ショートショート008 電話
ひとりの女が、仕事帰りの夜道を歩いていた。
時計はすでに十一時を回っている。昼間でも人通りの少ないこの道は、夜遅くともなるとしんと静まりかえり、どことなく不気味だった。
しばらく歩いていると、突然、暗闇の中からひとつの人影が現れた。こっちを向いているが、すっぽりと覆面をかぶっていて、顔はまったくわからない。
あっと叫び声を上げようとした瞬間、後ろからくぐもった声が聞こえた。
「さわぐな。もしさわいだら、このナイフがどうなるかわかるな」
女の喉もとで、街灯の明かりを反射したナイフが鋭く光っていた。どうやら、前の一人はおとりで、もう一人が後ろから女をつかまえるという算段だったらしい。声がくぐもっているのは、きっとこいつも覆面をかぶっているからだろう。
女はそのまま目隠しをされ、猿ぐつわをかまされ、手足も縛られたうえ、あらかじめ用意されていたらしい車のトランクに放り込まれた。二人組が車に乗り込み、鈍くエンジン音を立てて動き出す。
女はトランクの中で、どうしてこんなことになったのかを考えていた。特に貯金があるというわけでもないし、親が資産家だというようなこともない。目的がさっぱりわからない。
犯人の声にも、心当たりはなかった。何せ、くぐもっていてよく分からなかったのだ。男のようでもあり、女のようでもあった。
だが、今はそれどころではない、と女は気づいた。早く、どうにかしてここから逃げ出さないといけない。
そこまで考えて、ふと、ポケットの中に携帯電話が入っていたことを思い出した。バッグは奪われていたが、たまたま、携帯電話はパンツスーツの中にしまっていた。
女は後ろ手に縛られていたが、身をよじってどうにか携帯電話を取り出した。ボタン式の携帯電話を開き、かけるべき番号を考える。警察? いや、猿ぐつわもされている状態では、何も話せない。きっと、いたずら電話だと思われて切られてしまうだろう。何せ、うなり声くらいしか上げられないのだ。それでも状況を分かってくれそうな人というと……。
女の脳裏に、一人の女友達の姿が浮かんだ。昔からの親友で、昨日も遊んだところだ。思いつきでテーマパークへ行って、さんざんはしゃいだ。ごはんを食べながら、会社のぐちを言いあい、流行のファッションの話や、話題の新曲の話、最近気になる相手ができたという話をしたりした。
彼女なら、わたしが何か危険なことに巻き込まれていると、わかってくれるかもしれない。
女は、焦りと恐怖心を無理やり抑えつけながら、すっかり暗記していた親友の番号をダイヤルした。ボタン式というのは便利だな、などと場違いなことを考えつつ、どうにか番号を入力し終えた。
そして、発信ボタンを押す。小さく、コール音に代わる音楽が聞こえ始めた。昨日言っていた、話題の新曲だった。
そういえば昨日、親友が「コール音も着信音も一緒にしてみたよ」と言っていたなと、女が思った、その直後。
話題の新曲が、車の運転席のあたりから鳴り響き始めた。