転生したら下っ端魔族でした。
清水佐和子は硬い石畳の床の上で目を覚ました。
――頭が痛い。
どうやらうつ伏せの態勢で倒れているようである。頬にゴツゴツとした床の感触がある。
頭部がズキズキと痛み、佐和子は波のようにやってくる痛みに顔をしかめた。どうやら、頭部を何かで強く打ち付けたようだ。
辺りは薄暗く、空気はどことなく湿っている。饐えたような不快な匂いが漂っており、気分が悪くなりそうだ。
――ここ、どこ?
佐和子は自分の置かれた状況が把握できなかった。なぜなら、佐和子の記憶の中では、彼女はさっきまで会社の屋上にいたはずだからだ。
佐和子は中堅の映像制作会社でADをしている。今日は朝から方々に電話をかけまくっていた。大手音楽会社からの下請けの仕事で、売れない歌手のミュージックビデオを制作するため、ロケ場所の確保をしなければならなかったからだ。先ほど、ようやくめぼしい施設での撮影許可を得ることができ、やれやれと一息つくところだった。ちょっと気分転換に煙でも吸うかと、タバコとライターをポケットに入れ、屋上へ向かった所だった。
――屋上。
思い出しかけた途端、佐和子は全身が総毛立つのを感じた。体がガタガタ震え、額から冷たい汗が浮いてくる。
――そうだ。思い出した。
掌に残る嫌な感触。
掴み損ねた手。聞き逃した言葉――いや、聞こえていたのに、耳をふさいでいた言葉。
佐和子は死んだのだ。
会社の屋上から落下して。
落ちてゆく最中に見えたのは、足元に見える夕空。茜色に染まって、すじ雲が浮いている。手を伸ばすが、空が遠のいてゆく。
頭の後ろから、何かが潰れたような音が聞こえた。
グシャ。
大きく熟れたスイカが割れたような音。中からは真っ赤な汁が飛び出して、歩道の地面を濡らす。どよめきと悲鳴が聞こえる。騒然とした声の渦に、佐和子もやがて落ちていく。最後の瞬間を迎える前に、佐和子は意識を失った。
そして、今だ。
気が付くと、佐和子はどことも知れぬ場所の床に倒れていた。
何が起こったのか、全く理解できなかった。
――どうして、こんな所に。
どう見ても、病院などではない。こんな場所は知らない。
先ほどから、何やら人の声がするが、耳鳴りがひどくて、よく聞き取れない。
次の瞬間、頭に冷たい液体をぶっかけられた。錆びた匂いのする冷水である。その冷たさに驚き、佐和子の意識は完全に覚醒する。うつ伏せのまま、呆然としている佐和子の体を、誰かが乱暴に蹴り飛ばす。耳鳴りはもう止んでいた。
「おい、いいかげん、起きろよ」
そう言って、佐和子を見下ろしたのは、見たこともない男だった。上半身裸で、肌の色は浅黒く、筋骨隆々としている。人相の悪さからして、明らかに堅気には見えない。しかし、それよりも、佐和子の目を引いたのは、彼の尖った耳だった。男の耳は、まるで物語に登場するエルフのように尖っている。かといって、男がエルフのように神々しく見えるかと言うと、全くそんなことはなく、どちらかというと、鬼や悪魔といった方がしっくりくる風貌である。
男はチッと舌打ちをすると、そこいらの地面に唾を吐いた。
「どんくせえな。何もない所ですっ転びやがって。邪魔だからさっさと起きろよ」
――なんなのよ、この人。
初対面の相手に、なんという物言いだろう。しかし、言い返す気にはなれない。危険すぎる。相手は、明らかに普通の相手ではない。
まだ頭痛は収まらないが、佐和子は重い体をゆっくりと起こした。
男はフンと鼻を鳴らし、近くの壁を背に、ドカッと腰を下ろした。
「見張りが寝てたら、俺までどやされるだろうが」
男はブツブツ文句を言いながら、あくびをかみ殺した。
佐和子は改めて周囲を見回す。薄暗い空間。古い石造りの壁と床。RPGに登場するような、西洋の城の地下室を連想させる場所だった。
――ダメ。全然、状況が呑み込めない。
佐和子は恐る恐る男に近付く。
「あの……」
「あ?」
男は床に座ったまま、面倒くさそうに佐和子を睨んだ。佐和子は怯みながらも男に尋ねた。
「ここは、どこでしょうか?」
佐和子は少し咳き込んだ。
空気が悪いせいだろうか。先ほどから、喉の調子がおかしく、いつもより声が低い。
「はあ?」
男は呆れたような顔で佐和子を見上げた。
「何言ってんだ? お前」
「ですから、ここはどこなんですか? 私はなぜこんな場所に?」
「なぜって、お前。俺をからかってんのか?」
「からかってません。本当に分からないんです」
男は疑わしそうな目で眉根を寄せている。やがて、はあっと溜息を吐いた。
「回りくどい皮肉言うなよ、ザイン。俺がクジで負けたの、まだ根に持ってんのか?」
――皮肉?
