06
「はあ。じゃあ、野良の魔法使いって事ですね。」
キコは呟きながら、コートのポケットからティッシュを取り出し、今更ながら口を拭く。
「そうそ――ってええ!?口拭く!?って言うか、そんなの持ってるなら僕に頂戴よ。」
「……家から持って来れば良いじゃないですか。」
キコは冷たい目でそう告げると、「帰宅が遅くなると家の者が心配しますので」とその場を犬とともに立ち去ろうとした。
「ちょっと待ってよー、あ、なんか傷が塞がって痛覚が戻って来たみたい……って、痛いよー!!!」
晴が頭を押さえてもんどりうち始める。
「演技でしょうか、本気でしょうか。」
キコはモモエを見下ろしながら言った。
「どうします?今度こそ、救急車呼びます?」
「呼ぶ?これ、呼んだ方がいいと思う?その場合、事情話すのに一緒に同乗してくれる?」
「嫌です。」
「じゃあ、そのワンコで良いから、ちょっと僕の方来て。」
「何しようって言うんですか?あっ!!!」
恐らく先ほどの魔法を犬で試そうとしているのだろうと察しがついたキコは、座ったままの晴にモモエを近づけないように脚で通せんぼした。
「うちのモモエさんをキズモノにしないで頂けます?」
「ええーだって」
「だってもヘチマもありませんよ。曾祖母に申し訳が立ちません。」
「じゃあ、もう一回させてよ。」
「嫌です。」
「なんでーー!!すっごく痛いのに―!!」
「傷は塞がっているようですし、しばらく横になっていれば大丈夫じゃないですかね?」
「大丈夫と思う?」
「はい。」
キコは根拠は全く無いもののしっかり頷いた。
この場から離れたい一心で適当なことを言っているのはバレバレなはずだったが、晴にはそれが全く分からないらしい。
「そうかも?」
「そうですよ。では、私たちはこれで。」
キコがやっと解放される思いで立ち去ろうとした時、晴も階段の手すりに捕まりながら生まれ立てのヤギの様にグラグラした足取りで立ち上がり、「ありがと」と手を差し伸べた。
「いえ、こちらこそ…」
すみません、と言いかけてキコは硬直する。
手には、晴の血が夥しく付着していたのだった。
本人もそれに気付いたらしく、急いでコートのポケットに手をしまうと、何も無かったかのように笑って
「じゃあねー、ワンコも。」と言った。
これを見て、キコは溜息を吐く。
「わざとやってるんですか。」
と睨みあげながら苦々し気に漏らし、晴の襟ぐりを引き寄せて先ほどの魔法を遣わせる為に口を合わせた。
しばらくそうした後、晴がキコの両肩を掴んで身体を離す。
「ねえ、何で睫と眉毛が黒くないの。」
「はああああ!?」
礼よりも先に、晴が思いもよらなかった言葉を発したので、キコは古典的お笑い番組さながらに
椅子から芸人が身体を雪崩させるリアクションを繰り出すところだったが、ここは階段で危険なのでそれは思いとどまった(誰かさんの二の舞にはなりたくなかった)。
「それは、関係ないでしょう。」
「えー、だって変だよ。マスカラじゃないし、眉だけ脱色してるってわけでもないよね?」
「そんなことより、お身体はどうですか」
「あー、そう言えば!!さっきまでの激痛が嘘みたい!!えー、ほんとこんな事が出来るなんて凄くない?」
「ですね。では、私はこれで。」
キコは一礼すると無機質な音を立てて鉄の階段を降りていく。
「ありがとーねー!!」
晴が手摺の柵の間から、顔を出してキコとモモエに手を振ったが、キコはそれに返事をすることなく帰路を急ぐ。