キンキンキンはなろうの幸福を意味する
初めまして、月見山です。
このエッセイは、拙作 『女性とちゃんと向き合えない? 何か問題でも?』の宣伝のために書きました。
https://ncode.syosetu.com/n1164ev/
広告エッセイだと思って軽く読んでください。私の拙作を読んでいただくと私は舞い上がることでしょう。
近年のなろうとWEB小説界隈への批判は、定番ですね。最近も剣戟の描写をキンキンキンとやったということで、一騒ぎがありました。もちろん原典にあたらない杜撰な批判ばかりです。
しかし、私は、この批判される状況は、とても良いと思っています。
もし仮に、質が悪くて全編に至ってこういう描写があるような小説が投稿されていたら? 実はそれはとても良いことです。最近、多様性というと、うさんくささが出てきましたが、質が低いように思えるものでも投稿される状況は、まさしく多様性です。別の意味で言えばカオス(ケイオス)ですね。
そしてそういう質の悪そうなものに人気が集まることは、悔しいですが(本当に悔しいぞ ギリギリ)、健全なことだろうと思うのです。
それはまずい部分に目をつぶっても良い部分を認めてくださる良い方が多いことなのだろうと思うからです。
私が思うにカオスは参入障壁が低いときの状況です。そしてそれにもかかわらず、なろうの運営がそれなりにうまくいっている事は、書きたい物を書くのに好都合な状況なのです。実際、拙作は一切宣伝しなかったのに、評価までいただき本当にありがたく思っています。書きたい物を書きたいように書いて、読んでいただき、評価までいただいたのですから、それだけ数少ないけれども通じてくださった人が居るということですから。
キンキンキン事件は、原典はそうではないのですが、小説技法が巧みでなくても、発表する場があり、受け入れてくれる方々がいるという、たぐいまれなる幸運と善意の表れと私は思います。幸運と善意は、醜くて貧乏でも飢えずに幸せに生きていけるような、そういう馬鹿にされがちな格好で現れると思います。
美しいもの良いものでないものにも生きていける隙間がある幸福、私は大好きです。皆さんはいかがですか?