一体、この男は何を言っているのだろう。佐和子は、皮肉など言っているつもりはない。いや、それよりも、今この男は、佐和子のことをザインと呼んだ。
「あの……」
「もうすぐ交代の時間だ。それまで待つんだな」
――待つって、何を?
佐和子は困惑する。
「あ、あの、聞いてもよろしいですか?」
「なんだよ、ザイン。お前、しつこいぞ」
「その、さっきから言っているザインって、一体何のことですか?」
男はポカンと口を開けた。
「……お前、大丈夫か? さっきから様子が変だぞ。喋り方もおかしいし」
男は、少し気味悪がっている様子である。
「私の話し方、何かおかしいですか?」
男の方に歩み寄ろうとすると、男は手を前に出して佐和子を制する。
「寄るなよ、気持ちわりい。ザイン、お前、頭ぶつけておかしくなっちまったんじゃないのか?」
男の言い草に、佐和子はだんだん腹が立ってきた。
「だから、そのザインっていうの、一体、何のことですか?」
「ザインはお前の名前だろうが。自分の名前を忘れちまったのかよ」
今度は佐和子が目を丸くした。
「私は、そんな名前じゃありません。私は清水佐和子です。人違いです」
「シミズサワ?」
男は怪訝そうに首をかしげる。得体の知れないものを見るような目で、佐和子を警戒している。
――一体、どうなってるの?
男は人違いをしている。佐和子をザインとかいう誰かと勘違いしているのだ。しかし、名前の雰囲気からして外国人のようだが、外国人と佐和子を間違うなんてこと、あるのだろうか。
その時、どこかから悲鳴のような声が聞こえた。
「何?」
困惑する佐和子をよそに、男は軽く口笛を吹いた。
「始まったか。俺も早くあっちに混ざりてえな」
背筋を撫で上げられたような悪寒がした。何か、嫌な予感がする。
佐和子は悲鳴が聞こえた方へ向かって走り出した。後ろから男が佐和子を呼び止める声がしたが、佐和子は止まらなかった。
――あれ、なんかやけに体軽いな。
いつもより力強く地を踏みしめる足に違和感を覚える。
奥に進むにつれ、声はやがて、ハッキリと聞こえてきた。どうやら、複数人のようだ。鈴のような女の子の悲鳴と、下卑た男達の声が混じり合って聞こえてくる。扉のない、ある部屋の中から、それらの声が聞こえてきた。佐和子は息を飲み、入り口から、部屋の中の様子をそっと覗いた。
松明だけで照らされた薄暗い部屋の中に、複数人の男達が集まっていた。さっき、佐和子と一緒にいた男同様、皆、耳が尖っている。粗野な風貌の男達が、一人の少女を取り囲んでいる。
「よ、寄るな! 野蛮な魔族め!」
まだ15歳に満たないくらいの少女が、震えた声で威嚇する。しかし、そんな威嚇には何の効果もなく、男達はむしろ面白がってゲラゲラと笑った。
――マゾク? もしかして、魔族?
少女は、男達のことを、そう呼んだ。佐和子は改めて男達を観察する。尖った耳に、凶悪そうな風貌。確かに、ファンタジー映画や、ゲームなどで見る魔族と類似している。
少女はなおも吠える。
「わ、私は、勇者ウィルである! お前達を退治するために来た!」
佐和子は思わず、ずっこけそうになった。
――ちょっと待って。あの子、今なんて言った?
勇者? 勇者って言ったの?
佐和子は改めて少女を見た。華奢で小柄な、とても可愛らしい容姿の女の子である。ふんわりとした栗色の長い髪は、毛先がクルンと丸くなっており、リスの尻尾を連想させる。小動物然とした愛らしい美少女が、その小さな両手で抱きしめるように持っているのは、彼女に不似合いな、武骨な剣。
「お、お前達なんか、この伝説の剣の露にしてくれる!」
言葉だけは威勢が良い。しかし、その大きな剣は、どう見ても彼女に扱えるような代物には見えない。両手で持っているだけで精一杯のようで、持ち上げようとするたびに、少女の体はフラフラとふらついた。
――あーあーもう、あんな刃物なんか持って、危ないじゃないの。
危なっかしくて、見ているだけでハラハラしてくる。
次の瞬間、男の一人がウィルと名乗る少女から剣を取り上げた。
「あ!」
少女は手を伸ばしたが、男は少女の手の届かない高さに剣を掲げ、嘲るように笑った。
「こんなぼろっちい剣で、何ができるんだよ」
周りの男達もゲラゲラと笑う。少女は目に涙を溜めて、肩を震わせている。
――どういう状況なの、これ。
彼らの言葉通りに受け取れば、勇者を名乗る人間の少女が、悪い魔族達に囲まれて、絶体絶命のピンチに陥っているように見える。しかし、現代日本でそんな状況に出くわすこと、ある? 漫画じゃあるまいし。
――あ、そっか。これ、きっと、そういうイベントだ。
おそらく、漫画かアニメのイベントで、コスプレした人達が、役になり切ってセットの中で遊んでいるのだ。特撮にしては、周りに撮影機材やスタッフがいないし。
――って、じゃあ、なんで私がそんな場所にいるのよ。
いくら何でも無理がある。それに、目の前の彼らの様子を見ると、とても遊びには見えない。
――第一、私は死んだのよ。
会社は7階建て。その屋上から転落し、頭から地面に落下したのだ。よほどの奇跡でも起こらない限り、生きているとは思えない。
――じゃあ、ここは死後の世界?
