謎の老人に出会いました。
佐和子は、元の場所から離れすぎないように、注意深く辺りを探索した。しかし、目の届く範囲には、壁を壊せそうな物は、何も落ちていない。仕方なく、佐和子は近くに落ちていた石を拾い上げ、その石で壁に印を付けながら、少しずつ元の場所から離れて行った。
増殖の終わったばかりの城の中は、子供がイタズラで組み立てたかのような、でたらめな構造だった。途中で途切れた階段が壁から生えていたり、床の所々に穴が空いていたりで、全く油断がならない。
――これじゃあ、ウィル達の方も心配ね。
これは、できるだけ早く合流しなければならない。
佐和子は薄暗闇の中、何か役立ちそうな物がないか、目を凝らした。
灯りもないのに、完全な暗闇にならないのは、壁の至る所に生えている苔のせいだ。発光性の苔で、城の体液を養分にして、至る所に生えている。苔は、うっすら青白い光を帯び、わずかながら、暗い地下を照らしている。
それに加え、魔族は比較的、夜目がきく。よって、苔のわずかな光でも、それほど困ることはなかった。それでも、何もかもがハッキリと見えるわけではない。
「頼むから、何も出てこないでよ」
増殖の終わったばかりの地下は、苔が剥がれているため、普段よりも、よりいっそう闇が深い。こんな時に、他の魔族と出くわしたら、うまく逃げられる自信がない。
佐和子は壁に手を当て、緊張しながらも、少しずつ先へ進んだ。
その時だった。
おおい……おおい……
どこかから、うめき声のような声が聞こえてきて、佐和子は思わず、飛び上がりそうになった。
「な、なに?」
佐和子は恐る恐る、声が聞こえてくる方へ近づいた。声は、壁の割れ目の隙間から聞こえてきた。その隙間は、人が一人通るのがやっとの狭さだった。
――何なの?
佐和子は緊張しながら、隙間からそっと中を覗き込んだ。割れ目から覗き込んだ中は、よりいっそう暗かったが、それでも、かろうじて、内部の様子をうかがうことができた。
「おおい……おおい……」
まるでうわ言のように、繰り返し、同じことを呟く。その声の主の姿を見た瞬間、佐和子は思わずギョッとした。
声の主は、人間の老人だった。暗い部屋で、壁を背に座り込む痩せた老人。白髪も髭も伸び放題で、着ている服は、ほとんど襤褸雑巾のようだった。
部屋の中の様子も異様だった。
壁から、先に輪の付いた太い鎖が何本も垂れ下がっている。まるで、牢獄である。
佐和子は思わず声を上げた。
「ちょっと、そこの人! あなた、大丈夫⁉」
佐和子の声に、老人はゆらりと頭を上げる。伸びきった髪の毛に隠れて顔の様子は分からないが、髪の隙間から、かすかに鈍い眼光が見えた。
「おお、お……」
「ちょっと、待ってて! そっちに行くから」
佐和子は壁の隙間から、どうにか部屋の内部に潜り込んだ。部屋の中に入ると、饐えたような匂いがツンと鼻を刺激した。佐和子は悪臭に顔をしかめる。
――ひどい匂い。
その匂いは、壁に繋がれた老人から発せられていた。
佐和子は老人の前にしゃがみ込み、彼の顔を覗き込んだ。
「あなた、しっかり!」
佐和子は老人に声を掛けながら、彼の肩を軽く揺すった。
老人は長い髪の隙間から虚ろな目を覗かせながら、佐和子の顔を見た。
「……お前は」
臭い息と共にしゃがれた老人の声が漏れた。佐和子は少しホッとする。
佐和子は老人の体を上から下まで観察した。
「あなた、人間?」
佐和子の問いかけに、老人は小さく頷いた。
「囚われたの? 一体、いつからここに?」
「……」
老人は何も言わなかった。
見たところ、老人は鎖に繋がれている様子はない。
「あなた、立てる?」
佐和子の問いかけに、老人は首を横に振る。
立てないほど、足腰が弱っているのだろうか。
老人は枯れ木のような指で、布の下に隠れた自身の足を指さした。
――怪我でもしているのだろうか。
