者は仲間になりました。
ウィルはまた少し黙り込んだ後、力なく首を横に振った。
「やっぱりダメです。そんなこと、できません」
「どうして?」
「サワコさんには分からないんです。だって、あなたは魔族だから」
そこまで言って、ウィルはハッとした。失言だったと思ったのだろう。シュンとした面持ちで頭を下げた。
「ごめんなさい、私。命の恩人に向かって……」
――謝る必要なんてないのに。
むしろ、たった一度助けたくらいで、ここまで相手を信頼してしまうウィルの行く末が心配になった。
「いいのよ。私の方こそ、自分の意見ばかり押し付けてごめんなさい。あなたには、あなたの事情があるのにね」
そう。自分は所詮、第三者なのだ。
ウィルの窮状を想えばこその提案だったが、所詮は、対岸の火事に向かって声を上げているに過ぎない。
実際に行動を起こさなければならないのはウィルであり、彼女のバックボーンを鑑みると、先ほどの提案が、いかに勇気のいる決断かは、想像に難くない。
ウィルは申し訳なさそうに口を開いた。
「私が勇者に選ばれた時、皆、ホッとしたような、痛々しいような、複雑な顔をしていました。何人かは、私を気の毒がって、泣いてくれた。彼らだって、きっと、私のことで心を痛めてくれていると思うんです。根っからの悪い人達じゃない。だから、彼らを見捨てるなんてこと、私には考えられません」
と、ウィルは言った。
――全く、この子は。
純粋というか、心配というか。
佐和子は頭を抱えたくなった。
きっと、ウィルは性善説を信じているのだろう。根っからの悪人などいない。どんなひどいことをされても、人は信じるに値する。そう、心から思っている。
だから、村人達が見せた涙や、痛ましいような顔も、好意的に受け止めることができる。
しかし、佐和子はウィルほど、村人達に対して寛容にはなれない。
――言った方がいいのかしら。
佐和子の見解を言えば、きっとウィルは傷つくに違いない。
しかし、このままでは、ウィルは村のために自らを犠牲にしてしまう。今回はたまたま助かったが、彼女の村人に対する認識を変えなければ、この先、何度でも似たようなことが起こるだろう。そのたびに、彼女は搾取され、利用されてしまう。
佐和子は意を決して、口を開いた。
「ねえ、ウィル。どうか、怒らないで聞いてほしいの。私には、やっぱり、あなたの村の人達が、あなたが思っているような良い人達だとは思えない」
「それは、サワコさんが彼らのことをよく知らないから」
「よく知っているから、理解しているとは限らない。むしろ、外側から見た方が、客観的に見えることもあるの。あなたの場合はむしろ、村の人達と深く関わりすぎているせいで、彼らを客観視できなくなってる」
そう。誰だって、身内には寛容になる。相手をよく知っているからこそ、本質を見失うこともある。そこに情が入り混じるからだ。
「あなたは、さっき、村の人達が自分のために心を痛めて泣いてくれたと言った。たしかに、彼らは心を痛めて泣いたのかもしれない。でも、あくまで私の想像だけど、それは、あなただけを憐れんだからじゃない。自分自身のための涙も含まれていたと思う」
ウィルは困惑して視線を泳がせる。
「あの、よく意味が分かりません」
「村人達の涙が、全くの嘘だとは思わない。罪のない女の子を犠牲にして、罪悪感に駆られない人なんて、ほとんどいないでしょう。でも、彼らは涙を流しはしても、あなたを守ろうとはしなかった」
「それは、彼らだって、自分の家族や立場があるから」
「そうよね。自分の命や家族、あるいは立場。それらを天秤にかけて、それでも、赤の他人を助けようと思える人は、きっと少ない」
胸の奥がズキンと痛む。
――そう。前世の私のように。
佐和子は傷む胸を抱えながら、なおも続けた。
「でも、私には腑に落ちない。どうせ、最後まで助ける気がないのなら、最後まで悪人でいればいいのよ。極悪非道な村人達だと、恨まれ、罵られ、呪われればいい。でも、彼らはあなたのために涙を流すことで、それすらも封じてしまった。あなたの性格に付け込んで、あなたから、村人達を呪う気持ちすらも奪ってしまった」
佐和子の言葉にウィルは蒼白になる。佐和子はなおも続けた。
「彼らは認めたくなかったのよ。こんなひどいことをする自分達を。こんなひどいことを、仕方のないことで済ますことができる、自分達の本性を。だから、一生懸命、悲しんでみせた。心を痛めることで、彼ら自身が安心していたの。自分は悪人ではない。心を痛めることができる自分は、根は良い人間なのだと。こんなことは、本当はやりたくないのだと。気持ちよく心を痛めることで、あなたに同情することで、自分自身を守ろうとしていたの。自分は傷つきたくないけど、悪者にもなりたくない。だから、涙を流すの。自分自身のためにね」
ウィルは納得できないようだった。
「……そんな人達じゃありません。別れ際の涙だって、演技には見えませんでした」
「人は、自分自身を本気で騙すことができる。おそらく、当の本人達も無自覚だわ」
「……」
「今頃、村の人達は酒を飲んで高いびきかいているわよ。彼らの罪悪感なんて、その程度のものよ」
ウィルは小さな肩を震わせた。少し俯いて、大きな目に涙を溜め始めている。そんなウィルを見て、胸が痛んだ。
――かわいそうだけど、言わないと。
「ねえ、勇者なんて、やめちゃえ。私が魔族だから言っているんじゃないわよ? 誰かに押し付けられた仕事に、命をかける必要なんてない。今すぐ、こんな危ない場所から逃げましょう」
「そんな無責任なこと……」
「立場の弱い人間に、無理な仕事を押し付ける方が、よほど無責任よ。あなたは、あなた自身がやりたいと思えることに、命を捧げないと。そうしていいのよ」
ウィルは放心したように言葉を失った。
佐和子はウィルに優しく尋ねた。
「ウィル。あなたのやりたいことは何? どうしたい?」
ウィルは俯いたまま、しばらく黙っていた。少し息が荒くなっている。何度も口を開きかけては閉じ、言葉を飲み込んだ。額にはうっすら汗が浮かんでいる。
分かる。
おそらく、これまで誰も、ウィルに彼女の意思を尋ねたことがなかったのだ。
集団における彼女の立場が弱いのをいいことに、相手が反論しにくいのを理解した上で、誰も、彼女の意思を慮ろうとしなかった。彼女の様子を見れば、それがよく分かる。
それがどれだけ残酷なことか。それすらも、無自覚な加害者達には理解できないのだろう。
やがて、ウィルは小さく声を上げた。
「……わ、私、死にたくない」
嗚咽と共に、やっとこぼれた、彼女の本音。
いったん、口から出たら、堰を切ったように溢れ出てきた。
「本当は、勇者なんて、なりたくなかった。こんな所、来たくなかった。でも、逆らえなくて」
「うん」
「名誉なんていらない。私はただ、村の隅で静かに暮らせれば、それで良かったのに」
「うん」
佐和子は泣きながら訴えるウィルを、静かに抱きしめた。
「逃げましょう。私も一緒に行く。二人で、自分らしく生きられる場所を探しに行きましょう」