だとすると、地獄だろうか。とても、天国には見えない。
その時、部屋の中から少女の悲鳴が聞こえた。見ると、少女が男の一人に押し倒されている。佐和子はギョッとした。周りの男達は、ニヤニヤしながら見物している。
「放して‼」
少女は必死で抵抗する。しかし、大の男に両手を抑えられ、完全に動きを封じられている。
「おい、早くしろよ。後ろがつかえてんだから」
「うるせえな、分かってるよ」
男の荒い息が少女の顔にかかる。少女の大きな瞳は、恐怖で塗りつぶされていた。
――ちょっと、これってマズいんじゃないの。
このままでは、彼女が男達に襲われてしまう。
もう呑気に見ている場合ではない。同じ女として、この状況を見過ごすことはできない。たとえ、どんなに危険だとしても。
佐和子の目の前で、今まさに行われようとしている行為のおぞましさ。佐和子は頭が真っ白になった。深く考える前に、佐和子は部屋の中に飛び込んでいた。
「あんた達、いいかげんにしなさいよ‼」
佐和子の怒号に、男達は一斉に振り向いた。突如、乱入していた闖入者に、男達はポカンとしている。その隙をつき、佐和子は少女を押さえつけていた男に、思い切り体当たりをした。油断していた男は突き飛ばされ、床に転がる。佐和子は男達と少女の間に立ち、男達を睨み付けた。
不思議と恐怖は感じなかった。あまりに異常な状況に出くわし、感覚が麻痺しているのかもしれない。あるいは、卑劣な犯行現場を目の当たりにし、頭が沸騰しているのかもしれない。とにかく、恐ろしく頭に来ていた。
「あんた達、こんなことして、恥ずかしいと思わないの? 最低よ、この人でなし‼」
男達が何やらザワついている。奇異なものを見るような目で佐和子を見ている。
――ん? なんか様子が変ね。
佐和子の怒号に恐れおののいているようには見えない。どちらかというと、気味悪がっているような反応。
「お前、どうしたんだ? 一体」
男の一人が怪訝そうに言った。佐和子は男を睨み付ける。
「何よ」
佐和子が喋るたびに、男達は気味悪そうな顔で囁き合っている。一体、何だと言うのだろう。
少女を押さえつけていた男が、落ち着いた声で言った。
「おい、落ち着け。心配しなくても、見張りのお前らにも後で回してやるよ」
「ハア?」
「だから、お前はさっさと見張りに戻れ。上にバレたら厄介だぞ」
言っている意味が分からない。
「何の話よ」
「クジで負けてふて腐れてんのか。しょうがねえな」
「だから、何の話よ!」
佐和子が怒鳴ると、男達がますます困惑で顔を歪ませる。
「お前、なんで、そんな喋り方をしてるんだ?」
男が顔を歪めながら言った。
喋り方?
さっきの男と言い、この男といい、一体、何を言っているのだろう。喋り方が何だと言うのだ。
湿った地下室に、変な空気が流れる。シンと静まった空間で、天井から滴る水音だけが、ピチョンピチョンと響く。部屋の至る所に天井から滴る水で小さな水溜りができており、水面が松明の灯りでゆらゆらと照らされている。そこに時折、波紋で歪む部屋の様子が映っている。
――ん?
佐和子は自分の足元にできた水溜りを見た。そこには、見知らぬ男の姿が映っていた。
尖った耳に、吊り上がった目。痩身だが、ゴツゴツとした体つき。れっきとした若い男の姿が、そこにはあった。
――誰これ?
佐和子は男が映った水溜りの水面を指先で触れた。すると、水溜りの中の男も指を差し出し、次の瞬間、水面が波紋と共に歪んだ。佐和子は自分の血の気が引いていくのが分かった。思わず、自分の顔と体を触る。
「……嘘でしょ」
それは、間違いなく男の体だった。耳に触ると、耳の先が不自然に尖っているのが分かる。
――これ、私だ。
男になっている。
佐和子は呆然と立ち尽くした。