「服をめくるわよ」
佐和子は老人の下半身を覆っていた布をめくった。中を見て、佐和子は思わずギョッとする。
「これは……」
佐和子は言葉を失った。
老人は、壁を背に、両足を前に伸ばす形で座り込んでいた。右足はまっすぐ伸びている。しかし、左足は膝から下が地面に埋まっていた。
「どうなっているの?」
老人の左足は、溶接された鉄のように、地面に溶け込んでいた。
佐和子は息を飲み、老人の左足に触れる。
老人の左足と地面の境に触れても、繋ぎ目が分からない。触れてみると、老人の左足は、膝の上辺りまで、地面と同じ石のような感触だった。老人の左足は、半分以上が、地面と同化していたのだ。
こんなことがあるのだろうか。
佐和子は困惑した。こんな状況には、初めて遭遇した。
「あなた、いつからここに?」
どう見ても、数日やそこらではない。長い年月、打ち捨てられていた灌木のようだ。
佐和子の問いかけに、老人は両手を少し上げ、枯れ枝のような両手の指を差し出した。
「10? 10日間も、こんな所にいたの?」
佐和子がそう言うと、老人は首を横に振った。口の中で、何かをボソボソと呟く。よく聞こえないので、佐和子は老人の口元に耳を近づける。
「……ん」
「え?」
「……じゅう、ねん」
「……十年⁉」
佐和子は驚いて声を上げた。
「十年も、こんな所に閉じこめられていたの⁉」
そう言うと、老人はガクッと頷いた。
――信じられない。
佐和子は、改めて老人の姿をまじまじと見た。
見たところ、姿は人間。魔族の類ではない。ただの人間が、魔王城の地下に閉じこめられ、水も食べ物もなしに、十年も生き続けていたというのだろうか。
にわかには信じられない。
困惑する佐和子を前に、老人はゲホゲホと咳き込んだ。
「おじいちゃん、大丈夫⁉」
話しすぎたからむせたのだろうか。
佐和子は老人の背中をさすった。
――水は。この辺りに水は。
佐和子は辺りを見回した。
見たところ、水が手に入りそうな場所はない。壁や天井から絶えず水滴が滴っているが、それは城の体液であって、水ではない。人間が飲めるものではない。
老人はなおも咳き込む。佐和子は慌てた。
「水を飲ませてあげたいけど、あいにく、持ってないのよ。おじいちゃん、この辺りに水場はある?」
「……」
老人は口の中で何かを呟いた。
「何? 聞こえないわ」
佐和子は老人の口元に耳を近づける。
次の瞬間。
驚愕する事が起こった。
「キャアア‼」
佐和子は思わず悲鳴を上げた。
突然、老人が佐和子の肩に噛みついてきたのだ。
肩に走る激しい痛みに、佐和子は身もだえる。老人の歯が佐和子の肩口に食い込み、傷口からしとどに血が流れる。
「放して‼」
佐和子は老人を引きはがそうとしたが、どこにこんな力が残っているのか、どんなに引きはがそうとしても、老人はびくともしない。ようやく見つけた獲物に食らいついた、手負いの獣のようである。その間、老人は佐和子の傷口からジュルジュルと血をすすっている。
――この人、私の血を飲んでる?
佐和子の背筋に悪寒が走った。
どうにかして、無理やり老人を引きはがし、佐和子は床を転がるようにして、老人から離れた。佐和子の肩口には、くっきりと老人の歯型が残り、そこから血が流れていた。
佐和子は傷口を手で押さえながら、呆然とした様子で老人を見つめた。
その直後、さらに驚くべきことが起こった。
枯れ木のようにしか見えなかった老人の体に、みるみるうちに張りが戻っていく。衰えすぎて筋が浮いていた手足に、肉が戻っていく。白髪だらけの長い髪が、黒く染まっていく。
見る間に、老人だと思っていた人間が、若々しい男に変貌していった。今、目の前にいる男は、もう老人には見えない。せいぜい、30歳前後か、そのくらいだろう。
「あなたは、一体……」
佐和子は呆然と呟いた。